第450話「灯火の声」
「みんな、私はここに残る」
その声は静かだった。
だが、紫電と五色の光を纏うクレイラの姿は、誰の目にも揺るぎない決意を映していた。
「なに……!? 一人で残るなんて危険だ! 俺たちも──!」
ルークが声を荒げる。
だが、その肩にイングラムの手が置かれた。
鋭くも優しい眼差しで首を振り、短く言い切る。
「彼女なら大丈夫だ……俺たちは先へ進もう。クトゥルフが目覚める前に倒すんだ」
「……しかし!」
前へ出るアデルバートとルシウス。
焦燥を隠さぬ二人の声が重なった。
「奴らは待ってはくれん。もたつけば……レベッカたちが苦戦する羽目になる」
アデルバートのその言葉に、ルークは歯を食いしばる。
明かりに濡れた剣の柄を強く握り、唇を震わせながら――
「──くっ……!」
渋々承諾し、前へ踏み出した。
だが振り返った瞳は、何度も「振り向くな」と言い聞かせるように揺れていた。
「ライル、ロニ、レネ……」
クレイラは三人の名を呼んだ。
その声は不思議なほど静かで、まるで戦場の喧騒そのものを遠ざけるようだった。
「……頼んだよ」
白狼を背負う兄も、神殺しの血を継ぐ娘たちも、小さく頷いた。
その微笑みに、言葉では語り尽くせぬ想いが託されていた。
そして――仲間たちが背を向けて進みゆく瞬間。
クレイラは深く息を吸い込み、ひとり残された空気を胸に抱きしめる。
足元には冷たい石の床、空気は重苦しく淀んでいる。
けれど彼女の両腕に抱かれるその存在――石化したままのレオンの体温を確かに感じる気がした。
「……大丈夫」
そっと額を寄せる。
髪が石肌に触れる音が、ひどく切なく響いた。
「私が、君を守るからね……レオン」
まるで子守歌のように。
彼女の囁きは、瘴気に満ちたルルイエの闇の中で、ひとつの灯火となって揺れていた。
先へ、さらに先へ。
瘴気は濃く、足音さえ呑み込まれる。
ルークは剣を握る手に汗を感じながら、それでも前へ進んだ。
だが――胸の奥に、どうしても拭えない懸念があった。
(……クレイラさんを、あの場に残してよかったのか……?)
もしも彼女が一人で危険に晒されていたら。
もしも、仲間が戻ったときに彼女が……。
どんっ
突然、背中に軽い衝撃。
振り返ると、レネがにやりと笑っていた。
「お母さんが心配?」
軽やかに、けれど真っ直ぐに。
その一言は、ルークの胸の奥を射抜いた。
「彼女は強い……けど、一人で奴らをしのぎ切れるかは……わからない」
ルークの声は低く、足音に溶けそうなほど小さかった。握りしめた拳に、じっとりと汗がにじむ。
「お父さんがそばにいるよ」
レネは軽やかに笑って、彼の横に並んだ。
その声は瘴気を割る清風のようで、ルークの肩をそっと軽く叩く。
「いざって時は、石化なんて解いて、あっという間に倒してこっちに追いつくと思うよ? ううん、追い抜かれるかもぉ……」
彼女の無邪気な響きに、ルークは思わず横顔を見た。
冗談めかした調子の奥には、父への絶対の信頼と、母を信じる強さがあった。
それはルークが抱える不安を、ほんの少しずつ溶かしていく。
「……そうか、そうだね。あの二人なら、きっと……」
