第460話「目覚めの闇」
「ぐ……ぉぉ……!」
ソルヴィア跡地。
崩れた城壁の影で、シュラウドが鉤鎌刀を振るい続けていた。刃が空を切る度に、金属の悲鳴のような音が響く。
赤く爛れた空は、巨大な傷口のように脈打ち、永遠に血を流し続けているかのようだった。止まることを知らない邪神の赤子たちが、腐臭を纏いながら雨のように降り注ぐ。
全身を焼け火箸で刺されるような激痛が走る。
鉛を流し込まれたように重い四肢。
膝の軟骨が軋む音が、耳の奥で響いている――それでも彼は奥歯を噛み締め、血の味が口内に広がるのを感じながら、意識を無理やり現実に引き戻した。
「……ギルザ殿!
明鏡止水と……鬼神化。
双方を、同時に使わせていただく!」
声が震えた。それは決意の震えだった。
「な、何を言っているんだ、シュラウドくん!」
ギルザの喉が、砂を飲み込んだように乾いた。
心臓が肋骨を叩く音が、鼓膜まで響いてくる。
それは単なる無謀ではない――魂そのものを賭けた禁忌だ。
明鏡止水。
水面のように澄み切った無我の境地。感情という波紋すら許さぬ、究極の静寂。
鬼神化。
血が沸騰し、骨が軋み、人の皮を破って修羅が這い出る禁断の変貌。
氷と炎。静と動。相反する二つの極致を同時に己の内に宿すなど――
「シュラウドくん、それは……!
己を壊すつもりか!」
返答はなかった。
ただ瞳に、刃のような蒼い光が宿る。その光は冷たく、それでいて狂おしいほどに熱かった。
目の前に立ち塞がるのは――巨神。
その影が幾重にも連なり、大地を踏みしめる度に地割れが走る。槍を構えて行進する様は、世界の終焉を告げる葬列のようだった。
空気が鉛のように重く、肺に入る酸素すら毒のように苦い。
「参る……!」
シュラウドの足が地を蹴ろうとした、その瞬間。
「待て! まだ若い君が命を捨てることはない!」
ギルザの声が、腹の底から絞り出された。
それは雷鳴のような叱咤でありながら、春の日差しのような温もりを含んでいた。
「俺が行こう……」
ゆっくりと、山が動くように巨躯が前に出る。
鎧が軋む音、関節が悲鳴を上げる音、それら全てを押し殺しながら、一歩、また一歩と。
ギルザは深く息を吸う。肺に入る空気が、刃のように冷たく痛い。
そして吐く。その呼気と共に、命そのものが霧となって漏れ出すような感覚。
全身の毛穴から青白い燐光が滲み出し、鎧の隙間から淡い輝きが漏れ始める。それは蝋燭の最後の輝きにも似ていた。
「ギルザ殿、無茶をなされるな!
