第465話「終わらぬ悪夢」
暗黒都市ルルイエの深淵から、粘つくような憎悪が湧き上がる。腐敗した海藻の臭気と、千年の恨みが混じり合った瘴気が肺を焼く。
“愚かな……愚かなる虫けらめが……!“
大いなるクトゥルフの全身から、怒りが波紋のように広がっていく。触手の一本一本が憤怒に痙攣し、粘液が床石を溶かしながら滴り落ちる。まさか、ただの人の身でここまで追い詰められようとは——その屈辱が、古き支配者の誇りを引き裂いていく。
「クトゥルフ——!」
雷鳴のごとき叫びが、瘴気の渦を切り裂いた。
レオン・ハイウインドの声だと、その響きだけで心臓が理解する。
そう、始まりは一人の男だった。単身でこの禁忌の地へ踏み入った瞬間から、永年の計が音を立てて崩れ始めた。神を屠る者の刃の前では、眷属を地上へ送り出すことすら困難を極めた。
ガタノソアの石化の呪いをもってしても、今度は闇の力が牙を剥き、侵略の歩みを止めてしまう。
“全てが……貴様さえ存在しなければ……!計画は完璧だったというのに!“
「神が泣き言を吐くのか?ふ、笑わせてくれる!」
レオンの一撃一撃が、存在そのものを否定する破壊の嵐となって降り注ぐ。
邪悪への憤り、失われた者たちへの哀しみ、そして護るべきものへの想い——全ての感情が彼の剣に宿り、光となって闇を切り裂く。
「貴様ら古き者どもは、この俺が一匹残らず消し去る……!二度と蘇らせはしない!」
濃密な瘴気の奔流を、レオンはただ腕を一振りするだけで霧散させた。
その動作だけで、積年の怨念が風に散る塵のように消えていく。
「黒狼……!我に力を貸せ!」
〈いいだろう……心ゆくまで振るえ、レオン!〉
胸の奥底から湧き上がる漆黒の波動が、レオンの血管を通って全身へと広がっていく。
光のマナが慈悲と再生の輝きであるならば、闇のマナは終焉と永劫の虚無。
終わることなき苦痛を刻み続ける、深淵の力。
墨を流したような闇が、徐々に彼の肉体を侵食していった。だが、燃えるような紅の隻眼だけは、炎のように輝きながら邪神たちを射抜いて放さない。
万物が誕生する以前の原初の闇を宿した男は、知覚を超越した速さで大いなる者へと肉薄する。
「鬼神──」
ルルイエを満たす瘴気すら霞むほどの濃密な黒が、彼の両掌から溢れ、滴り落ちている。
闇に呑まれたかと思われた瞬間、その男は目前に現れ、手のひらで神の核を二度、穿った。
鋼鉄をも凌ぐ肉体が、羊皮紙のように裂け、崩壊していく。
焼けつくような苦痛が、血肉を侵食しながら、蟻の群れのように這い回る。
「黒掌──!」
締めくくりは両掌で露出した黒く変色した神核を貫く。
神を屠る力と、始原の闇のマナが融合し、古き支配者を滅ぼすに足る究極の一撃が炸裂したのだった。
レオンはその衝撃波を巧みに利用し、
空中で身を翻して地に降り立つ。
ナイアーラトテップを葬り去ったイングラムや、クラフトを退けたオーディンたちも、レオンの隣へと歩み寄った。
「……気を抜くな、まだ終わっていない!」
勝利を収めた男が、なお鋭い視線を緩めることなく仲間たちに告げる。
大地が唸る。ズズズ……と腹の底まで響く振動が、ルルイエの石畳を伝わって足裏から這い上がってくる。
粉々に砕け散った肉片が、まだ生温かい血飛沫を撒き散らしながら宙を舞う中、クトゥルフの咆哮が鼓膜を引き裂かんばかりに響き渡った。
"ぐおおおぉ……!おのれ、おのれレオン!"
