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第467話「闇を払う想い」

世界が、音もなく冷たい灰の泥に沈んでいく。


粘りつくような瘴気が肌に触れた瞬間、氷の指が這うような悪寒が背筋を駆け上がる。


それは単なる冷たさではない――生命そのものを吸い取られる感覚。


骨の髄から熱が抜け落ち、指先から感覚が失われていく。


動かそうとしても、まるで石膏で固められたように重く、鈍い。


喉を焼くほど乾いた風が吹き抜ける。舌が張り付き、唾を飲み込もうとすれば針で刺されるような痛みが走る。


空気は砂のようにざらつき、一息吸い込むたび、肺の奥底に鈍い刃物で切られるような痛みが残る。


遠くで誰かが咳き込む音がした――湿った、血が混じったような音。


それすらも、もう生の音とは思えなかった。死にかけた獣の断末魔にしか聞こえない。


土埃と、焼け焦げた何かと、腐敗した絶望の匂いが鼻腔を刺す。吐き気がこみ上げる。


けれど吐き出すものすら、もう体の中には残っていない。


世界の色は、すべて鉛に溶けたような灰だった。目に映るものすべてが、輪郭を失い、ぼやけて滲んでいく。


――その沈黙の底で。


セリアの唇が、ひとひらの花弁のように震えた。唇は乾いてひび割れ、動かすだけで小さな痛みが走る。


それでも、彼女は息を吸い込んだ。胸が張り裂けそうに痛い。肋骨が軋む。けれど、その痛みの奥底から、何かが湧き上がってくる――温かく、柔らかく、けれど揺るぎない何か。


吐息が漏れる。最初の音は、闇の海に落ちた一粒の光。か細く、震えて、今にも消えそうなほど儚い。


けれど確かに、凍てついた空気をひび割らせていく。音が空間に触れた瞬間、世界が息を呑んだような静寂が訪れる。


声ではなく、祈り。言葉にならない旋律が、魂の奥底から零れ落ちた――それは温かい液体のように、ゆっくりと、優しく、傷ついた心に染み込んでいく。


「……なんだ、この音は……?」


すすけた顔の男が、ぼんやりと顔を上げた。瞳の奥の灰色の膜が、わずかに揺らぐ。瞳に映るのは戸惑い――久しく忘れていた感情。


"美しい"という記憶。胸の奥底、凍てついて動かなくなっていた何かが、小さく疼き始める。


「歌……? 今、歌ったのか……?」


だが次の瞬間、荒々しい怒声がそれを裂いた。


「ふざけるなッ!」


若い男が立ち上がる。膝が震え、立つだけで全身の筋肉が悲鳴を上げる。焦点を失った瞳に、絶望が巣食っていた。喉の奥が熱く焼ける。


唇が震え、喉が嗚咽で詰まる。胸の中で何かが破裂しそうになる――怒りなのか、悲しみなのか、もうわからない。ただ、熱い塊が喉を突き上げてくる。


「こんな時に歌だと!? 俺たちがどれだけ……ッ! 仲間が、どれだけ死んだと思ってるッ!」


声は怒りよりも、泣き声に近かった。喉が裂けそうなほど絞り出した叫び。その叫びに、別の女の甲高い声が重なる。


「そうよ! あんたに何がわかるのよ!」


悲しみが形を失い、怒りへと変わる。人の心が壊れる音が、確かにその場に響いた――ガラスが砕け散るような、乾いた、痛々しい音。


セリアの声が一瞬、羽をもがれた蝶のように揺らぐ。喉が締め付けられ、息ができない。胸が軋む。


心臓が、激しく、不規則に脈打つ。恐怖が背筋を這い上がる。けれど――止まらなかった。


彼女は目を閉じ、震える喉を押し開く。想いを込める。祈るように。涙が頬を伝い、唇に触れる。塩辛い。

けれど、その涙すらも温かい。


アデルバートの穏やかな微笑みが脳裏に浮かぶ。


かつて極寒の国で、自分の歌に涙し、笑ってくれた人々の温もり。


あの時の、手のぬくもり――粗く、ひび割れた手のひらだったけれど、あんなに温かかった。その温もりを、今、ここにいる人々に届けたい。


歌は、届く。そう信じて、セリアは声を放った。


シンディは息を呑み、その姿を見つめていた。瘴気が体にまとわりつき、皮膚がぴりぴりと痛む。


意識が沈みかけていた――暗い水の底に引きずり込まれるような感覚。けれど、旋律が耳から入り込んだ瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。


