第458話「最後の砦、相克の雄」
神々が合流してから、すでに数時間が経過していた。
大理石の床は亀裂だらけになり、聖域の柱は血に似た瘴気で汚されている。
それでも戦いは終わらない。
「ふんっ!」
スサノオの大薙ぎが唸りをあげた。
嵐そのものを刃に凝縮した一撃が、ナイトゴーントの群れを一掃する。
裂かれた影は悲鳴のような風音を残し、黒煙と化して消えた。
だが――その煙の残滓から、再び“腕”が、脚が、翼が芽吹く。
泡立つように形を取り戻し、また獣じみた産声を上げる。
「まだ……終わらんというのか」
スサノオの瞳に苛立ちと焦燥が閃く。
振るう度に力は削がれ、呼吸は荒くなっていた。
「フフハハハ! ならば細胞ごと消し飛べぇ!」
シヴァが吠える。
両腕から叩き込まれた破壊の奔流は、光すら呑み込む漆黒の渦と化し、生まれかけの影を根こそぎ葬った。
だが、その衝撃波でさえ聖堂を砕き、柱を崩壊させる。
味方すら飲み込むかのようなその力は、もはや制御ぎりぎりの域だった。
そして――上空。
裂けた虚空の穴は閉じるどころか拡大を続け、縁から滴り落ちるのは無尽蔵の闇。
産声の大合唱が空気を裂き、耳をつんざく。
聖域の星々はすでに見えず、夜そのものが呪詛の胎動に変わっていた。
「焦げてけよッ! クソ野郎どもがぁぁ!」
ゼウスの雷鳴が奔る。
空を引き裂く稲妻は光の槍となり、迫る群れを串刺しにした。
数十体が灰燼と化し、焦げた瘴気の匂いが鼻を突く。
しかし――。
黒煙の中から、再び同じ数の影が羽音を立てて現れる。
幾度焼き払おうと、屠ろうと、湧き出すその姿は途絶えることを知らなかった。
「クソ……これじゃあ……!」
スサノオが舌打ちを漏らし、シヴァも額に汗を滲ませる。
ゼウスでさえ、握る天槍がわずかに震えていた。
それはまるで――“無限”そのものを敵に回しているかのようであった。
「まだ、まだ……! 諦めない……ッ!」
霧雨間宵――
西暦最後の巫女は、血に濡れた薙刀を地に突き刺し、それを杖のようにして必死に身を支えていた。
瘴気を孕んだ空気が肺を焼き、吸うたびに鉄錆の味が口に広がる。
全身は鉛のように重く、腕も脚も自分のものではないかのようだ。
指先は痺れ、呼吸は喉の奥で途切れ、ひゅうひゅうと獣のような音しか出ない。
じわり、じわりと――邪悪が血管を逆流するかのように、生命を蝕んでいく。
脳裏に白い靄がかかり、立っていることさえ幻のように思えた。
「間宵! 諦めるな!」
スサノオの声が、雷鳴のように脳を叩く。
「娘! 侍魂はどうしたのだ! その姿、先祖に見られているのだぞ!」
シヴァの熱が、焼けるように胸を焦がす。
「へっ、間宵ちゃんよ! ここで諦めたら……俺が娶っちまうぜ? いいのかよ!」
ゼウスの稲妻混じりの戯れが、場違いなほど明るく響いた。
そのどれもが、震える身体に確かな熱を送り込む。
薙刀を握る指先に、再び力が宿る。
(そうだ……私だけ休んでいられない……!)
視界の端で、ナイトガントの影が迫る。
黒い翼が風を裂き、吐き気を催す瘴気の匂いが鼻腔を満たした。
命の危機に瀕した生命は、ときに常軌を逸した力を引き出す。
それはまさに火事場の力。
「はぁあああッ!!!」
間宵は薙刀を大きく振り抜いた。
刃が烈風を巻き込み、夢魔の翼を一瞬で両断する。
断末魔のような産声が上がり、闇の中に消えていった。
続けざまに三匹、五匹――。
人の身では届かぬはずの怪物たちを、彼女はただ一人、次々と斬り裂いていく。
振るうたびに、手のひらの皮が裂け、血が柄を濡らす。
それでも彼女は倒れない。
疲弊しきったスサノオ、シヴァ、ゼウス、そして間宵。
その前に――闇を裂いて、異様な影が立ち現れた。
人の理では形容できない。
鱗とも肉ともつかぬ粘液の肌、吸盤の並ぶ無数の触腕。
その巨体は天を覆い隠し、目のようなものが幾百と蠢いている。
「キ、キサマ……ッ、クトゥルフ……!」
間宵の震える声。
だがそれは、真なる“クトゥルフ”ではない。
あまりに似た“影”――それだけで神々を圧する、眷属の王とも言うべき存在だった。
「おの、れぇ……!」
スサノオは奥歯を噛み切り、口の端から血を垂らした。
嵐がその背に渦巻き、巨腕を振り抜く。
「戯けが……俺が破壊してくれるわッ!」
シヴァが左腕を突き出した。
刹那、破壊の光弾が奔流と化し、空を穿つ。
虚空そのものが削がれ、黒い空間に穴が穿たれる。
「へへっ……お前にだけいい活躍はさせねぇぞ!」
ゼウスの怒声が轟いた。
雷鳴が連続して炸裂し、落雷の槍が怪物の全身を串刺しにする。
世界の根幹を揺るがす一撃の連撃。
だが――。
怪物は、揺れもしなかった。
光弾も雷撃も、その表皮を焼くだけで、核心に届いていない。
触腕が蠢き、光と雷を飲み込むように霧散させる。
「ば、化け物め……!」
