第459話「猛る人災、吠える獅子王」
スフィリア――灼熱の砂漠を覆うはずの陽光はすでに失われ、黒き瘴気が砂粒一つ残さず飲み込もうとしていた。
その荒野の中心で、ひときわ雄々しい影が立ちはだかる。
ユーゼフ・コルネリウス。
振り下ろすたびに大気を震わせる巨斧は、稲妻のように邪神たちを叩き伏せ、砂を焦がし、血潮を撒き散らしていた。
だがその力は、ただの筋力だけではない。背後に寄り添うノルンの女神がルーンの加護を重ね、時の奔流を操ることで、彼の一撃は確実に“死”をもたらしていた。
「こ、んのぉっ!」
豪快に吠える声。
しかし、その巨体を伝う汗は熱砂のように滴り落ち、呼吸は砂嵐のように荒かった。
「ユーゼフ!大丈夫!?」
女神の声が、切迫した響きを帯びる。
振り返ったその男は――血に濡れた戦斧を砂に突き立て、片膝を折っていた。
全身から立ちのぼる熱気は、もはや人の限界を超えている。
「大丈夫……って言いたいけど……しんでぇ……きちぃ……」
声は豪放に響くはずが、今はかすれ、砂漠の風に溶けるようだった。
それでも彼の瞳はまだ、燃え尽きてはいなかった。
その瞬間――。
空が裂けた。
虚空から滴るように“影”が垂れ落ち、瘴気に濡れた黒い腕が砂の大地を抉った。
赤子の産声のような悲鳴が、空気を切り裂く。
「……ナ、ナイアーラトテップ……!」
女神が名を呟いた。
その瞬間、世界の色が一気に冷たく褪せた。
「はぁ、はぁ……やれやれ、人気者はツライねぇ」
血と砂にまみれた大地に、戦斧を突き立てながらユーゼフが息を吐く。
全身の防具は罅割れ、関節からは黒い瘴気がじわじわと滲み出していた。
中和剤がまだ効いているのは奇跡に近い。だが――その効力が永遠でないことを、本人が一番理解している。
「ユーゼフ、今治癒を……!」
女神が駆け寄る。
だが彼は荒く笑って片手を振り、制した。
「いや、それは取っといて。
……あとで浴びるほど注いでほしいから」
笑ってはいるが、その声音には疲弊と苦味が滲む。
わずかな油断で、今にも足が崩れそうだった。
「はぁー……早く終わんねえかな! マジで!」
叫びは、苛立ちではなく自分を奮い立たせるためのもの。
仲間を責めているわけではない。ただ、焦げつくような緊張を吐き出さなければ、心臓が耐えきれなかった。
「やるかぁッ!!!」
雄叫びとともに斧を引き抜く。
その瞬間、空気が変わった。
上空に裂け目が広がり、そこから“黒”が滴り落ちる。
色のない影、音なき声――。
“ほう……唯の人間にしては、存外しぶといものだな”
脳に直接響く囁き。
ナイアーラトテップが、形を持たぬまま現れた。
ただ現れただけで、女神の光はかき消され、砂漠の大地が軋む。
ユーゼフは一歩前に踏み出し、笑った。
震えそうになる足を、気合で踏み固めながら。
「お前が大厄災にいたか知らんけどさ……」
ユーゼフは口端を吊り上げ、血に濡れた歯を剥き出しにした。
「現在進行系で“災い”って呼ばれてる俺を……食い止められると思ってんのかよ」
その瞬間――彼の全身が軋んだ。
ガシャン、ガシャンと音を立て、青き蟹甲のような装甲が閉じていく。
鋼鉄の隙間からは蒸気が噴き出し、肌を焦がすほどの熱を帯びる。
やがて装甲そのものが赤熱し、茹で蟹を思わせる真紅へと変貌していった。
「ギシィィ……!」
地面が熱気で焦げ、立ち込める蒸気が蜃気楼のように揺らぐ。
完全に赤へ染まり切った瞬間、装甲は分厚さを失い、驚くほど軽やかな形状へと再構築される。
重量を捨て、ただ“斬るため”だけの姿。
「おっと、忘れんなよ……相棒も本気だ」
突き刺していた戦斧が震えた。
熱に呼応するように刃先が伸び、鈍い唸り声を上げながら上下に裂けていく。
双刃の大斧――まるで二つの顎を備えた猛獣が、今まさに咆哮しようとしているかのようだった。
蒸気が爆ぜ、赤砂が舞う。
ユーゼフはその軽装の身をわずかに沈め、獰猛に笑った。
「さぁ、ナイアーラトテップ。災いの名を懸けて……お前をぶっ潰す!」
蒸気が爆ぜ、視界を真紅に染める。
ユーゼフの足が地を蹴った瞬間、大気が悲鳴をあげた。
「そぉぉぉいっ!!!」
双刃の大斧が、紅蓮の弧を描く。
