第446話「決戦前夜 その1」
夜空には無数の星が静かに瞬き、銀色の月光が街並みを優しく包み込んでいた。ソラリスの塔や石の道は淡い光に染まり、涼やかな風が肌を撫でていく。
遠くから届く波の音が耳を掠め、風に揺れる葉のささやきが心を和ませる。深く息を吸えば、澄んだ空気が肺を満たした。昼間の戦いで漂っていた血と鋼の臭いは消え、代わりに湿った大地の香りと、月光を浴びた花の甘い匂いが漂っている。
仲間たちは黙って空を見上げていた。降り注ぐような星の輝きを眺めていると、体に染み込んでいた疲れと恐怖が少しずつ薄れていくようだった。
明日、全員が未知の戦いへと向かう。その事実が、今この穏やかな時間をより切なく感じさせた。
誰かの小さなため息が夜の空気に溶け、星明かりの中へ消えた。
「ねえ、レベッカ」
「え、ええ……何?」
月に照らされた彼女を見ることなく、ルークが静かに言った。
「……空が綺麗だ」
星が散りばめられた夜空に、白い月の光がソラリスを照らしている。その美しい光景は、明日の戦いを思うにはあまりに穏やかだった。
「……うん、本当に」
レベッカの声は震えていた。胸の奥が冷たく固まり、言葉が詰まる。
彼女には分かっている。明日、ルークはルルイエで戦う。深海の闇、邪神の住処。無事に戻れる保証はない。
風が頬を冷やすが、レベッカの手は固く握りしめられたままだった。
明日には、この空も暗闇に包まれるかもしれない。この星々を二度と見られないかもしれない。
ルークは小さく息をつき、静かに続けた。
「……明日、俺たちは戦いに行く」
声は落ち着いているが、わずかに震えている。月光に照らされた顔には、不安と決意が混在していた。
レベッカの喉が締め付けられる。風が髪を揺らすたび、冷たさが心に突き刺さる。でも彼の声は、胸の奥深くに響いていた。
「大丈夫だよ、レベッカ」
ルークが優しく肩に手を置く。その温もりが、冷えた体に暖かさを取り戻させた。
月光に縁取られた彼の笑顔を見て、張り詰めていた緊張がわずかに和らぐ。
「一人じゃない。イングラムくんも、みんなもいる」
風に乗った言葉は夜空へと消えていくが、その響きは確かにレベッカの心に残る。冷たかった頬に、血の温もりが戻ってきた。
「それにルルイエには、魔帝都最強のレオンくんがいる。ライルさんも、ロニさんもレネさんも。負けるわけがないよ!」
彼の笑い声が夜空に響く。それは虚勢ではなく、聞く者を自然に笑顔にする温かさを持っていた。レベッカの胸の冷たい恐怖が、少しずつ溶けていく。
「だから……必ず帰ってくる」
月光に照らされた横顔は、誓いを立てるように静かで力強い。
「必ず生きて帰る。そしたら――迎えに来てくれる?」
風が二人の間を通り抜ける。その言葉が心に落ちた瞬間、レベッカの胸が熱くなり、喉が詰まった。
「分かってる……必ず迎えに行く。思いっきり戦ってきて!」
震える声で、それでも強がりの笑みを浮かべて言った。ルークは一瞬驚き、そして力強く頷いた。
「……ああ!」
彼は迷わずレベッカを抱きしめた。月光が二人を銀色に染め、風が優しく頬を撫でる。ルークからは汗と鉄の匂いがしたが、その奥には爽やかな木の葉の香りと温もりがあった。
それは恐怖に凍えていたレベッカの心を、ゆっくりと溶かしていく。彼の腕の中は、戦場ではなく安らぎの場所だった。
◇◇◇
「アデル様、新しい中和剤ができました」
「……ああ、ありがとう。助かる」
静かなギリシャ領域。目の前には群青と翡翠が混じる穏やかな海が広がっている。波が寄せては返し、泡立つ音が砂浜に響く。
瓶を受け取りながら、アデルバートは深く頷いた。彼女の声を聞くだけで、心が少し軽くなる。
「……ルルイエへ行かれるのですね」
ラベンダー色の短い髪が潮風に揺れる。その髪から漂う花の香りが、海の塩気と混じってアデルバートの胸を締め付けた。
「……ああ」
短い返事だが、その声は海鳴りに混じり、彼女の心にも重く響いた。その一言に込められた覚悟の重さを、彼女は理解していた。
「セリア……いや、レティシア」
波音が静かに響く中、アデルバートが名を呼んだ。その声は震え、潮風に消えそうだった。
「……なぜその名で?」
セリアの瞳が揺れる。暗闇の中でも月光を映す薄紫の双眸。彼女はファティマ王朝の正統な継承者。自分はただの暗殺者。その隔たりが、胸に重くのしかかる。
「セリアと呼んでください。いつものように」
小さな声だが、揺るぎない強さがあった。アデルバートの喉に熱がこもり、言葉が出ない。