あなたの身体は、そのスーツなくして立つことすらままならないのですぞ!」
シュラウドの声が裂けるように響く。
「……シュラウドくん」
振り返ったギルザの瞳は、朝凪の海のように穏やかだった。
全てを受け入れ、全てを許し、そして全てを捨てた男の眼差し。
「──!」
「ライルに……謝っておいてくれ」
声が震えた。喉の奥で何かが詰まったような、嗚咽を堪えるような音。
「『約束を守れず、済まない』と」
次の瞬間、ギルザの全身から紅蓮の炎が噴き上がった。
それは炎というより、命そのものが燃え上がる光だった。血管を流れる血液が沸騰し、皮膚の下で爆発するような激痛。骨が内側から焼かれ、筋肉が炭化していく感覚。それでも彼は微笑んでいた。
炎は螺旋を描きながら天を焦がし、ただの余波だけで周囲の赤子どもを灰に変えていく。焼け焦げた肉の臭いが鼻を突き、悲鳴すら残さず影は消失した。
「やめてください! ギルザ殿!」
シュラウドの叫びは、血を吐くように響いた。
「あなたが亡くなれば……あのお二人はどうなるのですか!」
ギルザの瞼が、一瞬だけ震えた。
孫たち――ライルとレオン。
幼い頃、自分の膝の上で眠った小さな身体の温もり。成長して離れていった背中。それでも消えることのない、血の繋がりという絆。
親の愛を知らずに育った二人。
せめて祖父として、遅すぎる愛でも注ぎ続けたかった。
拒絶されても、憎まれても、それでも――
涙が一筋、頬を伝い、炎の中で一瞬にして蒸発した。
「……」
その全ての想いを、ギルザは炎に変えた。
愛も、後悔も、未練も、全てを燃料にして、紅蓮の奔流はさらに勢いを増していく。大気が震え、空間そのものが歪み始める。
「シュラウドくん――」
紅蓮の中心で、ギルザの唇が静かに動いた。
声は不思議なほど澄んでいて、まるで別れの挨拶のように優しかった。
「共に戦えて……光栄だった。ありがとう」
その瞬間、シュラウドの胸に氷の刃が突き刺さったような激痛が走った。
呼吸が止まり、心臓が握り潰されるような感覚。
「やめろ……やめろ、やめるのだギルザぁぁぁ!!」
喉が裂けるような叫びは、炎の轟音に呑まれて届かない。
紅蓮の壁が二人を隔て、手を伸ばしても、指先が焼け爛れるような熱気だけが返ってくる。皮膚が水ぶくれを作り、それでも手を伸ばし続けた。
ギルザは振り返らなかった。
ただ真っ直ぐに巨神を見据え、一歩、また一歩と歩みを進めていく。
その背中から立ち昇る炎は、人生の全てを燃やし尽くした――最期の、最も美しい輝きだった。
◇◇◇
ルルイエでは――イングラムたちの行く手を、巨悪が塞いでいた。
それは「眠り」から「目覚め」へと移ろい始める瞬間。
クトゥルフ──
空気そのものが軋み、血管を冷やす悪寒が、肌の下を這う。
呼吸ひとつで肺が軋み、骨の芯まで何かに握られるような違和感。
「……っ」
誰からともなく、息が止まる。
全員が本能で悟っていた。
これは“災厄”ではない――“絶対”だ、と。
暗黒の海に浮かぶ巨影の奥。
赤い双つの残影が、ゆっくりと細まり、まるで人を見下す瞳のように収束していく。
視線を先へ先へと逸らそうとしても、心臓を鷲掴みにされるように釘付けにされる。
逃げられない。
抗えない。
その赤の輝きは、世界を終わらせる予兆に他ならなかった。
「ククク……お目覚めのようですね。
我らが“神”が──!」
大きく腕を広げ、恍惚とした笑みを浮かべる軍師クラフト。
その声音は歓喜に震え、まるでこの瞬間のために千年を費やしてきたかのようだった。
直後、生ぬるい風が吹き抜ける。
だがそれは風ではなかった。
鉄の匂いを孕んだ血のような瘴気が、肌をなぞり、骨の髄にまで入り込んでくる。
「……っ!」
呼吸をするだけで、肺が焼ける。
神性の輝きが一瞬にして煤け、黒く塗り潰されていく。
誰もが理解した。これは「瘴気」ではない──「世界の原罪」そのものだ。
「フン……人間風情が」
フェンリルが牙を剥き、血を吐くように咆哮した。
だが、その声すらも飲み込むように、瘴気の圧が広がる。
「おやおや……」
クラフトが肩を揺らし、くつくつと笑った。
「この“厄災の子”が瘴気を耐えるとは。……やはり地球産といえど、本質は同じようだ。
そうでしょう、フェンリル?」
その嗤いは、皮膚の下を虫が這うように不快で、同時に背筋を氷に変えるほどの真実味を孕んでいた。
「だからなんだ?」
フェンリルの声は低く、鋭く、大地そのものを噛み砕くように響いた。
「俺はキサマらのように、支配欲に満ちているわけではない。……“奴”ともう一度、ケリをつけるためにここにいる。ただ、それだけだ」
黄金の瞳が細まり、牙が瘴気を裂くように剥き出される。
その姿はもはや獣ではない。神でもない。復讐と宿命の化身だった。
「フン、くだらない」
クラフトの微笑は消えない。
だがその目は、狂信の奥で冷たく光った。
「ならばその欲望ごと──その血肉の一滴まで、滅ぼして差し上げよう!」
瘴気が揺らめき、まるで意思を持ったかのように触手がのたうつ。
それは彼の嗤いに呼応し、黒き大地を覆い尽くすほどの勢いで広がっていった。
“……キサマらの思い通りにはさせん!”
