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第468話「生きとし生けるもの達へ」

ソルヴィア跡地でも、スフィリアでも、スアーガでも――空から聞こえる天使のような歌声に、多くの動物たちが、人間たちが上を見上げていた。


鳥たちが羽ばたきを止め、獣たちが鼻先を上げる。風が止んだように静かになる。耳を澄ます。心を澄ます。


変わらず空は黒い――重く垂れ込めた、出口のない闇。けれど。


その声は、その黒さを忘れさせるほどに優しく、温かいものだった。


まるで母の腕に抱かれたときのような――皮膚に触れる柔らかさ、胸に伝わる鼓動の温もり。歌声が空気を震わせ、肌を撫で、胸の奥底まで染み込んでくる。


「この声は、セリア殿の……!」


声が震えている。喉の奥が熱い。


「おぉ……なんと美しい声だ。

痛みを忘れてしまいそうだぞ」


ギルザの言葉に頷くことしかできなかった――声が出ない。喉が詰まる。けれど、涙は流れる。


頬を伝う温かさ。先ほどまで受けていた傷が、痛みが、不思議なことに、感じられないのだ。


欠損した四肢――本来ならばそこにあるはずの腕、足。幻肢痛すら消えていく。


まるで健常だった時のそれと大差ないというように、動かせるような気さえしていた。指先が、動く気がする。存在しない膝が、曲がる気がする。


彼女の歌にはそれがある。すべての生命の、心の棘を優しく引き抜いてくれるような、温もりが――傷口に触れる柔らかな手のひらのような。


スフィリアでも――


「……ユーゼフ、聴こえる?」


空気が震えている。肌がざわつく。


頷き、声を零す――かすれた、けれど確かな声。


「綺麗だなぁ……はじめて歌を聴いて、そう思えた……達する!」


胸の奥が熱い。鼓動が速くなる。フレイヤの槍に守られた2人も、その心地良さに胸を打たれていた――まるで温かい水に浸かったような、全身の力が抜けていくような安らぎ。


彼らを守り抜いていた彼女も、思わず笑みを零す――唇が、久しぶりに緩む。頬の筋肉が動く。


笑うという行為を、いつぶりにしただろう。


「希望の歌……か、かくも美しいとはな」


息を吸い込む。空気が、いつもより甘く感じる。肺が広がる。胸が温かい。


スアーガでも――


「──セリアさんが、歌っている!」


レベッカの瞳に涙が溜まる――視界が滲む。けれど、それは悲しみの涙ではない。喜びの涙だ。


温かい液体が目尻から溢れ、頬を伝い、顎を伝い、首筋へと流れ落ちる。


「不思議と力が湧いてくるわ!はははは!」


半裸のネメアが大きな声で笑う――その笑い声は、空気を震わせ、周囲の者たちの胸にも響く。


腹の底から湧き上がる笑い。体が震える。肩が上下する。肺が空気で満たされ、吐き出される。生きている実感。


「言葉にできないってのは、こういうことか」


ケリィも、胸の内が熱くなり――心臓が、まるで太鼓を叩くように激しく脈打つ――瞳を閉じて笑みをこぼした。まぶたの裏に、光が見える気がする。温かい光。


そして、その歌声は神々の国ソラリスでも――


「ふ、人間の声にしては、上場ではないか、なあスサノオ?」


シヴァの声に、普段にはない柔らかさが滲む。喉の奥が、わずかに震えている。


「至宝と言って差し支えあるまい。我らの心に、こうも訴えかけるとは……」


スサノオの声も、いつもの荒々しさの奥に、何か温かいものが宿っている。胸の奥が疼く――それは痛みではない。懐かしさに似た、けれど痛みに似た、不思議な感覚。


シヴァとスサノオのやり取りに、側にいた霧雨間宵も、深く頷いた――首を動かす感覚。髪が肩に触れる。


「えぇ……素晴らしいものです。

まだ、戦える気さえしてきます」


拳を握る――手のひらに爪が食い込む。痛い。けれど、それは生きている証だ。


「ははは!いいな!実を言うと俺も同じことを思っていた!」


全ての生きとし生けるものたちが、その歌声に耳を傾けていた。風が止み、葉擦れの音も消え、世界がその歌声だけに満たされている――まるで世界全体が、ひとつの楽器になったように。


