第454話「絶望への反抗」
大地が軋み、ひび割れた石畳から黒い煙が滲み出す。
風は泣き叫ぶようにうねり、耳を裂く轟音を運んでくる。
空は青さを失い、灰色の雲が引き裂かれるように奔流していた。
人々の悲鳴はすぐにかき消された。
それは地響きと共鳴する“咆哮”に飲み込まれていったからだ。
希望が剥ぎ取られていく。
街も、国も、世界そのものも――。
海を割り、大陸を嘲るように、巨影が浮上する。
ルルイエ。
常識を嘲笑うほどの質量。
黒き瘴気は大気を侵し、触れたものすべての生命を腐らせていく。
それは“島”ではなかった。
絶望そのものが、海底から立ち上がってきたのだ。
「止められなかったか……!」
旧ソルヴィア跡地にて、ギルザの低い声が、震える空気に溶けた。
眼前に広がるのは、死の胎動。
鼻を劈くのは腐敗した海と血肉の匂い。
耳を突き破るのは、地の底から這い上がる無数の断末魔の悲鳴。
目に映るのは――赤黒く濡れた大地が、まるで内臓を裏返したかのように蠢いている光景だった。
「馬鹿な……!浮上しただけで、大地を穿つなど……!」
シュラウドの声は掠れ、喉の奥で震えていた。
幾多の戦場を駆け抜けた彼ですら、これほどの超常を前にしたのは初めてだった。
立っているだけで、膝が砕けそうになる。
ルルイエは、もはや「島」ではなかった。
その存在そのものが、この世界を嘲笑う“異界”だった。
空が、ひび割れた鏡のように無数に裂けた。
そこから――血と瘴気にまみれた“赤子”たちが、ずるりと零れ落ちる。
皮膚は爛れ、瞳孔は開ききり、口からは言葉にならない悲鳴が泡のように漏れ続ける。
地獄の産声が大気を震わせ、鼓膜を打ち破らんばかりに響き渡った。
「おのれ……! 邪神どもめ!」
ギルザの拳は震えていた。
強く握り込んだ爪が肉を破り、血が滴り落ちる。
だが痛みすら感じぬまま、その鋭い眼光は群れなす怪異を射抜いている。
「来るぞ――こちらにも!」
ギルザが吠えた。
次の瞬間、赤子たちの群れが波となり、街を覆い尽くそうと迫ってきた。
「シュラウドくん、背は任せるぞ!」
ギルザが怒声をあげる。
血に濡れた拳を振り上げ、迫りくる赤子の群れに立ちはだかった。
「承知……! 必ずやお守り致す!」
紅蓮の鎧を纏ったシュラウドが応じる。
その声は震えを含みながらも、確かな決意で満ちていた。
背と背が合わさる瞬間、二人の呼吸が重なった。
押し寄せる赤子の産声が鼓膜を裂こうとする中、二人だけの“信義の鼓動”が響いていた。
次の刹那、鉄を裂く轟音と共に――迎撃戦が始まった。
「おぎゃああああ――!」
開口部は異様に黒ずみ、そこから漏れる産声は、ただの赤子の泣き声ではなかった。
耳を裂き、脳髄を痺れさせるような振動が空気を満たす。
ギルザは眉一つ動かさず、腰を沈める。
全身の力を拳ではなく“手刀”に込め、斜めに振り抜いた。
――ぶしゅ、と。
黒い血が飛び散り、赤子の頭部は不自然に裂け、両断された身体が地面に叩きつけられる。
それは生物というより、肉塊に戻ったような無様な姿だった。
「次だ……!」
ギルザの眼光が、すでに次の群れへと突き刺さっていた。
「……来るが良い! 我らが防壁の要、破れるものか!」
吠える声が夜空を震わせる。
五体の赤子が、四肢を不気味に絡めながら突進してきた。
刹那――紅蓮の鎧が閃く。
燃え盛る火のように揺らめき、軋む金属音と共にシュラウドの大剣が振り抜かれた。
――どん、と。
音すら置き去りにして、赤子たちは一度に斬り伏せられる。
肉片は蒸発するように消え、跡形もなく虚空に散った。
だが、その静寂は一瞬。
地平の向こうから、またも無数の影が“湯水のごとく”溢れ出す。
黒い地面を埋め尽くし、呻き声が空気を震わせた。
「おぎゃあ……おぎゃあ……!」
