第452話「邪神と邪神」
イングラムたちの進路を、ずるりと歪む影が塞いだ。
闇の中から形を結ぶのは、理解不能の存在――ナイアーラトテップ。
視線を向けただけで、脳が軋む。
言葉すらなく、ただ「ここから先には行かせない」と告げるように立ちはだかる。
「くっ……ナイアーラトテップ!」
イングラムの声は、無意識に震えていた。
その時。
「今度は私の番だよ、騎士様」
軽やかなステップで前へ。
リルルの小さな身体に、あり得ない圧が宿っていく。
空気がひび割れ、視界が白く濁った。
次の瞬間――。
彼女はナイアーラトテップの力を自らの内に呼び込み、意識ごと憑依させていた。
色を失った白の微笑み。
無邪気さと恐怖を同時に孕んだその表情は、人間のものではなかった。
「ククク……神使の荒い子だ」
ナイアーラトテップの声が、リルルの喉から紡がれる。
しかしその響きは二重にも三重にも重なり、誰の声か判別できない。
耳ではなく魂を震わせる、ぞわりとした悪寒。
“キサマ……我々に牙を向けるか?”
影の奥から重なる無数の声が響く。
それに、白く染まったリルルの口元が歪む。
「ククク……そうだ。私は“こちら側”。だからこそ──喰らえる」
次の瞬間。
白光と闇が絡み合い、凄絶な槍の軌跡が走った。
人の目では追えぬ速さ。刃の残光だけが視界に焼き付く。
ナイアーラトテップの影は、一太刀で断たれた。
裂けた闇が、悲鳴のような音を立てて弾け飛ぶ。
直後、壁や天井に潜んでいた“赤子たち”が牙を剥いた。
不気味な産声を上げながら群がるが──
「──遅い」
リルルの槍は流麗だった。
くるりと舞うように身を翻すたび、円を描く刃が魑魅魍魎を次々と削ぎ落とす。
斬撃が描いた円環は舞踏にも似て、血と瘴気を薙ぎ払いながら白い残光だけを残した。
「……リルル。技が冴えているな
「鍛錬を怠っていない証左だ」
白く染まった少女は振り返りもせず、ただ小さく笑った。
その笑みが人のものかどうかは、誰にも分からなかった。
「歩みを止めるな……敵はまだ先だぞ」
リルルの、いや、ナイアーラトテップの声が響く。
「なら道中で聞かせろ、ナイアーラトテップ」
ルークが並び立ち、鋭い眼差しをリルルへ向けた。
「さっき、こちら側と言ったな……本当か?」
白い少女は肩をすくめ、不敵に微笑む。
「……今更怖くなったか? だが安心しろ。リルルが死なない限り、私は彼女と共にある。剣士殿、貴様らを裏切ることはない」
一拍、沈黙。
ルークはその言葉を測るようにじっと見つめ、やがて深く息を吐いた。
「そうか……なら、信じるさ」
軽く口にしたその一言に、リルルの唇がわずかに揺れた。
ナイアーラトテップの冷たい笑みと、リルル本来の幼い笑顔とが、刹那、重なり合った。
突如
闇がざわめいた。
まるで海そのものが、天井から逆さに落ちてくるように。
「……っ!」
ルークが咄嗟に剣を構えた。足元の岩盤がぐらりと揺れる。湿った潮の匂いが鼻腔を満たし、肺を冷やす。
次の瞬間――。
ずるり、と。
壁を這うように、無数の魚人が姿を現した。爛れた鱗と水膨れの肉体。濁った目は一斉にこちらを見据えている。
口々に、言語とも悲鳴ともつかぬ泡のような音を漏らしながら、牙を剥き、群れとなって押し寄せた。
「来るぞっ!」
ベルフェルクの叫びに合わせ、戦士たちが即座に応戦した。
雷光が弾け、炎が舞い、水刃が迸る。群れは薙ぎ払われては潰れるが、次から次へと増えていく。
――そして。
大地が震えた。