怨念に満ちた声が空気を震わせ、肌がぞわりと粟立つ。
「奴が完全に再生し切る前に一撃を叩き込む!」
レオンの声には焦りが滲んでいた。砕けた肉片が既にぶるぶると震え、互いに引き寄せ合い始めているのが見える。
「ライル、合わせ技だ!呼吸を俺に合わせろ!」
「よし……!」
荒い息を整えながら、ライルがレオンの背に手を添える。兄弟の呼吸が次第にシンクロしていく。
「お姉ちゃん、私たちも!」
「……えぇ!」
レネの震える声に、ロニが力強く応える。
膝が石畳に触れる冷たさを感じながら、レオンとレネが片膝立ちになる。汗で濡れた掌を天に向けて掲げると、背後に立ったライルとロニの温かい手のひらが重なった。
兄弟の触れ合う掌から、光と闇のマナが螺旋を描いて立ち昇る。パチパチと電気が弾けるような音と共に、肌を刺すような熱気と冷気が同時に渦巻く。
姉妹の掌からは、風のそよぎ、炎の熱さ、水の冷たさ、雷の痺れ——四つの感覚が混じり合った色とりどりのマナが噴き上がる。髪が逆立ち、全身の産毛が総毛立つほどの力の奔流。
「イングラム、みんな!レオンたちに合わせて!」
5人の若き戦士たちの叫びが重なる。彼らの体から溢れ出すマナの熱が、周囲の空気を歪ませる。汗が蒸発し、白い蒸気となって立ち昇る。
五色のマナが二つの光線に吸い込まれていく。それは目を焼くほどに眩しく、しかし不思議と目を逸らすことができない美しさだった。
虹だ——誰もがそう思った。
光も闇も、熱も冷たさも、全てが溶け合い、胸を締め付けるような美しい一条の光となって空を切り裂いていく。
"ぐあああああああああ!!!!"
クトゥルフの絶叫が、内臓を揺さぶるような低音となって響く。腐臭混じりの風が吹き荒れる。
「行け!全力を出し切るんだ!」
レオンの喉が裂けんばかりの叫び。
「はい、レオンさん!」
若き戦士たちの声が一つになる。全身から最後の一滴までマナを絞り出す激痛に顔を歪めながら、それでも誰一人手を緩めない。
光線は更に収束し、針のように鋭く——
神核に突き刺さる。
ピキッ、と硝子が割れるような音。そして亀裂が走る音が、不気味なほど静かに響いた。
次の瞬間、轟音と共に神核が爆発する。熱風が頬を打ち、破片が雨のように降り注ぐ。
クトゥルフの断末魔が、ルルイエの壁という壁に反響し、地面を、空を、そして戦士たちの骨の髄まで震わせて響き渡った。
心臓が高鳴っていた。汗ばんだ手のひらに、勝利の感触が確かに残っている。多くの者が息を呑み、そして安堵の吐息を漏らそうとした、その瞬間——
「……ちっ!」
レオンの鋭い舌打ちが、凍てつくような冷水を浴びせた。
血の気が引く。まだだ。まだ終わっていない——誰もが背筋に悪寒を走らせた。
「ハハハハ!愚かだな神殺しの人間よ!」
嘲笑が耳を劈く。勝利の余韻など微塵もなく、代わりに絶望の重さが肩にのしかかる。
「クラフト!」
ベルフェルクの叫びが、喉から血が噴き出さんばかりの激しさで響いた。その声に込められた怒りと焦燥が、空気を震わせる。
「お前たちの行動は実に分かりやすかった……!駒を盾にした甲斐があったぞ!」
クラフトの声に含まれる愉悦が、吐き気を催すほど不快だった。
「なに……!?」
イングラムの顔から血の気が失せる。額に脂汗が滲み、拳が震える。
「ふっ、アガレスもニコライも……身代わりの呪いを施しておいたのだよ!」
その言葉が、鋭い刃となって心臓を抉る。
