第466話「失意の底で」
月神ツクヨミの銀光が舞い踊る中、血と汗が混じり合った戦場の匂いが鼻を突く。太陽神アマテラスの放つ黄金の光輪が、墨を流したような闇を切り裂いていく。
その神々しい輝きに照らされて、ギルザの青ざめた顔に一筋の血が伝い落ちた。シュラウドは震える手で友の肩を支え、生きている温もりを確かめるように強く握りしめた。
赤子たちの断末魔が途絶え、不気味な静寂が訪れる。しかし空を見上げれば、そこには先ほどよりも濃密な、まるで生きているかのような闇が脈動していた。
それは巨大な心臓のように収縮と膨張を繰り返している。それは病に侵された肌のように、大地が徐々に腐敗していく様が目に見えるようだった。
「クレイラ殿は──」
シュラウドの声が掠れる。星の化身である彼女の苦痛が、まるで自分の胸を締め付けるように感じられた。邪悪の根源ルルイエに、イングラムたちと共に飛び込んでいった彼女。どれほどの恐怖と戦っているのだろうか。
絶望の声が、波のように押し寄せてくる。
「もうダメだ……おしまいだっ」
老人が膝から崩れ落ちる音。
「逃げるんだ、勝てるわけがない!」諦めの吐息が白く濁る。
人々の顔は土気色に変わり、目は虚ろに宙を彷徨う。いつから太陽を見ていないだろう。喉はカラカラに乾き、胃は空腹で締め付けられ、瞼は重く垂れ下がる。それでも眠ることはできない。闇の中から何かが這い出てくる恐怖に、互いの体温だけを頼りに身を寄せ合う。
「神様なら、どうにかしてくれよ!!」
若い男の怒号が響く。その声は恐怖で震えていた。
「そうよ!!そうよ!!」
女の金切り声が続く。
「そんな爺さん、放っておけ!そんなことよりも、五体満足な俺たちを守ってくれよ!」
醜い本性が剥き出しになっていく。恐怖は人を獣に変える。
「あなたたち──!」
アマテラスの美しい顔が怒りに歪む瞬間、ツクヨミの冷たい手がそっと姉の腕に触れた。「姉さん」その瞳には深い哀しみが宿っていた。彼らと同じ地平に立ってはいけない、と。
シュラウドの背筋に氷の刃が走った。
黒い人魂のようなものが、ゆらゆらと宙を漂っている。それは生者の温もりを吸い取るように、冷たく、おぞましく、確実に何処かへ向かっていく。
「絶望だよ」
ギルザの声は血の味がした。半死半生の彼の瞳だけが、恐ろしいほど澄んでいた。
「……俺たちにできることは、イングラムくんたちの負担を減らすために絶望しないことだ」
その言葉が胸に突き刺さる。怒り、悲しみ、憤り──すべての負の感情が邪神の糧となる。そして今、世界中から立ち昇る黒い絶望の煙。ユーゼフとノルンが守るスフィリアからも、レベッカとケリィが守るスアーガからも、命ある場所すべてから、希望の残骸が空へと吸い上げられていく。
「我々には、イングラム殿や、皆に祈る他ないのでしょうか」
シュラウドの声が震えた。
「悲観しないでシュラウド」
アマテラスの微笑みは、この地獄の中でなお、朝露のように清らかだった。その慈愛に満ちた声が、凍えた心に温もりを注ぐ。
「希望を失わないことだよ……彼らは必ず勝つ。そう信じることが大切なんだから」
その瞬間、シュラウドは感じた。張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩むのを。
「姉さん……上!」
ツクヨミの叫びが鼓膜を破る。
「黒い、霧?」
◇◇◇
「なに、どうなってるの……!?」
レベッカの瞳孔が恐怖に収縮した。
黒い霧が人々の口、鼻、耳から侵入していく。その瞬間、獣のような咆哮が響き渡る。人間が人間でなくなっていく音。魂が引き裂かれる音。希望が死んでいく音。
「ルルイエで形勢不利にでもなったか、クトゥルフめ、強行手段に走りおったわ!」
ネメアの声に怒りが滲む。
「どういうことだ?」
ケリィの問いに、ネメアは苦い表情を浮かべた。
「うむ、奴は内部で劣勢に陥るや否や、地上に魔の手を伸ばした。人間たちは、長く続く邪神の蔓延に疲弊している。失望し続け、やがて絶望し、希望を持たなくなる。奴はそれを知っている。西暦の時もそうだったからな」
「なるほど、それであの気色悪い黒が突然現れたってわけか」
ケリィの顔に理解の色が浮かぶ。
「私たちにできることはないんですか?」
レベッカの声が震えている。恐怖で、無力感で、それでも何かをしたいという焦燥で。
ネメアの大きな手が、優しくレベッカの肩を叩いた。その温もりが、凍えた心に染み込んでいく。
「お前たちが諦めぬことだよ」
「俺たちが……」
「諦めないこと?」
ネメアの瞳に、星のような輝きが宿った。力強く、確信に満ちた頷き。
「おうとも、ルークやベルフェルクたちが健闘しているというのに、地上にいる我らが先に諦めてどうする?それは、あの者たちへの侮辱に他ならん」
