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第447話「決戦前夜 その2」

インド領域の丘に立つルシウスの周りを、香辛料の残り香を含んだ夜風が包み込む。クミンとカルダモンの甘苦い匂いが鼻腔をくすぐり、風が耳元で鈴のような音を立てて過ぎていく。遠くの寺院から響く鐘の音が、規則正しい鼓動のように空気を震わせ、頭上には星々が冷たい光を散らしていた。


「眠れないのか?それとも、過去の自分を振り返っていたか?」


背後から響く低い声。砂を踏む足音が近づき、兄ルキウスの体温が隣に並ぶ。振り向かなくても、その存在感が肌にじりじりと伝わってくる。


ルシウスは星空を見つめたまま、苦い薬草を噛むような声で呟いた。


「皮肉だよね……一度は殺そうとした相手を、今度はこの手で助けに行くなんて」


握りしめた拳から、爪が掌に食い込む鈍い痛みが走る。指の関節が白くなり、細かく震えているのが自分でも分かった。


ルキウスの吐息が白く夜気に溶ける。ゆっくりと首を横に振る音が、静寂の中で妙に大きく聞こえた。


「……だが、それはお前たちにしかできない。レオンと関わった、お前たちにしか」


その言葉は夜風に乗って流れ、星々の光と共に胸の奥深くに沈んでいく。


ルシウスは目を伏せる。胸の奥で何かが熱く疼き、心臓が早鐘のように打つ。まるで体の内側から「答えを出せ」と急かされているような、焦燥感が全身を駆け巡る。


「……俺は戦うよ」


声は静かだが、その奥で脈打つ決意が言葉に熱を与える。喉の奥が熱く締まり、唾を飲み込む音が妙に大きく響いた。


「また兄さんと……こうして星を眺めたいから」


頭上の星々がその言葉を聞いたかのように、一斉に瞬きを強める。夜風が二人の髪を撫で、涼やかな香辛料の匂いが鼻先をかすめて流れていく。


「はぁ……」


ルキウスの深いため息が、白い息となって夜空に消える。肩が重そうに落ちた。


「想い人の一人や二人、いないのか」


「兄さんに言われたくない!」


ルシウスが振り返る。その笑顔は少年のような無邪気さを持ちながら、どこか強がりの熱を帯びていた。頬がわずかに紅潮し、目尻に小さな皺が寄る。


「…………」


ルキウスは黙り込む。弟を見つめる瞳の奥に、戦士ではなく血を分けた兄としての祈りが宿っていた。喉元まで出かかった言葉を、奥歯で噛み砕いて飲み込む。


(……いる。だが、お前には言わん)


胸の内で響く声は、決して外には漏らさない。星の光が揺らぎ、黙した横顔を銀色に縁取った。


「そうだ、聞きたいことがある」


ルシウスの声が夜風を裂く。


「ん?」


「どうして言ってくれなかった。"あの人が彼女"だって」


空気が凍りつく。ルキウスの瞳が刃のように細まり、殺気にも似た圧が肌を刺す。


「──覗いたな、その眼で」


「魔が差した」


ルシウスは悪戯を見つかった子供のように肩を竦める。その笑みは兄にだけ見せる、無防備な柔らかさを含んでいた。


「帰ったら……覚えておけ」


低く押し殺した声。拳を握る音が、関節を軋ませながら夜の静寂に響く。


「ははは」


ルシウスの笑い声が星空へ昇る。二人の間に落ちる沈黙は、温かな毛布のように心地よかった。


◇◇◇


ベルフェルクの拳から、血の匂いが立ち昇る。爪が掌に深く食い込み、じくじくとした痛みが腕を這い上がってくる。指の骨が軋む音が、静寂の中で不気味に響いた。握りしめた拳は白く変色し、血管が浮き出て脈打っている。


「よぉ、何やってんだこんな時間に」


背後から軽い足音と共に、気安い声が降ってくる。夜気を揺らすその響きが、肌にぴりぴりと触れた。


「テメェには……関係ねぇ」


吐き捨てた声は、喉の奥で震えていた。舌の上に鉄の味が広がる。


「あるさ」


笑いを含んだ声が、ぐっと距離を詰めてくる。体温が近づき、相手の息遣いまで感じられた。


「同じ土俵に立つ仲間だろ!ほら、何考えてんだ言えよ!おい!」


肩を叩かれた衝撃が、全身に響く。ベルフェルクは舌打ちを飲み込み、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。胸の奥で何かが軋む音がする。


