第457話「神と人と」
地上で、安倍晴明と芦屋道満が肩を並べ、光と闇の奔流で邪神の群れを打ち払っていた。
朱雀の炎が夜を裂き、玄武の甲羅が盾となり、鬼神の咆哮が天地を震わせる。
人々はその背に希望を見出し、怯え切った眼に一筋の光を宿していた。
だが――戦場の景色は確かに押し返されているはずなのに、徐々に闇に飲まれていった。
空は裂け、瘴気が星を覆い隠す。息をするたび肺がざらつき、耳には子どもが泣き叫ぶような不気味な声が反響する。
世界そのものが軋む音が、骨にまで響いてくる。
──同じ時刻。
邪神たちの魔の手は、地球の神々の住まう聖域――ソラリスにも伸びていた。
聖堂の大理石は薄黒い染みを浮かべ、空に煌めくはずの星々は瘴気に塗り潰されていく。
ここに迎撃する戦士はいない。ユーゼフも、シュラウドも、ギルザも、ケリィも、レベッカも――誰一人として。
ただ一人。
その場所に残った女性がいた。
霧雨間宵。
白と赤を基調とした巫女服が、血の匂いを孕む夜風にはためく。
髪留めで編んだショートポニーテールが鞭のように揺れ、眼差しは鋼のごとく鋭い。
その両手には、妖しく光を帯びた薙刀。切っ先に映る月影が、静かに震えていた。
〈正気か、間宵!〉
スサノオの荒ぶる雷鳴のような声が脳を揺らす。
「ここは……人類の最後の砦です。
邪神に滅ぼされれば、私は先祖に顔向けできません」
血に染まる大地を踏みしめ、間宵は凛と返す。
その声音に一切の揺らぎはない。命を賭けてでも、この場所を守り抜く覚悟があった。
〈……はっ、よいではないかスサノオ!〉
雷鳴に続き、灼熱の奔流のようにシヴァの声が轟く。
〈間宵の覚悟、見事な侍魂よ!
日本の神たる貴様が折るな!〉
赤子の群れが蠢き、瘴気が押し寄せる。
腐臭が鼻を突き、耳を裂く産声が大気を震わせる。
それでも――霧雨間宵は一歩も退かない。
〈間宵、俺たちの神性を少し贈る! 俺たちが戦えるようになるまで、持ちこたえてくれ……!〉
ポセイドンの声が、荒れ狂う潮騒のように胸の奥へ響いた。
間宵は唇を引き結び、迫り来る赤子たちの気配を薙刀の切っ先でなぞる。
鼻を衝く腐臭、産声のような泣き声――それらを全て振り払い、背筋を伸ばした。
「ごゆっくりと」
凛とした声が、夜気を裂いた。
「焦っては、奴らの思う壺。だから……時間をかけ、必ず応援に来てください。ポセイドン様」
月光を浴びた頬は蒼白でありながら、眼差しだけは燃えている。
まるで、自らを削り捨ててでも世界を守ろうとする巫女の炎のように。
〈……すまねぇ!〉
悔恨混じりの声が海鳴りのごとく轟く。
それでも間宵は振り返らず、薙刀を構えた。
足元の大地は軋み、血と鉄の匂いが肺を焼く。
迫り来る影に、ただ一人――彼女は立ちはだかった。
「おぎゃぁぁぁ!」
四方八方から、赤子が獣じみた産声をあげて飛びかかる。
間宵は一瞬、肺に吸い込んだ瘴気を押し返すように精神を統一し、薙刀を胸元で静かに構え直した。
腐った乳のような酸っぱい匂いが鼻を刺す。だが巫女の眼差しは揺るがない。
(弱点は……イングラムさんたちから聞いている)
耳がとらえる。――生温かい吐息。
背後に一体、右斜めに二体、左から一体。
大凡の距離と位置を掴むと、彼女はわずかに足をひねり、重心を軸に大きく身体を回転させた。
「はぁぁっ!」
刃が風を裂く音と同時に、肉を断つ湿った衝撃音が夜気に響く。
薙刀の弧は正確無比に、赤子たちの首を撫で、胴を割り、四つの影が一瞬で血飛沫と化す。
飛び散った温い赤が頬に触れた瞬間、彼女は小さく吐息を乗せた。
「――烈風」
清めの言葉と共に、術が迸る。
突風が渦を巻き、飛沫を斬り捨てるように吹き飛ばした。
一滴たりとも、その巫女服を汚さぬように。
鉄の匂いと瘴気が混じる戦場に、清浄なる風が吹き抜けた。
〈まあ、お見事ね!〉
「いえ……曾祖父の指導と、ヤタガラス様の教えの賜物です」
間宵は微かに口元を緩め、静かな声音でそう返した。
セクメトの熱を帯びた称賛も、彼女にとっては己を誇る理由にならない。
薙刀を握る掌には、今も宗永から受け継いだ稽古の痛みが残っている。
そして背を押すのは、闇を見通すヤタガラスの教え。
「お褒めになるのならば……お二人にでも」
月光を映す瞳は、己を形作った存在をまっすぐに仰いでいた。
血と瘴気にまみれる戦場にあっても、間宵の微笑はただ凛として――一片の穢れを知らなかった。
しかし、突如として空気がぬるりと歪んだ。
夜空を覆う雲のように、黒い群れが広がっていく。
「この、気配は……?」
間宵は薙刀を握り直した。
月光に照らされたその影には、顔がない。口も眼もないのに、そこに“嗤い”があるのが分かる。
飛翔する音すらなく、ただ 圧迫感だけ が迫り寄る。
〈ナイトガント……!〉
スサノオが唸った。
「っ……!」
次の瞬間、冷たい触手が肩を掠める。
刃ではなく“冷気そのもの”のような感触。皮膚の下にまで氷が入り込むようで、思わず息が詰まった。
「……っぐ……!」
背筋を凍らせる感覚を振り払い、間宵は反射的に身を翻す。
薙刀が弧を描き、無音の怪物を切り裂く。だが――
切れたはずの影は、煙のように裂けて、また形を取り戻していく。
〈間宵、心を強く持て!奴らは“夢に生きるもの”……恐怖に呑まれれば、己の心ごと喰われるぞ!〉
「……だったら……!」
鉄の味が口に広がる。噛みしめた唇から血が滲んでいた。
恐怖で震える膝を叱咤し、彼女は薙刀を握り直す。
「私の夢は……この地を守ること!
