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第448話「ルルイエ」

早朝の爽やかな静寂を裂くように、空が低く唸った。

銀の鍵がイングラムの掌に乗せられた瞬間、氷のような冷気が辺りに広がる。金属の小さな輝きからは想像もできないほど、空気は重く、喉の奥がざらついた。


「……こいつが、ルルイエに繋がる唯一の方法だ」


イングラムの声はかすかに震えていたが、確かな決意が宿っていた。


リルルが一歩前に進む。

その瞳は無邪気な少女のものではなく、ナイアーラトテップの深淵を宿した異質な光。

彼女の純白の衣は裂けるように変じ、触手めいた紋様が宙を漂い始める。


「では、……開くぞ?」


その声は楽しげでありながら、底の見えぬ不気味さを孕んでいた。


銀の鍵が宙へと浮かび上がる。

触れた瞬間、耳を劈くような甲高い音が鳴り響き、光でも闇でもない色が大気を染める。視界が軋み、世界が引き裂かれていくようだった。


次の瞬間、虚空に巨大な“鍵穴”のような裂け目が現れる。

そこから吹き出す風は、潮の匂いと腐敗臭が混じった悪夢の息吹。肌を撫でるたびに、骨の髄まで冷たく凍りついていく。


「うっ……!」


レベッカが胸を押さえ、思わず息を詰める。

それでも誰一人退かない。


鍵が回る音が轟いた。

がこん、と何かが外れる重い音と共に、裂け目の奥に黒々とした海原が見えた。


南太平洋の絶海――ポイント・ネモ近海。月すら拒絶する深淵の海が、まるでこちらを待ち構えていた。


「……開いたな」


フェンリルが低く呟いた。

その声と同時に、誰もが悟る。

もう後戻りはできない、と。


「お祖父ちゃん、こっちのことは任せて、代わりに、そっちはよろしくね!」


「うむ……気をつけて帰ってこい!」


力強い声を背に受けて、ルークもルシウスも頷いた。

それは言葉以上に確かな誓い。

レベッカも拳を握りしめ、ルキウスは視線で背を押した。


「行くぞ……!」


イングラムが一歩、強く踏み出した。

その瞬間、白光がぱきんと割れ、暗黒がじわりと滲み出す。


空気が変わる――胸を押し潰すほど重く、湿り気を帯びた臭気が肌にまとわりついた。

視界はぐにゃりと歪み、鼓膜の奥で水が鳴るような不快な音が響く。

まるで、世界そのものが異形の臓腑の中へと繋がっているかのようだった。


白から黒へ。

祈りの光は背後に遠ざかり、彼らの足は確かに“帰路なき世界”へと沈み込んでいった。



足を踏み入れた瞬間、視界が割れた。


空も地もなく、ただ「色」としか言いようのないものが蠢いていた。

青でも赤でも黒でもない。目が認識した瞬間、脳が拒絶し、痛みとなってこめかみを叩いた。


吐き気が走る。内臓が逆さに吊るされたかのように、冷たい感触が喉を逆流した。

耳には音がないのに、頭蓋の内側から“囁き”が洪水のように響き渡る。

言葉ではない。

意味を持たないのに、確かに「自分を名指している」と理解させられてしまう声。


足元を見れば、そこには地面の代わりに、無数の眼球が敷き詰められていた。

一つひとつが血走ったように動き、焦点を合わせるたび、心臓を素手で掴まれるような冷たい痛みが走る。


「──ぐっ!」


ソフィアが膝を突き、喉を押さえた。

呼吸はできているのに、肺が異物で満たされる感覚に喘ぐ。


「……クソッ……っ!」


ルシウスは額に血管を浮かべ、必死に眼を逸らした。


理解してはいけない。

見るだけで心が壊れる。

触れることなく、ただ存在を知覚するだけで、脳そのものが破壊されていく。


ここは──ルルイエ。

夢と現の境界。

生者の在るべき世界ではなかった。


仲間たちが次々と呻き声を上げる中──ただ一人、イングラムは前を見据えていた。


「……怯むな!」


声が響いた瞬間、不思議と肺に酸素が戻ってきた。

彼の背から放たれる紫電の輝きが、脳を蝕む「色」を薄める。


「俺たちは生きて帰る。……ここは、絶望の牢獄じゃない。戦場だ!」


その言葉に、立ちすくんでいた仲間たちの胸に熱が芽吹いた。

理解不能の悪夢に対抗するただ一つの拠り所。

それは──仲間を導く“騎士”の声だった。


「忘れるな──この先にはレオンさんがいる。彼が、俺たちを待っている!」


イングラムの声が、歪んだ空間に真っ直ぐ突き刺さった。

その名を聞いた瞬間、皆の胸に重くのしかかっていた“絶望の靄”が一瞬晴れる。


レオン・ハイウインド。

誰よりも長く、誰よりも孤独に、ルルイエで戦い続けてきた男。

瘴気に塗れ、幾度も傷つき、それでもただ一人で抗い続けてであろう戦士。


彼が、視線の先にいる。

暗黒の道行きの果てで──友として、仲間として、兄弟として待っている。


そう思うと、胸の奥が熱を帯びた。

震えていた手に力が戻り、呼吸が整い、目に光が宿る。


「そうだ……こんなところで膝をついてられない」


クレイラが顔を上げ、震える心を拭った。凍てつく光がその瞳に再び灯る。