◇◇◇


「……俺たちの心にも聴こえてくる!セリアさんの歌声が!」


ルークの声が弾む。胸が高鳴る。鼓動が耳に響く。


「……流石だ、やってくれたぜ!」


アデルバートの声も、普段の落ち着きの奥に熱いものが滾っている。拳を握りしめる――骨が軋む音。筋肉が震える。


地球の生命に歌声が届いたのならば、ルークやアデルバートたちにも届かないという道理はない。


頭に、心に、まるで側にでもいるというように、彼女は歌っている――耳だけでなく、肌で、骨で、血で感じる。全身の細胞が震えている。


"こいつら……なぜ諦めない!?"


クトゥルフの声に、初めて動揺が滲む――それは怒りではなく、恐怖に近い何かだ。


「たかが人間の想いなど、塵以下よ!」


クラフトの叫び――喉が裂けそうなほどの絶叫。声帯が震え、空気が歪む。


クラフトがその身に瘴気を纏い、異形の邪神と化した。肉が膨れ上がり、骨が軋み、皮膚が裂ける。


変貌する肉体から、焼け焦げたような臭いと、腐敗臭が漂う。名も無き怪物へと――もはや人の形をしていない、禍々しい何かへ。


"歌など掻き消してやればいい!"


その咆哮が、空気を震わせる。耳が痛い。鼓膜が破れそうなほどの音圧。


〈そうはさせんよ、クトゥルフ!〉


ナイアーラトテップの声――冷たく、けれど確かな意志を持った声。


邪悪な槍が、邪悪を貫く。肉を裂く音――湿った生々しい音。


白き少女が、笑みを浮かべる。

その笑みは、美しくも恐ろしい。


深々と槍を押し込み、ねじ込んでいた。骨を砕く感触。肉が抵抗する手応え。


"ナイアーラトテップ、この裏切り者が!"