「……はぁ。俺は、レオンくんに命を救われたって話はしたな?」


「……ああ、聞いてる」


シンディの声から軽さが消える。ベルフェルクの背中から立ち昇る重圧が、空気を濃密にしていた。


「ようやく……借りを返せる。でも同時に、それで終わっちまう。そんなこと考えてる……」


声は掠れ、喉が痛いほど絞られる。握った拳から流れる血が、指の間を伝って滴り落ちる。その温かさが、かえって心を冷たくした。


「はぁ?貸し借りで縁が終わると思ってんのか」


シンディの声に苛立ちより呆れが滲む。その響きの奥に、不器用な優しさが隠れていた。


ベルフェルクは答えない。胸の奥には言葉にならない空洞がある。友を作らずに生きてきた。「借りを返す」という一本の糸が切れたら、何も残らないのではないか――その恐怖は、邪神の冷気より骨の髄まで凍らせる。


夜風が二人の間を抜け、星明かりが影を重ねる。ベルフェルクは唇を噛み、血の味が口中に広がった。


「怖いなら言えばいいじゃねえか。『友達になって』ってな」


空気が止まる。心臓が一瞬、鼓動を忘れたかのような静寂。


「まさか言葉にできないなんて言うつもりか?俺たちにあんだけトゲ刺してきたくせに」


正論が胸に突き刺さる。自ら壁を作り、牙を向けてきた。それが生き残る術だと信じていたから。でも今、シンディの声は真っ直ぐに胸の奥まで届いていた。


「っとに、ツンツンしやがって……」


頭を掻き乱す音が聞こえ、踵を返す足音が遠ざかる。でもその背中から、温かさが伝わってくる。


「さっさと寝ろよ。明日は――助けに行くんだろ?」


去り際の言葉が、耳の奥でじんと響く。喉元で何かが渦巻くが、声にはならない。残されたのは、掌に滲む血の生温かさと、胸の奥でくすぶる不思議な温もりだった。


◇◇◇


「ライルよ……ごめんなぁ」


老いた声が神殿の石壁に反響する。すすり泣きが水滴のように落ち、胸の奥まで染み込んでいく。鼻をすする音が、静寂を細かく震わせた。


「どうして謝るんだよ……お祖父ちゃん」


月明かりがギルザの顔に深い影を作る。目尻から頬を伝う涙が、光の筋となって流れていた。老いた肌の皺が、悲しみでさらに深く刻まれている。


「本当なら……俺とレーヴェでクトゥルフを倒すはずだった」


声は石を擦るような重さ。喉の奥から絞り出される苦い響きが、空気を震わせる。


「お前たちが……うんと小さい頃にな」


拳を握る音が響く。戦場で幾度も仲間を守ってきた手が、今は無念に震えていた。関節が白くなり、血管が浮き出ている。


ライルの胸に熱いものがこみ上げる。喉が締まり、目の奥が熱くなった。祖父の背が小さく見える。でもその背には、今も世界を背負う強さが宿っていた。


「お前たちには……普通の子供と変わらない生活を送ってほしかった」


声が震え、言葉が途切れる。


「俺は普通の祖父として……レーヴェは普通の父として……リディアさんは普通の母として──」


老いた喉が詰まる。嗚咽が漏れ、涙が深い皺を濡らしていく。その姿が、ライルの心を強く締め付けた。


「……送れるさ」


静かな声が響く。月光に照らされたライルの瞳に、揺るぎない光が宿っていた。


「この戦いが終われば、きっと」


ギルザの目が大きく見開かれる。驚きで呼吸が止まったかのようだった。


「そうだ、お祖父ちゃん──三人でどこかに住もう」


「ライル……!」


「遠くに行って、みんなで暮らそう。仕事なら探せばいくらでもある」


ギルザの胸の奥で何かが弾ける。熱いものが喉を駆け上がり、嗚咽混じりの笑いが漏れた。


「ふ……ふふ……ははははっ!そうか、そうかぁ……!」


老いた肩が大きく震える。笑いと涙が混じり合い、声が裏返る。


「ありがとう……ありがとう……っ!」