その言葉が、二人の心臓に火を灯す。そうだ、友が命を賭けて戦っている。その背中を信じずに、誰を信じるというのか。
「さあて、そのためにも皆の失意のどん底から引き上げねばな!おう、ヘラクレス!キサマも手伝え!」
「──」
沈黙の巨人が、ただ頷く。
「全く、こいつは相変わらず無口な男よなぁ……なぁ?」
レベッカとケリィは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべながら首を横に振った。この絶望的な状況でも、仲間がいる温もりを感じる。
「まあよい、四人で考えれば何か浮かぶであろうよ」
戦いが止んだ今、彼らにできることがある。希望の灯を、消させはしない。
◇◇◇
月も星も見えない。空は黒い布で覆われたように、完全な闇に沈んでいた。
ファクシー王国の大森林は、いつもなら木々の擦れ合う音、小動物たちの鳴き声、風が葉を揺らす囁きに満ちている。けれど今は、まるで森そのものが息を潜めているかのように、不気味なほど静まり返っていた。
土の匂いが濃い。湿った腐葉土、苔むした樹皮、そして—何か、腐敗したような甘ったるい臭いが混じる。それは黒い霧が運んできた、絶望の匂いだった。
木々の幹に手を触れれば、冷たく湿っている。いつもなら感じる生命の脈動が、今は感じられない。まるで森全体が凍りついたように、ひっそりと佇んでいる。
人々は木の根元や、倒木の陰に身を寄せ合っていた。互いの体温だけが、生きている証。震える肩、すすり泣く声、誰かの荒い呼吸。恐怖と疲労で、誰もが限界に近づいていた。
子供が母親の胸に顔を埋め、老人が膝を抱えて蹲る。若者たちは虚ろな目で宙を見つめ、もう何も信じられないという表情を浮かべている。
木々の隙間から、黒い霧がゆらゆらと這い込んでくる。それは意思を持つ生き物のように、人の温もりを探し、絶望を嗅ぎつけて忍び寄ってくる。触れられた者は、まるで魂を吸い取られるように顔色を失い、目の光を失っていく。
森の奥から、時折、何かが軋む音がする。木が倒れる音か、それとも—何か別のものが、闇の中を動いている音か。
誰もが、終わりを待っていた。
希望など、どこにもなかった。
「この雰囲気……ったく、こっちまで気落ちするぜ」
シンディが大木に背を預け、ずるりと腰を下ろした。樹皮の冷たさが服越しに染み込む。体が鉛のように重い。かれこれ数日はまともに休んでいない。瞼は焼けるように熱く、指先の感覚すら曖昧になっている。いかに生神の力があるとは言え、精神の摩耗までは癒やせなかった。心が、折れそうだった。
「シンディ様、ここで私たちが諦めてはいけません。アデル様たちに申し訳が立ちません」
セリアの声には、震えがない。
誰もが絶望し、シンディすらも失望しかけている中で、セリアだけは希望を捨てていなかった。その瞳には、まだ光が宿っている。愛する人が戦っているのに、嘆いてなどいられない。
「けどよ……もう手は尽くしたぜ?」
シンディの声が掠れる。喉が渇いている。水を飲んでも、渇きは癒えない。心の渇きだった。
「なにか、あるはずです……なにか──」
セリアの拳が、ぎゅっと握られる。爪が掌に食い込む痛みすら、彼女は気づいていないようだった。
治療、カウンセリング、衛生環境の管理──あらかたやることは尽くした。傷に包帯を巻き、熱を冷まし、涙を拭い、言葉をかけた。シンディの言葉は間違いではない。医者としては、もう何も残っていない。
だが、個人ではどうだろう。
医者としてではない、セリアとして、レティシア・ファティマとして、一人の人間として──何かできるはずだ。
心臓が早鐘を打つ。息が浅い。手が震える。それでも、胸の奥に何かが灯り始めていた。小さな、けれど確かな炎が──
そういえば、かつてこのような光景を見たことがある。
雪の国で、絶望に打ちひしがれていた人々を勇気づけたのを思い出した。白い雪に覆われた廃墟、凍えた人々、諦めに沈んだ瞳。あの時、自分にできたことは──
「歌……」
セリアの唇が、その言葉を紡ぐ。
「ぁ?」
シンディが顔を上げる。疲労で霞んだ目が、セリアを捉えた。
「お水を、いただけますか……」
セリアの声は静かだった。けれど、その響きには何か、確かな決意が込められていた。
シンディは一瞬、ぽかんとした顔をする。それから、ゆっくりと理解が広がっていく。
「……まさか、お前」
「はい」
セリアは頷いた。喉が渇いている。声が出るだろうか。でも、やらなければ。
シンディは黙って水筒を電子媒体から取り出し、セリアに差し出した。その手が、わずかに震えている。期待か、それとも不安か。
セリアは両手で水筒を受け取る。冷たい金属の感触が、掌に伝わってくる。一口、また一口と、ゆっくりと喉を潤していく。水が食道を通り、胃に落ちる感覚を、一つ一つ確かめるように。
そして──深く、息を吸った。