赤子たちの呻きが大気を満たす。
「倒れるがいいっ!!」
シュラウドの一薙ぎ――紅蓮の大剣は轟音と共に振り抜かれ、
その軌跡は三日月の波動となって群れをまとめて薙ぎ払った。
蒸発するように肉片が虚空に溶け、十、二十の赤子が一度に消滅する。
火花が散るような残光が夜空を裂き、戦場に一瞬の静寂が訪れる。
だが――。
「おぎゃああああ……!」
新たな群れが、闇の裂け目から溢れるように現れた。
潰しても潰しても終わらない。
その数は増える一方で、黒い波となって大地を覆っていく。
「くっ……!」
シュラウドの喉に、初めて焦りの呻きが漏れる。
「大丈夫、大丈夫だシュラウドくん!」
ギルザの声は、怒号でもなく囁きでもなく、まっすぐに胸へ届くような響きだった。
「ライルたちが命を張っているんだ! 俺たちも戦える! そうだろう!」
がっしりと置かれた手が、炎に焼かれるような戦場の熱気の中で、不思議と温かさを放っていた。
その温もりは剣よりも鋭く、言葉よりも強く――揺らぎかけていた心を支える。
「ギルザ殿……!」
視界の端に、仲間たちの顔が浮かぶ。
剣を振るうレベッカ。
冗談を飛ばしながらも全力で赤子を蹴散らすユーゼフ。
無骨な銃声を響かせ続けるケリィ。
みな、それぞれの場所で必死に抗っている。
(自分だけ、臆してどうする……!)
握りしめた柄が軋む。
紅蓮の鎧が再び燃え上がり、心臓の鼓動が戦場の轟音に溶けていった。
「――行くぞ!!」
シュラウドの雄叫びが、赤子の産声を一瞬だけかき消した。
轟、と地鳴りのような産声が押し寄せる。
黒く膨らんだ赤子の群れが、海嘯のように押し寄せてくる。
「ギルザ殿!」
「心得たっ!」
次の瞬間、二人は自然と背を合わせた。
互いの呼吸が聞こえる距離。背中に伝わる熱と振動が、確かな生の証だった。
ギルザの手刀が唸りをあげる。
分厚い赤子の頭蓋を斜めに叩き割り、血煙を弾き飛ばす。
熱い鉄の匂いが鼻を刺すが、目は決して逸らさない。
「せぇいっ!」
シュラウドの紅蓮の刃が半月を描き、群れを両断する。
灼けた鎧が夜気を焦がし、斬撃の残光が閃光のように空を裂いた。
「ハァッ!」
「ヌンッ!」
怒号が重なり、赤子の絶叫をかき消す。
左から迫る敵はギルザが粉砕し、右から襲う影はシュラウドが焼き斬る。
背と背を預け、まるで一体の巨人が暴れ回るかのごとく、息もつかせぬ連撃を繰り広げた。
飛び散る血潮が月光を浴び、紅の雨となって降り注ぐ。
しかし、二人の眼差しは揺るがない。
「……まだだ! 俺たちの壁は、こんなものでは崩れん!」
「左様ッ、我らはこの命ある限り戦い抜くのみ!!」
その叫びは、戦場を駆け抜ける全ての仲間たちの胸を奮わせる雄叫びとなった。
◇◇◇
「きひひ……きひひひひ……」
赤子の群れが壁を埋め尽くす。
瞳は爛々と赤く光り、牙の生えた口からは涎が垂れている。
その足取りはゆっくりだが、確実に逃げ場を奪う捕食者のものだった。
「大丈夫……大丈夫だよ! お姉ちゃんが……守るから!」
エレノアは子供たちを背中に庇い、両手を広げて立ちはだかる。
声は強がっていたが、震える狼耳が本心を隠し切れていない。
足先が冷え、爪先から痺れが這い上がってくる。
「ひっ……」
赤子の一体がにじり寄り、湿った手で壁を叩いた。
ぬちゃり、と音が響く。
その音が脳を揺らし、恐怖が体を締め上げる。
――逃げたい。
――目をつぶりたい。
だが背後には、泣きじゃくる幼い命がいる。
エレノアは唇を噛み、血の味で正気を繋ぎ止めた。
「絶対に、守る……!」
その声は掠れていたが、確かに闘志の灯が宿っていた。
「きひひひひ――」
赤子の群れが、一斉に腕を伸ばす。湿った皮膚が軋み、鉄臭い瘴気が押し寄せる。
その魔の手が、エレノアの頬に触れんとした刹那――
パァンッ!