クトゥルフの叫び――それは痛みと怒りの入り混じった、獣のような咆哮。


〈裏切り……?違うな、私とキサマとでは価値観も立場も異なるのだ。そのような言葉、聞くに値せぬよ〉


ナイアーラトテップの声は、冷静さを失わない――それがかえって、恐ろしい。


クラフトは苦悶に顔を歪めながらも――顔面が痙攣し、目が血走り、歯を食いしばる――ナイアーラトテップの槍を無理やり引き抜く。


肉が裂ける音。血が迸る――熱い、黒い液体が空中に飛び散る。その匂いが鼻を突く――鉄と硫黄が混ざったような、吐き気を催す臭い。


「ククク……勝ったつもりか?小娘の身体で、どれだけの事ができる?」


クラフトの声――喉の奥から絞り出されるような、嗄れた声。血の味が口の中に広がる。


「ふむ──」


ナイアーラトテップは槍から手を離す――指先が槍の柄から離れる感触。その瞬間。


瘴気が黒き雷に変わる。


空気が裂ける――ビリビリと、肌を刺すような静電気。


髪が逆立つ。次の瞬間、黒い閃光がクラフトへと放射される――光なのに黒い、矛盾した存在。それは視界を焼く。網膜に黒い残像が焼き付く。


雷が全身を駆け巡る。


「ガアアアアアッ!」


クラフトの絶叫――それは言葉ではない、ただの悲鳴。


皮膚が焼ける。肉が焦げる。神経が焼き切れる――けれど、痛みは消えない。


痛覚だけが残る。全身の細胞が、一つ一つ、焼かれていく感覚。骨の髄まで電流が流れ込む。


歯が軋む。舌を噛みそうになる。体が痙攣する――


自分の意志とは無関係に、筋肉が収縮し、弛緩する。呼吸ができない。肺が動かない。心臓が不規則に脈打つ。


激痛──


それは言葉で表せない――焼かれる痛み、裂かれる痛み、砕かれる痛み、すべてが同時に襲ってくる。意識が飛びそうになる。けれど、痛みが意識を繋ぎ止める。


「軍師のくせに、私が一人で物事に打ち込むとでも思っているのかね?」


ナイアーラトテップの声――冷たい。氷のように冷たい。けれど、その奥に熱い嘲りが潜んでいる。


「その頭と中身は飾り、いや、もはや形すらないか。

そのナリではな──」


ナイアーラトテップが嗤う。まるで見下したように――視線が、上から下へと流れる感覚。


自分が上であるかのように――その笑い声は、鈴を転がすように美しく、けれど刃のように鋭い。空気を切り裂く笑い声。耳に突き刺さる。


「キサマぁ!」


クラフトの咆哮――もはや理性はない。喉が裂けそうなほどの叫び。唾が飛ぶ。目が血走る。血管が浮き上がる。


クラフトはもはや、思考を放棄した――頭の中が真っ白になる。いや、真っ赤になる。


怒りだけが、すべてを支配する。眷属たちを総動員させ――精神の糸が、無数に伸びていく。


歌を拡げているクレイラへ狙いを絞り出して攻めろと指示する。


眷属たちが動く――地を蹴る音。翼を羽ばたかせる風。牙を剥く音。無数の殺意が、一点に向かって収束していく。


しかし──


「軍師が力押しとは、くだらない!」


レオンの声――それは怒りではない。嘲笑だ。脚が空気を切り裂く。眷属の肉を断つ――骨まで両断する手応え。黒い血が飛び散る。


「その看板、下げたら?」


ロニの声――若さゆえの挑発的な響き。けれど、その拳は確かだ。


眷属の頭を砕く――頭蓋骨が潰れる音。湿った、鈍い音。脳漿が飛び散る。


「まだ私のほうがまともな指示出せるよ?」


レネの声――姉よりもさらに辛辣。槍が眷属を貫く――抵抗を感じない。柔らかい肉を突き通す感触。心臓を貫く。


体が痙攣する。そして、動かなくなる。


レオンが、ロニが、レネが――3人の息が合っている。声を出さずとも、視線だけで意思疎通する。その眷属たちを悉く打ち破る。


もはや策とも呼べない力押しは、3人によって根本から叩き折られた。


眷属たちが次々と倒れる――地面に崩れ落ちる音。肉の塊が積み重なる。血が地面に染み込む。死臭が立ち込める。


「ふん……!テメェの息の根はこっちで止めてやる。原型すら残さず散れ!」


ベルフェルクの声――その声には、灼熱が宿っている。


彼らの上空で黄金が疾駆した。


まず、光が見える。目を焼くような――いや、目を閉じても瞼の裏に染み込んでくるような――黄金の光。それは太陽そのもの。


いや、太陽よりも眩しい。空気が歪む。熱波が押し寄せる――肌がじりじりと焼ける。汗が噴き出す。喉が渇く。呼吸するたび、熱い空気が肺を焼く。


セクメトの神性を解放したベルフェルクは――もはや人の姿ではない。ファラオの如き金の装飾――それは単なる装飾ではない。


生きている。脈打っている。太陽のエネルギーを纏っている――から太陽のエネルギーを放射しながら、クラフトへと接敵する。


空気が震える――いや、空間そのものが震えている。重力が歪む。光が曲がる。音が遅れて聞こえる。


"ベルフェルク・ホワード……!"


クラフトの声に、初めて恐怖が滲む。喉が震えている。息が荒い。心臓が早鐘を打つ。


「ここでシロクロ付けてやる!クラフトぉぉぉ!」


ベルフェルクの咆哮――それは獅子の如き咆哮。大地が震える。空気が震える。心臓が震える。


その声だけで、眷属たちが怯む。本能が、逃げろと叫ぶ。


黄金の拳が、迫る――それは隕石のように。いや、太陽そのものが落ちてくるように。熱い。眩しい。速い。避けられない。


瞬間、彼の一撃が、クラフトの神紛いの心臓を打ち砕いた──

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