声に力が宿ると同時に、上空から瘴気をまとった赤子が群れをなして迫る。
ルークは顔を上げもせず、剣を振るった。
刃が風を裂き、ひと息で五体を斬り伏せる。
返り血は虚空に散って霧のように消え、彼の足取りは乱れなかった。
――あの二人なら大丈夫だ。
レオンには一度たりとも勝てなかった。
クレイラにも、勝つ自分を想像できなかった。
だからこそ、彼らは信じるに足る。
自分よりもずっと、強くて揺るがぬ存在なのだ。
「ふふ、そうそう。その顔の方が似合うよ、ルークさん」
レネの笑みは、暗黒に沈む道を照らす灯火のようだった。
「ふふ、君は褒めるのがうまいな」
「どういたしまして……おっと」
その瞬間、足元から突き上げるような揺れが襲った。
ただの地震ではない。地面が唸り、空気がびりびりと軋む。
瘴気が揺れに呼応するように膨張し、熱とも冷気ともつかぬ“異質な感覚”が肌を撫でた。
石畳がひび割れ、天井から黒い滴が落ちる。
それは水ではなく、粘ついた瘴気そのものだった。
「何かが、来る……いや、待ち構えているのか……俺たちを」
ベルフェルクが低く吐き捨てる。
脈動する大地。鼓動のような震動。
まるでこの空間そのものが、ひとつの巨大な生き物の臓腑であるかのようだった。
激しい揺れが収まりきらぬうちに――
空気が、海底のように重く淀んだ。
「……っ、息が……」
ソフィアが喉を押さえる。
水でもないのに、肺が圧迫される。
ずるり、と。
黒い影が壁から剥がれ落ちるように這い出してきた。
鱗のような質感と、鰭のような腕、そしてぎょろりと動く黄金の眼。
「やつは……ダゴン……!」
ライルが低く呟く。
だがそれは、完全な降臨ではなかった。
影は霧のように揺らぎ、時に魚人めいた姿に、時に異形の巨体に変じる。
この世に居座るには不完全な、化身の姿だった。
「クク……我らが主の門を開かせはせぬ……」
声は直接脳に響き、心臓を氷の手で掴まれるような感覚を与える。
「どけ……木偶の坊に用はねえ!!」
アデルバートの咆哮が、重苦しいルルイエの空気を震わせた。
その身体に、怒涛のような神性が奔流する。
ギリシャの海神ポセイドン――その権能が彼の血肉を灼き、蒼い奔流となって噴き上がった。
手に握られた三叉の槍――トライデント。
その刃先からは、猛毒のヒュドラの瘴気が滲み出し、
潮と毒とが混じり合う凄烈な圧があたりを覆う。
「俺も行く……ここで足止めを食らうわけにはいかないッ!」
イングラムもまた、全身に宿す神性を解き放った。
北欧の主神オーディン。
その権威が彼を包み、瞳には雷光のごとき冷厳な光が宿る。
片手に掲げたは、神槍グングニル。
ただ振るうだけで虚空が軋み、視界が白く裂ける。
二人が並び立った瞬間、瘴気すら後退した。
蒼と白――二柱の神がここに現界したかのような、凄烈な気配。
「アデル!」
「イングラム!」
互いに名を呼ぶ声が重なり、息を合わせる。
神々の力を宿した戦士二人――。
その一歩は、確かに「道を切り拓く者」の足音だった。
アデルバートがトライデントを振り抜いた。
蒼い奔流が奔り、毒を孕んだ波濤が虚空を裂いてダゴンの胸板を叩きつける。
――ズガァァン!