夜を切り裂く一条の閃光が流星のように飛来した。
紫紺の輝きは瘴気の壁を音を立てて貫き、瞬きする間に赤子の群れを一掃する。
「な、何だと……!? 強靭な防壁を……易々と破るだと!」
クラフトの声がかすれ、戦場に白煙が立ちこめる。
その煙の向こう――ゆらりと立ち現れる影。
漆黒の甲冑が月光を呑み込み、灰銀の長髪が舞う。
鎧は鉄ではなかった。紫紺の魔力が血管のように脈打ち、鼓動する生物のように男の身体と呼応している。
翻る外套は灰白と漆黒。裂けた闇に溶け合い、存在そのものを異形の巨影に見せていた。
右手には紫光の槍――実体か幻かすら判別できぬ刃が、傾く度に大気を裂き、稲妻の尾を残す。
左手からは奔流する魔力が、槍にも矢にも形を変え、あらゆるものを貫く死の予兆を生み出していた。
その瞳が戦場を射抜く。冷厳で、情を許さぬ氷の輝き。
だが同時に、抗い得ぬ威光があった。
まるで――人ならぬ“救世の鬼神”が降臨したかのように。
「……遅いぞ、オーディン」
フェンリルの声は、低く地を揺らす咆哮のようだった。
その眼には苛立ちと、待ち続けた者だけが宿す焦燥が燃えている。
白煙を抜け、紫紺の光に包まれた戦士が歩み出る。
外套が翻るたび、瘴気が霧散する。
彼は槍を掲げ、ただ一言。
「――待たせたな、フェンリル」
その声は冷たくも威厳に満ち、戦場の空気を一変させた。
夜闇を覆っていた瘴気すら、その瞬間わずかに怯んだように揺らめいた。
「オーディン様!」
イングラムがその名を呼んだ瞬間、戦場を覆っていた重苦しい瘴気が一瞬だけ揺らぎ、光が差したように思えた。
「みんな……よく耐えてくれた!」
槍を掲げた声は、雷鳴よりも雄々しく響いた。
「ここからは――俺たちで時を稼ごう!」
その言葉は、胸を焦がす炎となってイングラムたちの心に注ぎ込まれる。
疲労で軋んでいた身体に、再び力が満ちるのを彼らは確かに感じた。
ライルと間宵の尽力を以て、ラグナロク当時をも凌ぐ力で蘇った存在。
北欧の始祖、戦の父――オーディン。
「……まだ獲物は残っているな?」
槍先をくるりと翻し、金色の瞳が邪神の群れを射抜く。
「ふん、キサマはいつも油断する。足元を掬われるなよ!」
フェンリルが低く笑い、背を預けた。
二柱の神が並び立った瞬間、圧倒的な神性が奔流のように広がり、戦場そのものを覆い尽くした。
その力は、互いの傷さえも光で覆い、立たせてしまうほどに。
〈地球にもソラリスから援軍が来ている! シュラウドたちは無事だ!〉
脳裏に届いた報せに、全員の胸から不安が吹き払われた。
まだだ――まだ、反撃の余地はある。
十分に、勝機は残っている。