「待ってて……レオン!必ず、必ず迎えに行くから!」


彼女の叫びは仲間たち全員の想いだった。

救うのだ。彼を。

共に戦うのだ。クトゥルフを討ち滅ぼすために。


その時初めて、彼らは気づいた。

絶望を切り裂く力は──自分たちの胸に、確かに灯っているのだと。




黒の回廊を進むたびに、空気は濃度を増し、肺に吸い込むだけで胸が焼ける。

壁は生き物のように脈打ち、滴る瘴気が足元に溜まっていく。


――ざり……ざり……。


どこからともなく聞こえる音に、全員の足が止まった。

それは岩を削る音にも、骨を噛み砕く音にも聞こえる。

だが確かに「こちらへ近づいてくる」と、理屈を超えて理解できてしまう。


「来る……!」


イングラムが剣を構えた瞬間、空間が裂けた。

漆黒の深淵からぬらりと突き出したのは、数えきれぬ腕。

それは人のものでも、獣のものでもない。鱗、羽毛、皮膚、骨が入り乱れ、形を持たない“群体”だった。


中央には眼があった。

ただ一つ、無数の眼を束ねたかのような巨大な眼球。

それがぎょろりと動いた瞬間、全員の脳裏に響く。


(侵入者……喰ラウ……喰ラウ……)


「っ……!」


ソフィアの背筋に寒気が走り、呼吸が乱れる。

クレイラの耳には、耳鳴りのような呪詛が鳴り響き、足が止まった。


「これが……ルルイエの門番か……!」


アデルバートの声は低く、だがその奥に怒りの火が灯っていた。


門番は瘴気を吐き出す。

それは風ではなく、意思を持つ泥流のように押し寄せ、視界も思考も飲み込もうとする。

皮膚が焼け、胃がひっくり返り、心臓が強制的に早鐘を打たされる。


「っ、まだだ……!ここで止まるわけにはいかない!」


イングラムの声が、仲間の絶望を繋ぎ止めるように響いた。


「私たちが――道を拓くから、今のうちに!」


ロニが叫び、地面を蹴った。

その瞬間、彼女の髪が月光を受けたように煌めき、周囲に鋭い空気が走る。


「心を落ち着かせて、大丈夫。みんなならすぐ慣れるよ」


姉のレネは静かに言った。だがその声音には不思議な力が宿り、狂気を孕んだ瘴気すら押し返すようだった。


「ロニ、レネ……!」


仲間たちの喉から驚きの声が漏れる。


二人の姉妹が、闇の中に毅然と降り立つ。

門番と対峙した瞬間、空気が変わった。

肌を裂くような瘴気が吹き荒れるにもかかわらず、彼女たちの影は微動だにしない。


それは当然だった。

――彼女たちの血脈には、「神殺し」の因子が脈々と流れているのだから。


足元を走る漆黒の泥流も、耳を抉る呪詛のざわめきも、二人には届かない。

むしろ、瘴気を浴びるたびにその眼差しは冴え、獲物を狙う獣のように鋭さを増していく。


ロニの指先に紅蓮の閃きが走る。

レネの手には蒼白の光が宿る。

姉妹の力が交わり、黒き門番を正面から焼き切ろうとしていた。


「ずっとお守りをするつもりはないから、しゃきっとして」


ロニの声が鋭く響くと同時に、紅蓮の炎と緑の旋風が両手に絡みついた。

燃え盛る熱が大気を揺らし、風が草原を裂くような唸りをあげる。


「もう……もう少し甘やかしてもいいんじゃない?」


レネがからかうように微笑む。

次の瞬間、紺碧の光が迸り、雷鳴のごとき紫電がその腕に絡みついた。

空気が焼ける匂いが鼻を突き、髪がぱちぱちと逆立つ。


二人は同時に踏み出す。

足元の石床が弾け飛び、双子の影が闇に走った。

炎と風が薙ぎ払い、雷と水が抉り裂く。


門番の巨体が咆哮を上げるが、その声はすでに届かない。

紅と緑が舞い、碧と紫が閃く。

二人の動きは鏡合わせのように完璧で――舞のごとき連撃が虚空を染めた。


刃が触れ、拳が閃くたびに、瘴気は霧散し、黒い巨影が削がれていく。

敵は反撃の隙すら与えられず、ただ蹂躙されるのみ。

それは怒涛の連撃――容赦のない嵐だった。


「弟子にばかりいいところを見せられては、師として名折れもいいところだ! フェンリル、手を貸せ!」


ベルフェルクの吠え声が、洞窟を震わせるほど轟いた。


「キサマに従う道理はない……だが、レオンへの最短と考えれば、幾分マシか」


フェンリルの低く冷たい声が重なる。


ロニとレネが静かに後退するのと同時に、戦場の気配は一変した。


ベルフェルクの全身から金色の奔流が噴き上がる。

エジプトの戦神の化身――セクメトの炎を纏い、その肉体は灼熱の黄金へと変貌した。

灼けつく熱風が床石を溶かし、獅子の幻影が背後で咆哮する。


一方、フェンリルの影は膨れ上がり、骨が軋み肉が裂ける音とともに、巨躯の黒狼へと姿を変えていく。

牙は月光のように白く輝き、爪は虚空をも裂く冷たい閃光を放った。


黄金と漆黒――

二つの力が並び立った瞬間、空気が爆ぜ、門番の怪物が本能的に後ずさる。


「行くぞッ!」


「フン、くたばるなよ、人間――!」


師と神獣の突撃が、瘴気を裂き、戦場を一瞬にして光と闇の奔流へと変えた。

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