「記憶を失った私に、その名をくれたのはアデル様です」
月が波間に道を作るように輝く。その光を浴びたセリアの笑顔は、清らかで儚げだった。風に揺れる髪が、彼の指先をかすめる。
アデルバートは息を呑んだ。
「セリア……俺は──」
「……私は、あなたが好きです。アデルバート・マクレイン」
月光が二人を照らす。彼女は初めて「様」をつけず、真っ直ぐに彼の名を呼んだ。その響きは鮮烈で、胸を熱く抉る。
「あなたに救われてから、共に旅をして、世界を知りました」
風に揺れる髪が頬をかすめる。その感触が、アデルバートの心を揺さぶる。
「セリア……」
声が掠れる。彼女の紫の瞳が夜の海を映し、その奥で自分だけを見つめている。
「全てあなたがいたからこそ。喜びも、悲しみも、怒りも、楽しさも……そしてこの愛おしさも」
波のように押し寄せる言葉が、アデルバートの心の壁を静かに崩していく。潮の香りと共に、彼女の声が甘く染み込んでいく。
彼女の細い腕が、そっと彼の背に回された。月光に照らされた白い指が、震えながら衣を掴む。
「……大好きです。だから、必ず……」
続きは唇に奪われた。柔らかな感触に、時が止まったようだった。潮騒も風も遠のき、彼女の吐息と鼓動だけが全身を満たす。
一瞬にも永遠にも感じられる時間――彼女の温もりが脳裏に焼き付く。
唇が離れ、紅潮した顔が目前にあった。潤んだ赤い瞳が、確かな想いを告げている。
アデルバートは低く、揺るぎない声で答えた。
「……約束する。必ず、お前のもとに帰る」
それは誓いではなく、魂を刻む宣言だった。
セリアの瞳が大きく揺れ、そして小さく、確かに微笑んだ。月明かりに透ける頬の赤みは、照れも取り繕いもない、ただ一人の男への笑顔だった。
風が二人の間を抜ける。彼女の吐息が頬を撫で、甘い余韻を残した。
「……待っています、アデル様」
震える声だが、微笑みは揺るがない。その表情は、何よりも強く彼を生かす灯となった。
◇◇◇
「ここにいたか、ケリィ殿」
金属の響きが静かな回廊に滲む。聞き慣れた甲冑の音なのに、今夜は妙に重く胸にのしかかる。
「……シュラウドさんか」
ケリィは振り返らず、肩越しに答える。月明かりが横顔を照らし、薄い笑みを浮かべているが、その笑みは硬い。
ポケットから煙草を取り出し、口に咥える。小さな炎が弾け、紫煙が夜空へ昇り、潮風に消えた。
「明日は……お互い、忙しくなるな」
軽口のような言葉だが、湿り気を帯びていた。
「ええ……」
シュラウドが短く相槌を打つ。ケリィは煙草を一本差し出した。
「吸うか?」
シュラウドは受け取らず、月を仰いだ。鎧の隙間から漏れる息が白く揺れ、夜気に溶ける。
「これまでにない激戦となりましょう」
紅蓮の鎧が月光を反射し、冷たい光を散らす。迫り来る戦場の閃光を映し出すかのようだった。
ケリィは紫煙を吐きながら言葉を飲み込む。灰が風に散り、小さな火のように闇へ消えた。
「死なない程度にやるさ……頼りになる武人もいることだし」
「過分な言葉……しかし私は武しか振るえません。皆様のように多くの役は担えません」
月を背にしたシュラウドの声は低く響く。鎧から漏れる息は凍るように白い。
ケリィは煙を深く吐いた。風が紫煙を裂いても、匂いは胸に残る。
「だからいいんだ」
「……?」
「だからこそギルザに選ばれた。その武勇は誰もが持てるものじゃない。剣だけでここまで信頼される奴は、そういない」
シュラウドは目を細め、鎧越しの拳が鳴った。
「何話してるの、二人して」
軽い声が夜気を破る。ユーゼフが顔を出し、手をひらひら振りながら笑う。
「明日のことさ。こうして集まるのは最後かもって話してた」
ケリィが苦笑交じりに答えると、雲が月を覆い、暗がりが濃くなった。沈黙の中、三人の影だけが寄り添っていた。
「明日はいつも通りやって、俺は可愛い子たちに――」
ユーゼフは胸を張り、両手を広げる。
「きゃー!ユーゼフ様大好き~って言われたいね!」
夜気が一瞬止まる。
「きつい」
ケリィが苦虫を噛み潰したような声を出し、紫煙を吹きかける。
「……虚しくないのか」
「ない!」
胸を叩くユーゼフの顔は真剣そのもの。
シュラウドは鎧の下で肩を揺らし、笑みを洩らした。
「ふっ……緊張を和らげる良い冗談です」
「冗談じゃない!明日こそモテ期突入だ!」
ケリィは額を押さえ、深くため息をついた。だがそのため息には、わずかな安堵が混じっていた。