耳の奥を圧するような低音。圧力が皮膚を裂き、骨をきしませる。
「……なんだ、この音……」
アデルバートが眉を顰めた瞬間、闇の奥から“それ”は現れた。
鯨の骸に、蟹の甲殻と触手を無理やり縫い合わせたような巨体。
片目だけが爛々と赤黒く光り、そこから放たれる視線がまるで水圧の壁のように押し寄せる。
「ダゴンの……片割れ……!」
フェンリルの唸りが低く響く。
群れを従えたその巨体が、ずしりと足を踏み出すたびに、石床が沈み、裂けた隙間から濁流のような海水が吹き上がる。
「チッ……群れに削らせて、巨体で仕留めるつもりか」
イングラムが歯を食いしばり、槍を構える。
無限に湧く群れと、一撃必殺の巨体。
二重の地獄が、戦場を覆い尽くしていた。
魚人の群れが、黒い奔流のように押し寄せた。
獲物を狙うでもなく、ただひとり――白槍を振るうリルルだけを狙って。
「ほう、私を狙いに来たか……」
鱗の擦れる音、湿った生臭い匂い。
爪が腕に食い込みそうになる瞬間、彼女の身体は軽やかに弾んだ。
槍をひと振りすれば、白の閃光が描く軌跡に沿って、魚人たちの首や腕が宙を舞う。
「数で押し切るとは、愚策だな」
無邪気な声が、血と瘴気の飛沫に掻き消される。
だが笑みは崩れない。
その瞳は、まるで舞台の上に立つ舞姫のように輝いていた。
槍先が大きく円を描く。
瞬間、群れが裂け、数体が倒れ伏した。
だが、すぐさま背後から新手が襲いかかる。
「……っ!」
背中に冷たい鱗の感触。
喉元に牙が迫る。
一瞬の焦りに槍を振り返したとき――
爪が頬をかすめ、赤い線を刻んだ。
「ほぉ……?」
痛みに声を上げながらも、リルルは、ナイアーラトテップは笑う。
槍の白光が再び閃き、群れを押し返す。
けれど――。
数の重圧は止まらない。
まるで波が砕けても、次の波が押し寄せるように。
彼女の息は荒く、掌は汗に滑り始めていた。
槍を握る手に、重さがじわじわとのしかかってくる。
「……仇討ちか、貴様らでもそのような思考、するようになったか」
笑みはまだ消えない。
けれど、その声にはかすかな疲労が滲んでいた。
リルルが魚人の群れを切り伏せるその背後で――大地が揺れた。
「……っ!?」
全員の足元が震える。
潮の匂いを孕んだ風が吹き抜け、視界の奥に、山のような“巨影”が現れた。
ぬらりと現れたそれは、鰓を震わせる巨体の魚人――ダゴンの眷属にして、海の暴威そのもの。
体表は鱗ではなく、岩のように硬化した皮膚で覆われ、胸元には古代の呪印が脈打っていた。
一歩を踏み出すたびに、地の底が呻く。
「おいおい……さっき倒したはずだろ!?」
ルークが剣を構え、顔を歪める。
だが、その影を真っ先に睨み据えたのはフェンリルだった。
「なるほど……雑魚どもは小娘に任せ、俺には貴様を当てるつもりか」
巨狼の声は低く、重い。
その毛並みが逆立ち、黒いオーラが火花のように散った。
牙を剥いた瞬間、空気そのものが裂ける。
「妥当な案だ……だが、生半可な力ではこの俺はやられんぞ!」
巨影が咆哮した。
海鳴りのような轟音が響き、腐臭を帯びた飛沫が雨のように降り注ぐ。
応じるように、フェンリルも吠えた。
その声は夜を裂き、血を滾らせる咆哮。
二つの巨躯がぶつかり合う。
肉と肉、牙と鱗、爪と岩肌。
衝突の余波だけで周囲の魚人どもが吹き飛び、壁が砕けた。
「……まるで、神話の再現だな……」
ルシウスが喉を鳴らす。
フェンリルと眷属の死闘が始まった。
リルルの白槍の閃光と、巨狼の黒き咆哮が交錯する戦場。