振り下ろされたその一撃は、ただの肉体ではない。空間ごと割り裂く暴力そのものだった。
ナイアーラトテップの影から伸びる“不可視の腕”が、斧に触れた刹那――
空が裂け、耳が破れる。
黒い断面が浮かび、腕は無惨に両断されて吹き飛んだ。
「はっ、どうだクソッタレ!これが災い様の力だぁぁ!」
ユーゼフは獰猛に笑い、血飛沫の代わりに黒い霧が散るのを見た。
だが――その笑みはすぐに凍りつく。
「……あぇ?」
斬ったはずの“腕”が、次の瞬間には形を取り戻していた。
裂け目も、血も、痛みすらない。まるで「初めから斬られていない」かのように。
“……無駄だ”
耳ではなく、脳髄に直接響く声。
理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
「クソが……!こんなもん、ありかよ!」
双刃を構え直すユーゼフ。
だがナイアーラトテップの影は、無数の腕を伸ばし、彼を獲物と定めるように取り囲んでいた。
黒い腕が再生を終え、ナイアーラトテップの嗤いが瘴気を震わせる。
ユーゼフは双刃を握りしめ、悪態を吐いた。
「まだだ、また終わらんよ!」
◇◇◇
「対邪神用殲滅弾、発射ァ!!」
轟音が天地を引き裂いた。
スアーガの大地が震え、空気そのものが爆ぜる。
王ネメアの咆哮とともに放たれたその一撃は、王国の叡智と絶望を結晶化した兵器。
黒き空から無尽蔵に産み落とされる“赤子”の群れに向け、弾丸が蒼白の軌跡を描いて突き抜けていく。
次の瞬間――。
天空に、太陽をも呑み込むような白光が炸裂した。
「うおおおおおお!!」
「やった……!落ちていく!」
爆炎が膨張し、夜空を覆い尽くす。
巨大なキノコ雲が立ち昇り、その衝撃波だけでさえ周囲の赤子を灰に変えていった。
大気は震動に裂かれ、熱風が大地を舐める。
兵たちが歓声をあげる。
ネメア王もまた、握りしめた拳を空に突き上げた。
だが――。
瘴気の帳が揺らめいた。
爆炎に包まれたはずの闇が、まるで嘲笑うように再び形を取り戻していく。
潰えたはずの赤子が、焦げた肉の匂いとともに、じわじわと再生していくのだ。
「……っ、まだ、足りぬというのか」
ネメアの額に汗が滲む。
胸の奥を冷たく抉る感覚――勝利の手応えが、一瞬にして剥ぎ取られていく。
それでも、王の瞳は揺るがなかった。
「……次弾を装填せよ!」
「ネメア様! 異なる邪神が飛来いたします!」
伝令の声は、恐怖を無理やり押し殺したがゆえに、かえって焦燥が滲んでいた。
次の瞬間、空を裂いて降り注いだのは、耳を灼くようなけたたましい邪悪の音色――。
鳥の声にも似て、雷鳴にも似て、しかし確かに“理を嘲る叫び”だった。
城砦を揺らす振動に、兵たちの顔が蒼白に変わる。
「……来たか」
ネメア王は低く呟いた。
その眼差しは、迫り来る異形の影を真っすぐに見据えている。
「よし……ならば、ここは余が直々に打って出る!」
甲冑が軋む。
王の身体から、稲妻のような光が弾けた。
解き放たれるのは、王家に宿る古の神性――。
「神性を全て解放し、この身ごと叩き潰してくれる!」
その声は戦場に轟き、兵の膝を震わせながらも、同時に確かな勇を与えていた。
「弟よ、後のことは任せるぞ!」
「兄上……どうか、ご武運を!」
弟レネアの声は震えていたが、瞳は確かに炎を宿していた。
その瞬間から、彼が軍の指揮を継ぐ。
ネメア王は振り返らず、ただ大地を強く踏み鳴らした。
轟音が走り、砂漠の岩盤すら砕け散る。
次の瞬間、獅子王は跳躍した。
その身から迸るのは、王家に継がれし古の神性――。
紅蓮の鬣のように燃え盛り、雷鳴のように轟き、まるで大地そのものが獣と化したかのごとく戦場を揺らした。
「吼えろおおおおおッ!!!!」
拳が振り下ろされる。
神性を余すことなく叩きつけたその一撃は、迫りくる邪神の群れを真正面から捉えた。
天地が震え、衝撃波が街の瓦礫を吹き飛ばし、兵の心臓までも震わせた。
だが――。
吹き飛んだのは群れの一部にすぎない。
裂けた闇の中から、新たな異形の影が、幾重にも重なって姿を現す。
「兄上……っ!」
レネアの叫びが戦場にこだました。