大海原そのものを逆巻かせる一撃。
同時に、イングラムが神槍グングニルを構えた。
稲妻が迸り、紫電を纏った神槍が光の尾を引いて突き抜ける。
鋭い閃光が、巨神の眼へと突き刺さった。
「うおおおおッ!!」
二人の咆哮が重なり、蒼と紫紺の閃光が炸裂する。
黒々と濁った肉体に、確かに光は食い込んだ。
――だが。
「グゥゥゥゥォォオオオオ……!!!」
鼓膜を破るような咆哮が世界を震わせた。
ダゴンはのけぞっただけで、膨大な肉の鎧には、かすり傷すら残っていない。
血も出ない。
ただ、巨躯を揺らすだけの抵抗。
イングラムは歯を食いしばった。
「……効いてはいる、だが……!」
アデルバートの腕が震える。
潮と毒の奔流は確かに巨神を揺らしたが、傷は浅すぎる。
まるで分厚い石壁を相手にしているような手応え。
「これが……深海の王、ダゴン……!」
巨体が再び前へとのしかかる。
腐臭と瘴気を撒き散らし、光をも押し潰す重圧が二人の身体を圧倒した。
「俺たちも──!」
ルシウスが駆け出そうとした瞬間、鋭い声がそれを遮った。
「ダメだッ!」
アデルバートの怒号が響いた。
月光のような蒼の奔流を纏いながら、彼は一瞬だけ背後を振り返る。
その眼差しには血のような決意が宿っていた。
「こいつは……俺たちで仕留める!」
ルシウスの足が止まる。
握り締めた弓の弦がぎしりと鳴った。
彼も分かっている。
だが、戦友を見殺しにするような感覚が胸を焼いた。
「……ッ、でも!」
「来るな!」
アデルバートが叫ぶ。
「まだ先があるんだぞ! この先、もっと強大な邪神が現れるのは目に見えている!
戦力は、可能な限り温存しなければならん!」
紫電を纏うイングラムも、低く付け加えた。
「ここは──俺たちに任せるんだ!」
アデルバートの声は、荒ぶる潮を裂く雷鳴のように響いた。
「行くぞ、イングラム!」
「……あぁ!」
二人は迷いなく頷き合った。
概念の力を失おうと、まだ彼らには肉体がある。
血が流れようと、骨が軋もうと、折れぬ意思がある。
それは、仲間を守り抜くための刃であり、明日を繋ぐための灯火だった。
アデルバートの手に握られたトライデントが、毒々しい紫光を帯びる。
ヒュドラの毒を宿した穂先が空を裂き、ダゴンの禍々しい眼へと突き立つ。
じゅうぅぅ……ッ!
海そのものを煮え立たせるような音が轟いた。
漆黒の眼窩から白煙が噴き出し、巨体の奥底を震わせる咆哮が迸る。
「グォォォオオオッッ!!!」
腐臭と塩気を混ぜた生臭い風が吹き荒れ、全員の肺を満たした。
だが二人は怯まない。
イングラムがグングニルを構え、紫電を纏わせた槍を振り抜いた。
「ここで退けるかぁッ!!」
雷鳴と共に突き立った一撃が、さらに巨体を後退させる。
血と毒と電光の奔流が混ざり合い、夜のルルイエに凄絶な光を刻んだ。
「……フッフッフ」
咆哮とも笑いともつかぬ声が、深海そのものを震わせた。
瘴気を含んだ水飛沫が弾け、塩と血と腐臭が鼻を突く。
「ふん、鈍重でタフな野郎だ……!」
アデルバートが吐き捨てる。
その全身を覆う神性の輝きは、もはや点滅を繰り返し、明滅するたびに皮膚がひりつき、血管が黒ずんでいった。
彼の舌打ちが、耳の奥に鋭く響く。
「ルーク! 私を飛ばして!」
ソフィアの叫びが、緊張を裂いた。
その瞳には恐怖ではなく、決意だけが燃えている。
「……! 了解!」
ルークは全力で剣を突き出し、その刃を一瞬の足場とする。
ソフィアは灰色の髪をなびかせ、宙を舞った。
その身は死を象徴するソウルイーター。
灰色の光が全身を包み込み、月光にも似た冷たい輝きが虚空を切り裂く。
「はんっ、仕方ねぇ女だ……! イングラム!」
「――ああっ!」
二人が残された力をすべて振り絞る。
イングラムの槍が唸りを上げて巨体の脚を縫い止め、アデルバートの毒が鱗の隙間に走る。
刹那の隙。
その一点を狙って、灰色の大鎌が振り抜かれた。
ソフィアの一撃は、邪神すらも等しく喰らう“死”そのもの。
斬撃の軌跡に触れた触腕が悲鳴を上げ、腐り、崩れ落ちていく。
三人の連携。
それは、命を削って作り出した、たった一瞬の光だった。