乾いた銃声が、闇を裂いた。
伸びてきた赤子の頭がはじけ飛び、血と粘液が壁にぶちまけられる。
「ひゅう……間に合った!」
屋上から声が響く。聞き慣れた女の声。
エレノアの狼耳がぴくんと震え、涙で滲んでいた目が見開かれた。
「エレノアさん、みんな!大丈夫!?」
「……その声、レベッカさん!」
「挨拶は後です!」
屋上から降り立つ姿は、銃を構えたレベッカ。
鋭い眼差しで赤子たちを射抜きながら、エレノアへ声を飛ばす。
「私たちに付いてきてください! 必ず守り抜きます!」
「ケリィさん!」
呼ばれた名に応じるように、後方から轟音が響く。
「おうよ! 殿は任せな!」
ケリィが巨大なライフルを肩に構え、引き金を引いた。
ズガァン!
ドワーフ製の重火器から炸裂した銃弾が、赤子の群れを薙ぎ払う。
肉片と黒い血が散り、瘴気を裂いて空気が震える。
「ドワーフの作ったコイツで……連中の風通しをよくしてやるよ!」
煙の中に立つケリィの姿に、子供たちは歓声を上げ、エレノアの胸にも安堵の熱が広がっていった。
「はっ!いい音聞かせてくれるじゃねえの!」
ケリィがライフルを再び撃ち抜く。
**ズガァァン!**
銃身が震え、轟音が石畳を揺らす。炸裂弾は赤子の胸を貫き、黒い体液と肉片を撒き散らした。鼻を突く血の鉄臭さに、子供たちは泣き声を上げるが、その隙をレベッカが抱きしめ、必死に落ち着かせた。
「こっちだよ! 走って!」
レベッカは一人一人を抱き上げ、ケリィの背後へと誘導する。白い息を荒げながら、肩越しに振り返ると、まだ赤子たちは呻き声をあげて迫ってきていた。
「レベッカさん、ケリィさん!」
エレノアが叫ぶ。狼耳を震わせ、涙を堪えながら必死に声を張り上げた。
「ネメア王が迎撃の準備をされているんです! 城へ来てください!」
「城、ね……よし、乗った!」
ケリィは電子媒体を展開し、掌に淡い光が走る。
「電子媒体のテレポートを使うぞ!」
彼は閃光弾を投げ放つ。**パァン!**と破裂音が夜を裂き、眩い光が一瞬で視界を白く染める。赤子たちの眼孔から黒い血が滲み、群れが苦悶の声を上げる。
「今だ!」
光が爆ぜるよりも早く、ケリィはエレノアを抱き上げた。筋肉が唸り、床板を蹴った瞬間、重力が消えるような感覚。
シュンッ――
跳躍と同時に光が収束し、彼らの姿は弾けるように消えた。
残された赤子たちが、虚空を掻き毟るように手を伸ばすが、そこにはもう誰もいなかった。