それは最初、蝋燭の炎のように小さく、頼りない。けれど、その火はゆっくりと広がり、凍えた心臓を温めていった。血液が温まり、指先に感覚が戻ってくる。


――そのとき。


母親の腕に抱かれ、ぐったりとしていた赤ん坊が、ふいに泣き止んだ。音もなく。濁っていた瞳が、ゆっくりとセリアの方を見つめる。


その瞳が、わずかに光を宿す――まるで、雲間から差し込む一筋の光のように。


ふわり、と。


ひび割れた大地に、ひとつの花が咲くように――赤ん坊の口元が、笑った。小さな、けれど確かな笑み。


「あ……」


母親の喉が震える。声にならない嗚咽が洩れる。涙が溢れ、視界が歪む。


この子が笑ったのは、いつ以来だったろう。瘴気が満ちてからというもの、あの子の顔は石のように固く、何の表情もなかったのに。


温もりを失った人形のようだったのに。


忘れていた"命の証"が、今、目の前で息を吹き返している。胸の奥が熱い。痛いほど熱い。けれど、それは温かい痛みだった。


「お母さん……」


幼い兄が母の服を掴む――小さな手が、服の布地をぎゅっと握りしめる感触。母親が見下ろすと、その子の瞳はもう濁っていなかった。


泉の底のように澄みきった光が、そこにあった。


「……きれいな、うた……」


その囁きは、森全体を包むように広がっていく。叫びよりも強く、涙よりも深く。その純粋な声が、瘴気よりも重い絶望を貫いた。


激昂していた男は、唇を開きかけ、何も言えずに俯く。


喉の奥の熱い塊が、ゆっくりと溶けていく。女もまた、ただ黙ってわが子を抱きしめた――小さな体の温もりが、腕の中にある。生きている。この子は生きている。


空気が変わる。重く澱んでいた空気が、わずかに軽くなる。呼吸がしやすくなる。


子どもたちが次々と顔を上げる。涙と垢にまみれた頬、けれどその瞳には――夜明け前の星のような光が灯っていた。


ひとつ、またひとつと灯るその光が、濃密な闇を押し返していく。


誰もが気づいていた。セリアの歌が、世界の"終わり"を拒んでいる。生きようとする心の声が、歌となっているのだと。


大人たちは、もう何も言えなかった。ただ、その静かな奇跡を見つめていた。頬を伝う涙が、あたたかかった――


それは、ずっと忘れていた"生きている"という感覚そのものだった。涙の塩味が唇に触れる。心臓が、規則正しく脈打っている。胸が上下する。息ができる。生きている。


◇◇◇


「──これは!」


クレイラは攻撃を避けながら、胸の中に灯る暖かな想いがあることに気が付いた。それは春の陽だまりのような、優しく包み込む温もり。


瘴気の風が、彼女を避けるようにして通り過ぎていく――肌を撫でるように、けれど傷つけずに。


「クレイラ、どうした?」


レオンが攻撃を叩き込み、ヒットアンドアウェイでクレイラの隣へと着地する。靴底が地面を叩く音。彼の荒い息遣い。


「……人々が、希望を持ち始めている」


心臓の鼓動が、人々の温もりと共鳴している。数え切れないほどの命の鼓動が、彼女の胸の中で響き合っている。


「……希望を?」


クレイラはこくり、と頷く。この全身の温かな感覚――皮膚の内側からじんわりと広がる熱。


これは、セリアが心の絶望を拭い去ってくれているに違いない。そう思えたのだ。


「クレイラ──」


彼女の受けた想いに、レオンは一筋の策を思いついた。目が鋭く光る。


「君のその想い、すべての世界に届けられないか?」


彼女は地球の化身だ。地球にいるあらゆる生命の感情を、手に取るように感知できる――喜び、悲しみ、恐怖、希望。


すべてが彼女の中で脈打っている。それは、ルルイエにいたとて変わらない。


レオンのその策に、クレイラは目を見開き、微笑んだ。


「うん、やってみる……!」


「よし、俺たちで君を守る。瘴気も近づかせはしない!ロニ、レネ!聞こえたな!?」


彼の声に、二人は強く頷いた。握りしめた拳が震えている――恐怖ではない、決意の震えだ。


父と娘達は、母を守るために彼女の周囲に散開した。


「喰らえ!」


「燃えろ、クトゥルフ!」


嵐の如き烈風――肌を切り裂くような鋭い風。煉獄の業火――熱波が空気を歪ませ、肺が焼けるような熱さ。それらがクトゥルフに叩きつけられる。


しかし、彼の傷は、人類の絶望により即座に治癒していく。


「させん……!アデル!」


「ああっ!」


「へへ、俺たちも手を貸すぜ!」


「任せな!」


アデルバートとヨルムンガンドは呼吸を合わせ、神をも苦しめる毒を体内から吐き出した。


喉が焼ける。口の中に苦い、金属的な味が広がる。空間で一つに交わるそれは、紅い死毒となってクトゥルフの赤い目に直撃した。


"ククク、効かぬわ!"


「目潰しできれば充分だ!」


闇を供給し、慢心しているクトゥルフへと、追撃するように視線を向ける。


「飛ばすぞ、イングラム!」


巨人の名を誇る彼は、イングラムを抱きかかえ――体の温もりと重みを感じながら――クトゥルフへと突貫させる。


「手を貸すよ!」


圧倒的加速度――体が押しつぶされるような圧力。


風が顔を叩く。目が開けられない。それは、ルークの神風も混ざり合い神速をも凌駕した。


グングニルの一撃の刺突を、神核に叩きつける。槍が肉を裂く感触。骨を砕く手応え。


"……!"


毒をかき消し、目を見開いたクトゥルフは、その触手でイングラムを弾き飛ばした。


体が宙を舞う――無重力の浮遊感。そして、激突の衝撃。


「おっと、大丈夫か?」


ライルがそれを受け止める――がっしりとした腕の感触。


光のマナが、受けた傷を治癒してくれた――痛みが引いていく。傷口が温かく、むずがゆい。


「ありがとうございます!」


ライルは肩を優しく叩き――手のひらの温もりが肩に伝わる――気持ちを鼓舞してくれる。


仲間たちも、傷ついてはいるが、諦めてはいない。体は痛む。息は荒い。けれど、心臓はまだ力強く脈打っている。立ち上がれる限り、戦い続ける意思があった。

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