第451話「辛勝」
灰色の大鎌が、唸りを上げて振り下ろされた。
刹那、ダゴンの分厚い鱗を削り裂き、触腕の一本を断ち落とす。
だが――それは単なる切断ではなかった。
「……ッ、グオオオオオオオッ!!」
深海を震わせる咆哮。
切り口からは血ではなく、どす黒い靄のようなものが立ち昇り、周囲の海水を腐らせていく。
触腕の断面はぐずぐずと溶け崩れ、まるで“死”そのものが喰らい付いているかのように広がっていった。
「効いてる……!」
ソフィアの肩が震えていた。
だがそれは疲労や恐怖ではない――確かな“手応え”に震えていたのだ。
「ふん……さすがに、死神の鎌は伊達じゃねぇな」
アデルバートが血を吐きながら笑う。
彼の皮膚も毒の反動で裂け始めていた。
「まだ、終わらせちゃいねぇ……!」
「ああっ!」
イングラムは北欧神の槍を構え直し、黒い水泡を纏う巨影を睨み据える。
ダゴンはなお健在だ。
だがその巨体には、確かに“死の影”がじわじわと刻まれ始めていた。
青と紫の光が、狂った心臓の鼓動のように速く明滅する。
その輝きは力の証明であると同時に、残された猶予が削れていく兆候でもあった。
「時間がねえ……ここで仕留めなきゃ、すべて無駄になる!」
アデルバートの声は怒号ではなく、戦場に響く鐘のように鋭く仲間の心を打った。
ソフィアの大鎌が刻んだ“死”の付与は、刻一刻と巨影を蝕んでいる。
だが――それを活かせるかどうかは、今この瞬間にかかっていた。
「……ああ!」
イングラムは頷き、槍を構え直した。
北欧神の残光を帯びるその穂先が、濁流の闇を裂く。
背後ではソフィアが呻き声を押し殺し、膝をつきながらも鎌を握り直していた。
「行くぞ……今しかねぇ!」
二人の叫びが重なる。
青と紫の光が、最後の爆ぜるような明滅を放った。
青と紫の光が、一際大きく爆ぜた。
アデルバートの三叉槍が唸りを上げ、ソフィアの大鎌が死の軌跡を描く。
「──沈めぇぇぇッ!!」
二人の叫びが重なった瞬間、
大海を象徴する巨体ダゴンの胸を、三叉の穂先が貫いた。
同時に、灰色の大鎌がその影を斬り裂き、喰らうように“死”を刻み込む。
グワァァァァッ!!
耳を劈く咆哮とともに、海底が揺らぎ、虚空のような瘴気が噴き出す。
だが、その闇はすぐに光に飲み込まれた。
青の奔流と紫の死が絡み合い、巨影を押し潰すように収束していく。
やがて、轟音とともにダゴンの身体は崩れ落ちた。
幾千の鱗片は黒い泡となって弾け、海そのものに還っていく。
「……っ、はぁ……!」
アデルバートが槍を支えに膝をつく。
ソフィアもまた肩で荒く息をし、血の混じる吐息を吐いた。
その顔には疲労と痛みが刻まれていたが――確かな勝利の炎も揺れていた。
「終わった……のか……?」
ルークの問いに、イングラムが頷いた。
「……あぁ、ダゴンは沈んだ」
静寂が訪れる。
だが、その静けさは決して安らぎではない。
――本当の戦いは、まだその奥に待っているのだから。
黒い泡がすべて弾け、海底に重苦しい静寂が広がった。
ダゴンの影はもうない――だが残されたものは、勝利の安堵ではなく、あまりにも深い疲労だった。
「……っはぁ……!」
アデルバートが槍を支えに片膝をつく。腕の神性の輝きは完全に消え、血に濡れた肌があらわになっていた。毒の代償が彼自身に回り込み、骨の軋みが耳に届く。
「アデル!」
ルークが駆け寄ろうとするが、彼は手で制した。
「来るな……俺はまだ戦える。……だが、この調子だと次は保たんかもしれんな」
ソフィアもまた、荒い呼吸を繰り返していた。大鎌を杖のように突き立て、震える膝を必死で支えている。唇の端から赤が零れ落ちた。
「……ごほっ……でも……仕留めた……」
彼女の灰色の瞳は、まだ死を宿していたが、その輝きは薄れていた。
イングラムが歯を噛み締める。
「……代償は大きいな。それでも、進まなきゃならない」
フェンリルが唸るように言葉を重ねた。