スサノオの声が震えた。
三柱の神と、ただ一人の巫女。
彼らが放った力が“通じない”という事実が、戦場の空気を凍らせていく。
間宵の喉がひゅっと鳴った。
肺の奥まで冷たい氷を流し込まれたように、呼吸ができない。
心が――折れそうになる。
◇◇◇
その頃――。
安倍晴明と芦屋道満もまた、同じように“絶望”の只中にあった。
闇を焦がすように、空に黒い円が浮かぶ。
それは太陽の形をしていながら、熱も光も持たない。
ただ黒々と、全てを腐らせるような輝きを放っていた。
「……クトゥグァに近しい……いや、それ以上か」
晴明の声が震える。
黒い太陽――名を持たぬ邪神。
存在自体が異界の裂け目のようで、視界に収めるだけで脳が焼けそうになる。
光を浴びた式神が、煙のように崩れ落ちていく。
「ははっ、これは“無名の王”か。君もようやく顔色を変えたね、晴明」
芦屋道満が血を吐きながら、それでも嗤った。
その足元では、彼の操る鬼神でさえ、皮膚が剥がれ落ち、呻き声を上げていた。
黒い太陽が、じわりと地平を覆い始める。
影が伸びる。
一歩、一歩――二人の陰陽師の逃げ道を断ち切りながら迫ってくる。
「くっ……朱雀!」
晴明が印を切る。朱雀の炎が天を焦がし、黒き影を焼き払う。
だが、炎の熱は瞬時に吸い尽くされ、ただの煤煙と化した。
「無駄だよ晴明。あれは燃えもしない、凍えもしない。名を持たぬ虚そのものだ」
道満が笑みを歪める。だが、その瞳の奥には恐怖の色が隠せない。
黒い太陽が、彼らの頭上に沈み込もうとしていた。
まるで“世界そのものが落ちてくる”ように。
「けっ、嫌味言ってる暇があんなら、打開策の一つや二つ思いつけってんだよ!」
「その言葉、君にそっくりお返しするよ!」
舌戦と同時に、芦屋道満が指を弾く。
地を這う呪紋が光を帯び、呼応するように鬼神が咆哮した。
紅蓮のように焼け爛れた巨体が、黒き太陽へと拳を振り上げる。
――瞬間。
空気そのものが絶叫した。
だがそれは邪神の声ではない。
鬼神が、あまりの激痛に呻き声をあげたのだ。
「バ、バカな……! 平安の鬼ども全てを喰らわせて築いた鬼神が……! 何もしていない“ただの存在”に焼かれているだとっ!?」
道満の顔色が蒼白に染まる。
巨体の腕は黒い光に触れた瞬間から溶け、皮膚も骨も灰に還っていく。
それは殴打したのではなく、“存在が否定された”かのようだった。
「チッ……!」
安倍晴明は一瞬で判断した。
即座に四方へ式符を投じる。
朱雀が紅蓮を吐き、青龍が奔流を巻き、白虎が斬撃を、玄武が甲羅を衝撃波として放つ。
四神の力が一点に収束し、天地が震える。
「まだ終わらせはせん……!」
晴明は自らも術式を重ねる。
掌を交差させ、陰と陽を重ね合わせた。
プラスとマイナスの霊力が火花を散らし、轟音とともに奔流を形成する。
「破ァァァァッ!!!」
二人の力が同時に放たれた。
鬼神の絶叫、四神の奔流、晴明のスパーク――すべてがひとつの矢となって、黒い太陽へと突き刺さる。
爆炎と閃光が天地を裂いた。
光と闇の奔流が絡み合い、空は真昼のように白く焼け、地は業火のように赤く染まる。
耳をつんざく轟音、皮膚を裂く衝撃波――。
それでも。
中心に佇む “黒い太陽” は、一歩も動かなかった。
いや、違う。
放たれた全ての力は、その核に吸い込まれていく。
朱雀の炎も、青龍の奔流も、白虎の牙も、玄武の守りも。
さらには鬼神の咆哮すら――何もかもが喰われ、跡形もなく消え失せた。
「……なっ」
声にならない声が、晴明の喉から漏れた。
道満は血の気を失い、己の鬼神が腕ごと存在を削ぎ落とされる光景をただ呆然と見ていた。
――無駄だ。
耳に届いたのは、言語ですらない震動。
理解できないはずの“音”が、脳に直接刻み込まれる。
「無駄だ……だと?」
道満が呻いた。
その瞬間、太陽の表面に走ったひび割れから、どろりとした闇が滴り落ちた。
ひとしずく大地に触れるだけで、石畳が煙を上げて溶け崩れる。
それはまるで、この世界そのものが “拒絶されている” かのようだった。
「チッ……俺たちじゃ、まだ届かねぇってのかよ!」
晴明は奥歯を噛み砕くほど食いしばった。
「……くく、これが……本当の絶望ってやつか」
道満は嗤おうとした。
だが声は掠れ、震え、笑いにならなかった。
二人の背に、迫る気配。
振り返れば、ナイトゴーントの群れがいつの間にか空を覆い尽くしている。
退路は塞がれた。
――完全なる包囲。
「……道満」
「何だい、晴明」
「死ぬなよ」
「君こそ、な」
二人の視線が交錯する。
その直後、黒い太陽が脈動した。
全てを呑み込む暗黒が、世界へと放たれ――
夜は、闇そのものに塗り潰された。
だが、彼らは絶望してはいない。
必ず勝機がやってくる。
その時まで、恥を晒してでも戦い抜くのだと──