その光景はまさに――神話の頁をめくる瞬間のようだった。
リルルはなおも群れに飲まれていた。
十を裂けば、百が押し寄せる。
槍を振るうたびに白い残光が尾を引き、海の闇に穴を穿つ。
けれど足元には屍が積み重なり、彼女の白衣は赤黒く染められていく。
「ククク……ジリ貧か……」
笑みは浮かべている。
だが、その呼吸は確実に乱れていた。
“異質な力”である彼女にすら、数の圧は無視できない。
一方、前線ではフェンリルが巨体と渡り合っていた。
「グルァアアアアア!!」
巨影の拳が振り下ろされ、石のような床を粉砕する。
フェンリルは回避せず、牙で受け止めた。
血が滲む。
それでも怯まず、黒き斬撃の波をその喉へ叩き込む。
「貫けぇッ!!」
爆ぜる音。
眷属の胸を裂いたはずの一撃は、岩のような皮膚に半ばしか届かない。
返す一撃がフェンリルの腹を抉り、血飛沫が宙に散った。
「フェンリル!!」
ルークが叫ぶが、巨狼は首を振った。
「構うな……この巨影は、俺が仕留める……!」
リルルの白槍が群れを薙ぎ、フェンリルの牙が巨影を裂く。
それでも群れは尽きず、巨影も倒れない。
――消耗戦。
ここに至ってなお、誰一人として余力を残せる者はいなかった。
「……一撃、打開策がいる」
ルシウスの声は低く、しかし確固たる決意を帯びていた。
両眼が光を帯び、世界が網目のように広がる。
過去も未来も、因果の線すら射抜く“千里眼”が開かれる。
虚空に指先を伸ばす。
その瞬間、雷鳴のような轟きとともに、彼の手には一本の弓が現れた。
――アルジュナの弓。
神を討つために鍛え上げられた、伝説の武具。
「……見える。脈動の隙間、ただ一筋の線」
弦を引く。
空気が震え、周囲の赤子たちが恐怖に怯えて一瞬退いた。
矢はまだ放たれていないのに、既に“死”が走っている。
「フェンリル! 押さえてくれ!」
ルシウスの声に応え、巨狼は最後の力で巨影の顎を噛み砕き、その動きをわずかに止める。
リルルも血に濡れた槍で群れを薙ぎ払い、わずかな“射線”を切り拓いた。
「これで……終わらせる!!」
――放たれた。
光と雷鳴を纏う矢が虚空を裂き、千里眼で見抜いた一点を穿つ。
巨影の心臓を正確に貫いたその瞬間、咆哮が響き渡り、地鳴りのような音を立てて巨体が崩れ落ちた。
「……ッ!」
ルシウスは膝をつく。
千里眼と神弓の同時行使は、彼の精神を大きく削っていた。
しかし、その眼差しには確かに誇りと勝利の光が宿っていた。
「なら! 俺もやらないとな!」
ルークの声が雷鳴のように響いた。
靴底が地を蹴るたびに砂煙が舞い、彼の姿は残像だけを残して疾走する。
剣が抜かれる音が金属の悲鳴のように響き、瞬きする間に彼は群れの只中へ飛び込んでいた。
「喝ァッ!!」
刃が閃くたび、眷属の醜悪な体が裂け、緑黒の血が飛び散る。
俊足はただの速度ではなかった。まるで嵐そのものが人の形を取ったかのように、ルークは縦横無尽に駆け、切り伏せていく。
リルルの背後に迫った一体の爪が振り下ろされる――
しかし、その腕は一瞬後には肩から斬り飛ばされていた。
「……遅いんだよ、お前らは!」
振り返ったリルルの顔に、思わず笑みが浮かんだ。
血に濡れた槍を構え直し、彼女はルークと背中を合わせる。
「ほう、やるな……?」
「そりゃどうも! だが、まだまだだぞ!」
二人は声を張り上げ、まるで呼吸を合わせるかのように同時に動く。
剣と槍が舞い、疾風と嵐の連撃が群れを押し返していく。
その光景は戦いというよりも、死と生を懸けた舞踏だった。