「時間はない。クトゥルフが目覚める前に核へ辿り着くのだ」
ライルが一歩前に出た。
白狼の光が淡く灯り、仲間の肩に触れるたびに小さな温もりが広がる。
「……癒せるのはわずかだ。でも、前に進めるくらいは整えられる」
ルシウスが弓を握りしめる。
「なら、立とう。俺たちに退路はない」
ベルフェルクが肩を揺らし、かすかに笑った。
「これでやっと、“本番”にたどり着けるってわけだな」
血に染まった戦場を背に、彼らは歩き出す。
白と黒が交じり合う奇怪な大地の奥へ――
ルルイエ、その核心へと。
◇◇◇
仲間たちの背中が闇に溶けて消えていく。
残された空間に響くのは、自身の心臓の鼓動と、レオンを包む石の軋みだけだった。
「……あなたを、必ず取り戻す」
クレイラは静かに誓いを立てる。
背に集まった五つの概念の光が彼女の体を巡り、彼女自身が燭台のように淡い輝きを放っていた。
その時――
ざり、と。
人の足音とは似ても似つかぬ“粘ついた何か”が地面を這う。
視界の端で黒い水が染み出すように広がり、空気が急速に重たくなった。
「……来たのね」
現れたのは、瘴気にまみれた無貌の影。
形を定めぬままに人の形を模したかと思えば、次の瞬間には獣の顎を晒し、ぐにゃりと歪む。
それはまるで、外なる神の使いが“番犬”として置かれたかのようだった。
石像のレオンが僅かな光を反射して沈黙している。
彼女はちらりと背後に目をやり、そっと微笑んだ。
「大丈夫……ここは私が守る。あなたが目覚めるその時まで」
紅紫の光が彼女の両手に収束する。
静かな祈りとともに、空気は再び戦場の緊張を孕んでいった。
黒い水が沸き立つように床を染め、瘴気を孕んだ影が形を変える。
腕のようなものが幾本も伸び、先端は刃か牙かも判別できぬまま、ヌラヌラと光を反射する。
「……醜悪ね」
クレイラは吐き捨てる。
両手に集めた五色の光――紅、翠、蒼、金、紫が脈動し、まるで彼女の心臓そのものが外に晒されたかのように鼓動する。
概念を背負った彼女は、ただの人間でも、ただの神でもなかった。
影がうねりを上げて突進する。
耳を突くのは人の悲鳴にも似た濁音。
同時に腐臭が鼻腔を焼き、肌がざわりと総毛立つ。
「――来なさい!」
紅蓮の奔流が掌から放たれ、先頭の影を焼き裂く。
だが影は裂けても消えず、霧のように分散して再び形を成す。
「しつこい……!」
翠の風が旋回し、蒼き奔流が斬り裂き、紫電が閃光となって叩きつけられる。
しかし、影は怨嗟のように呻き、何度も何度も立ち戻ってくる。
――時間を稼ぐための“門番”。
その意図をクレイラは悟る。
「……そういう役割ってわけね」
背後で、石化したレオンの瞳が月光を受けて淡く光った気がした。
彼女はぎゅっと奥歯を噛みしめ、両手を再び掲げる。
「大丈夫。私が……必ずあなたを守る」
五色の光が咆哮を上げ、闇と衝突した。
虚空が震え、戦いは始まった。
影が再び押し寄せる。黒い奔流はまるで海そのものが腐り落ちて流れ込んでくるかのようで、ひと呼吸遅れれば飲み込まれる。
「はぁっ──!」
クレイラの掌から奔る紫電が、暗黒を切り裂いた。
空気が焼け、耳を劈く轟音が響く。
だがその瞬間、彼女の口から血が吐き出された。
「く……っ」
喉の奥が焼けただれるように痛い。
声を出すたび、声帯が裂けるように震え、胸の奥に熱い血が溜まる。
指先は痺れ、骨がきしむ。
全身の毛細血管が弾け、白い衣を赤く染めていく。
「まだ……終われない……!」
彼女の瞳は赤く濁り始めていた。
瘴気が精神を侵し、頭蓋を押し潰すような圧がかかる。
理性がかすかに軋みをあげ、今にも砕けそうになる。
それでもクレイラは、己の頬を叩くようにして踏みとどまる。
「守るって……決めたんだから!」
彼女の背後には石と化したレオン。
その姿に縋るように、再び五色の光を呼び覚ます。
――紅蓮の炎が、血の匂いを巻き上げる。