負けるわけには、いかない!」
自分が倒れれば、今度はソラリスそのものが蹂躙される。
間宵は薙刀を構え直し、喉奥に焼け付くような緊張を押し殺した。
本来ならば――。
スサノオ、シヴァ、ゼウスといった大いなる神々が揃い立ち、この空を覆う邪悪に対し鉄壁の陣を敷くはずだった。
だが、ルルイエの浮上はあまりに早すぎた。
予測を裏切る早鐘のような襲来。
それはあの狡猾な軍師クラフトの手か、あるいはクトゥルフという存在そのものの気まぐれか。
理由など分からない。だが結果は一つ。
「……持ち堪えなければ」
紫電を孕んだ風が頬を打つ。
間宵の周囲に広がるのは、無数の“赤子”と、顔のない悪夢の群れ――ナイトガント。
神々が力を集約している今、彼女ただ一人が立ちはだかる以外に術はなかった。
苦戦は必須。
それでも、彼女とて退くことなどできはしない。
ヤタガラスに救われ、曾祖父に鍛えられたこの命を――神のために、人のために使わずして、何に使うというのか。
胸の奥で、恐怖が冷たく蠢く。焦燥が喉を締め上げる。
だがそれ以上に、間宵の背には確かな温もりがあった。
姿は見えずとも、神々の息遣いが、荒ぶる声が、確かにそこにある。
その存在は、絶望を押し返すほどに心強かった。
「――はぁあああッ!!」
薙刀を振り抜いた刹那、烈風が生じる。
血の匂いと瘴気を吹き払い、群がるナイトガントを一閃に裂く。
裂けた闇の断末魔が、夜空に木霊した。
「……っ、この程度! 他の皆に比べれば!」
自らの頬を思い切り叩いた。乾いた音が夜気を裂き、鈍い痛みが神経を叩き起こす。
疲労が全身を鉛のように重くする。それでも――ごまかしてでも、立ち続けなければならない。
イングラムも、レベッカも、ライルも、それぞれの戦場で命を賭している。
彼らも血を流し、恐怖に震えながら、それでも守るために剣を振るっている。
自分だって、その仲間の一人。
震えている暇などない。怯えている暇などない。
「ヤタガラス様……!」
声が、喉を焦がすように震えた。
「どうか、私に……勇気を!」
祈りの言葉とともに、薙刀を握る手に熱が宿る。
風がざわめき、背後で翼がはためく気配がした。
見えぬはずの三本足の影が、確かに彼女の背を押していた。
「うむ……よくやった!待たせたな、間宵!」
肩に置かれた大きな掌が、まるで雷鳴のように全身へ衝撃を走らせた。
風に混じる鉄の匂いすら、力強さにかき消される。
「スサノオ様!」
振り返ったその視線に、稲妻の輝きを宿す男神が立っていた。
「フハハハハハハ! 若き身で、よくぞ奮戦した!」
嵐の如き声が天を震わせる。
「このシヴァがその対価に治癒してくれよう! 感涙にむせべ! 間宵よ!」
白蓮の香とともに現れた破壊神が、その指先から温かな光を流し込む。
裂けた肉は塞がり、焼けた肺に新鮮な空気が満ちていく。
「シヴァ様まで……!」
目尻に熱がこみ上げる。だが泣く暇はない。
「よぉ、休んでな……と言いてえとこだが」
雷鳴のように笑いながら、蒼天を割る白光が降り注ぐ。
天を支配する王、ゼウスが稲妻を片手に現れた。
「急ピッチで来たんでな。疲れてるとこすまんが――手伝ってくれるか!」
「ゼウス様……もちろんです!」
薙刀を握る指先に、まだスサノオの熱、シヴァの癒しが残っている。
その温もりが力となり、間宵の心臓を鼓動で叩いた。
「微力なれど、粉骨砕身して戦う所存です!」
夜風がざわめき、赤子の群れが耳障りな声をあげる。
だが、もはや孤独ではない。
嵐、破壊、雷鳴――世界を司る柱たちが、背に立っている。
「邪神の眷属どもよ……!」
スサノオの荒声が夜空を裂いた。
「我らに挑むとは笑止千万!」
嵐の咆哮が轟き、ナイトゴーントたちの翼を震わせる。
「人同士が手を取り合っているのだ。俺たちも見習わねばなるまい!」
シヴァが笑い、指先から破壊の光が奔流となる。
赤子どもが塵と化し、黒き瘴気が散らされていく。
「アデルたちが必ずやってくれる……!」
ゼウスが天槍を掲げ、雷光で闇を照らす。
「それまで俺たちが死んでやるわけにゃあいかねえよな!」
「はい……!共に戦い抜きましょう!」
「「「応ッ──!!!」」」
雷鳴と怒涛が混ざり合い、夜空そのものが戦場の咆哮で震えた。