「お前たちが砕いたと思い込んでいる核は、この二人のちんけな心臓……!」
胃の底が冷たく沈む。今しがた砕いた感触——あれは偽物だったのか。手のひらに残る振動が、急に虚しく感じられる。
「イングラム、キサマが殺してくれなかったおかげだ!」
その一言が、イングラムの胸を鋭く突き刺す。慈悲が、仇となって返ってきた。
「……くっ!」
イングラムの歯が軋むほど強く噛み締められる。後悔と自責の念が、苦い味となって口の中に広がる。拳を握りしめる力で、爪が掌に食い込んでいく。
「イングラム、奴の挑発に乗るな。核など、もう一度砕いてしまえばいい!」
レオンの声が、揺れかけた心を繋ぎ止める。厳しくも温かいその響きが、凍りついた空気を切り裂いた。
過去を悔やむ時間はない。今、目の前にある脅威を——クトゥルフとクラフトを倒す。それだけが、全てを終わらせる唯一の道なのだから。
汗で濡れた髪が額に張り付く中、戦士たちは再び構えを取る。疲労で震える膝を、意志の力で支えながら。
その時——
ゴゴゴゴゴ……と、黒き大地が震え始めた。内臓を掻き回すような低い唸り声が、足の裏から這い上がってくる。クトゥルフの声が、大地そのものと化していた。
「……あれは!」
誰かが息を呑む。
闇よりも濃い、黒い靄のようなものが空中に浮かび上がる。それは人魂のようでありながら、もっと禍々しい何か——人の絶望が形を成したかのような黒い粒子が、渦を巻きながらクトゥルフへと吸い込まれていく。
冷たい。その黒い流れを見ているだけで、心臓が氷に包まれるような感覚に襲われる。
「おぉ……!流石クトゥルフ様だ!人の絶望を糧にしようというのですね!」
クラフトの歓喜の声が、吐き気を催させる。
地上では今も——終わらない悪夢が続いている。朝が来ない。太陽は黒い霧に覆われ、月明かりさえも届かない。人々は暗闇の中で震え、助けを求める声は誰にも届かず、ただ絶望だけが積み重なっていく。
"ククク、ハハハハハ!!!"
クトゥルフの哄笑が、鼓膜を破らんばかりに響き渡る。その笑い声に含まれる愉悦が、肌を粟立たせる。
"生命ある絶望は、甘美な味だ!美味い、美味いぞ人類どもよ!"
舌なめずりをするような湿った音が聞こえてくる。人々の苦しみを、恐怖を、絶望を——まるで美酒のように味わっているのだ。
「……そんな、地上が——!」
ルークの声が震えている。膝が崩れそうになるのを、必死に堪えているのが分かる。彼の瞳に、故郷の人々の顔が浮かんでいるのだろう。
「狼狽えるなルーク!奴の詭弁だ!」
レオンが叱咤する。しかし、その声にも微かな震えが混じっている。
"本当にそうかな……?"
クトゥルフの声が、蛇のように耳の奥へと這い込んでくる。
「なんだと……!」
ルークの瞳が怒りに燃える。しかし——
瞬間。
頭が割れるような激痛と共に、映像が脳内に流れ込んできた。
燃え盛る街。逃げ惑う人々。子供の泣き叫ぶ声。母親が我が子を抱きしめながら、光の届かない空を見上げている。老人が膝をつき、もう立ち上がる気力さえ失っている。
血の匂い。焦げた肉の臭い。絶望の叫び——
全てが、まるでその場にいるかのように鮮明に、生々しく、脳裏に焼き付いていく。
「うっ……!」
誰かが吐き気を堪える音。膝が震え、冷や汗が背中を伝い落ちる。
これが現実。今、この瞬間も地上で起きている惨劇。そして、その絶望の全てが、クトゥルフの力となって集まってきているのだ。