――翠の風が、焼け爛れた皮膚を冷たく撫でる。
――蒼き奔流が、視界を真っ白に覆い尽くす。
――黄金の輝きが、耳をつんざく轟音となる。
――紫電が、脳の神経を一本一本焼き切る。
そのすべてが、彼女の生命を代償にして放たれていた。
「はぁっ……はぁぁぁぁぁっ!!!」
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
血を吐きながら、涙をこぼしながら、なお笑みを浮かべて。
「……こんなところで、私が負けるわけには……いかない!!」
五色と黒が衝突し、光と闇が絡み合って爆ぜた。
その中でクレイラの身体は膝から崩れ落ちそうになるが、震える腕で無理やり立ち上がる。
背後にあるレオンの石像を、決して倒させはしない。
彼女の精神も生命も削れていく。
だがその姿は──守護者の女神のように、美しかった。
黒い空間の奥で──ざわり、と空気が揺らいだ。
それは音でもなく、風でもなく、存在そのものの“歪み”。
「……っ!」
クレイラの喉が凍りつく。
次の瞬間、無数の眼と口を持つ“影”が、石像となったレオンの方へと滑るように迫ってきた。
形を定めず、液体のように地を這い、煙のように空を覆い、気づけばすぐそこに。
――ナイアーラトテップ。
そして、無数の赤子たち──
「やめてっ!!!!」
クレイラは震える両腕を掲げ、五色の奔流を叩きつけた。
紅蓮が焼き、蒼流が削り、翠風が裂き、黄金が弾き、紫電が貫く。
だが──。
“……無駄だ“
耳ではない。脳髄に直接響く“声”。
それは人間の言語ですらないのに、理解してしまう。
ナイアーラトテップの影は、光を飲み込み、黒い腕を伸ばした。
狙うは、石化したレオン。
指先が石像の頬に触れようとしたその瞬間──
「やらせないっ……!!」
クレイラの脚が崩れそうになる。
肺から血を吐き、視界が赤く染まる。
それでも彼女は立った。
「あなたは……絶対に……壊させないっ!!!」
彼女の叫びと同時に、五色の光がひときわ強く燃え上がる。
だがナイアーラトテップの影は笑っていた。
声もなく、ただ“ぞわり”と全身に走る悪寒。
石像に伸びる指が、あと数寸で触れる。
その刹那、黒い斬撃が──
虚空を裂き、大地を抉り、存在そのものを否定するかのように奔った。
音はなかった。
だが、鼓膜の奥を破るような“振動”だけが全身を揺さぶる。
目に映る世界は、刃に切り裂かれた部分だけが黒く消失し、境界ごと飲み込まれていく。
ナイアーラトテップの腕が宙で止まった。
影の指先が、レオンの頬に触れる寸前で──すぱり、と断ち切られて虚無に消える。
「……っ!!!」
クレイラは崩れ落ちそうな膝を支え、血の混じる吐息を呑み込んだ。
助かったのか? だが、誰が……?
次の瞬間、闇の奥から低く響く咆哮。
“――黒狼”
虚無の中に顕れた巨影は、漆黒の鬣を逆立て、金の眼で全てを睥睨していた。
救いのようでいて、災厄そのものの登場。
ナイアーラトテップすらも、一瞬だけ動きを止めた。
〈間に合ったか……クレイラ〉
その声色は、確かにレオンのものだった。
優しく、強く──かつて仲間を導き、戦場に立ち続けたあの響き。
けれど、同時に黒狼の咆哮が混じり、耳の奥で“別の何か”が囁いているようでもあった。
「……レオン、なの?」
クレイラの声が震える。
血の味が口に広がり、視界は霞んでいるのに、その姿だけははっきりと見えた。
黒狼の影が形作る、あまりにも人に似た輪郭。
紅蓮の瞳は、確かに彼女の愛した男のものだった。
ナイアーラトテップの黒き影が、ぞわりと蠢く。
理解不能の笑い声が脳髄を穿つ。
だが黒狼は一歩前へ踏み出し、その存在だけで瘴気を押し返した。
〈……もう少しだけ、待っていろ。必ず、目を覚ます〉
その言葉は、レオンの約束か。
それとも、黒狼の宣告か。
クレイラの胸に、熱と悪寒が同時に走った。