涙が光の粒となって床に落ちる。その一粒一粒に、「普通」を夢見た男の願いが込められていた。温かな涙が、冷たい石床に小さな水たまりを作っていく。


◇◇◇


北欧領域の夜気が肌を刺す。白銀の月光を浴びた妖精たちが、花弁のように舞い散り、その残光が網膜に焼き付く。光の粒子が空気中を漂い、触れれば消えてしまいそうな儚さで輝いていた。


「……いよいよ、明日なのね。イングラム」


肩に触れる手の温もりと、その指先の細かな震えが伝わってくる。ソフィアの手は冷たく、小刻みに震えていた。


「ああ……」


イングラムは視線を落とす。隣にいるのは勇敢な死神ではない。愛する者を失うかもしれない恐怖に震える、一人の女性だった。彼女の呼吸が不規則で、心臓の鼓動まで感じられる。


「でも……君がいる、リルルもいる。守る相手がいる限り、俺はどんなに傷ついても戦える」


「──っ」


ソフィアの喉が締まる。胸の奥に溜まっていた不安と恐怖が、堰を切ったように逆流する。涙で視界が歪み、呼吸が詰まって声が出ない。喉の奥で言葉が絡まり、熱い塊となって詰まっていく。


「私は……私はっ──!」


震える手でイングラムの胸倉を掴む。冷たい指先に力を込めるが、震えは止まらない。布地の感触が、必死にしがみつく手に伝わってくる。


「本当は……行ってほしくない……!」


声が夜気に震えながら溶ける。


「傷ついてほしくない……!血まみれで苦しむ姿なんてもう見たくない……!私の……そばにいてほしいの!」


感情が決壊する。肩が大きく震え、嗚咽が喉を詰まらせる。熱い涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる。握っていた杖が手から滑り落ち、床に当たる硬い音が響いた。


「ソフィア……」


イングラムが名を呼ぶ。その声の響きが、胸の奥まで届く。


でも彼女は首を振る。涙で霞む視界の中、必死に手を伸ばして彼の衣を掴む。布地に爪が食い込み、指が痛いほど力を込めていた。


「お願い……もうあなたが壊れていくのを見たくない。傷だらけになって、笑ってごまかして……そんなの、耐えられない……!」


嗚咽が言葉を途切れさせる。それでも胸の奥の熱い想いは、確実に伝わっていく。涙が指を濡らし、冷たい夜風が濡れた頬を刺すように痛い。


イングラムは静かに彼女を見下ろす。でも退けない。やっと辿り着いた、レオン・ハイウインドを探し出すという最初の目的へ。


「ソフィア、約束する」


彼の手が涙に濡れた頬に触れる。温かな掌が、冷えた肌を包み込む。


「俺は必ず、君や仲間と共にあるべき場所に帰る……」


ソフィアの震える呼吸が一瞬止まる。瞳の奥に、縋るような光が宿る。


「一緒に暮らそう、ソフィア」


静かだが、断ち切れない強い意志を宿した声。


「そのためにも、俺は君を守り切る。明日も、その先もずっと……」


「……イングラム」


涙で滲む視界の中、彼の顔だけがはっきりと見える。次の瞬間、ソフィアは迷わず胸に飛び込み、唇を重ねた。


柔らかく温かな感触が、冷たい夜気を一瞬で焼き払う。心臓が早鐘のように打ち、互いの吐息が熱く混じり合う。唇の温度、微かな震え、全てが生々しく伝わってくる。


「これは……誓いの証だから」


震える吐息の中で、かすれた声を絞り出す。唇がまだ痺れている。


「破ったら……地獄の果てまで追いかけるから!」


イングラムが微笑み、額を重ねる。体温が伝わり、鼓動が響き合う。


「……ああ、君となら どこまでも行く」


月明かりが二人を銀色に包み込む。静かな夜風が誓いの言葉を運び去っていった。

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