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第445話「予兆」

白い空気が張りつめていた。

ソラリスの空は穏やかだが、どこか水底のような静寂が漂っている。

その中で誰もが己の役目に没頭していた。


剣を振るう者、治療の改善を目指す者、深い眠りで心身を癒やす者。

特訓の気配と休息の吐息、研究机に広がる紙の擦れる音が、静かな調和を織り上げていた。


だがその均衡を、ひとつの声が裂いた。


「……ほう。随分と、見違えたな」


低く、地を揺らすような響き。

耳に届いた瞬間、胸の奥がざわりと逆立ち、空気が緊張に震える。

聞き覚えのある声──忘れるはずがない。


イングラムは即座に顔を上げ、目を見開いた。

その瞳が捉えたのは、薄闇を割るように現れた獣の影。


銀に輝く鬣、夜を切り裂く双眸。

大地を蹴るたびに空気が震え、爪が床をひっかく音が胸骨に響いた。

鋭い獣の匂い──


血と鉄と、遠い雪原の冷たさを混ぜた匂いが鼻腔を焼く。


「……フェンリル!」


その名を呼んだ瞬間、場の空気は爆ぜた。

休息していた者も、研究に没頭していた者も、全員が振り返る。

咆哮はまだない。


ただその存在感だけで、全身が戦場に立たされた時のように総毛立っていた。


「……そうか。マナの原点回帰に至っただけでなく──白狼の力すら、その身に宿したか」


低く、氷を砕くような声。

フェンリルの双眸が鋭く細められ、まるで弟子の試練を見透かす師のように仲間たちを舐める。


その視線だけで空気が重みを増し、肺がひゅうと軋む音を立てるほどだった。


「お前が……フェンリルか」


その言葉を受けて、一歩前に出たのはギルザ。

新調された黒いマッスルスーツが静かに軋み、肩や胸にぴたりと張り付いている。


しかし纏う気配は衣では隠しきれない。

幾千の戦場を越え、なお燃え残る闘気が全身から滲み出ていた。


目線が交わる。

それはまるで、空間がきしむような音を立て、まるで二つの星が引力をぶつけ合っているかのようだった。


フェンリルの口端がわずかに吊り上がる。

ギルザは揺らがず、静かに息を吐く。


──弟子たちの前で交わされる、師と獣の初めての眼差し。

その一瞬だけで、ソラリスの空気は戦場そのものに変わった。


「お前がここに来たということは──」


ギルザの低い声が、風の揺らぎを切った。


「そうだ。ルルイエの位置を特定した。その知らせを、ここに持ってきた」


──ルルイエ。


その一言で、空間の温度が数度下がったかのように感じられた。

胸の奥に鉛を落とされたように、全員の肺から息が漏れる。

ざわり、と大気が逆巻き、誰も言葉を返せない。


鼓動がやけに耳に響く。

指先は冷え、喉は乾く。

名を知らぬ者ですら、理解できてしまった。

それが、ただの地名ではなく「禁忌そのもの」であることを。


「……一体、どこに!?」


最初に声をあげたのはクレイラだった。

続けて、ライルも血の気を帯びた声を重ねた。

最も長く共にいた彼女と、最も血縁を分かつ兄。

2人の問いかけは、もはや仲間全員の思いを代弁していた。


「聞け」


フェンリルの声が、冷たい海風のように響いた。


「……ルルイエは南太平洋に沈んでいる。ニュージーランドと南米大陸、そして南極のちょうど中間――“世界で最も人の寄りつかぬ海”だ」


全員の視線が凍りつく。

彼が示したのは、地図で“到達不能点”と呼ばれる絶海の孤域。

南緯47度9分、西経126度43分。

人類の営みから最も遠い場所――ポイント・ネモ。


「……そんな所に……」


クレイラが呟いた。

声は細く震え、唇は血の気を失っていた。


「深海のさらに奥底。太陽の光など一度も届いたことがない暗黒の奈落だ」


フェンリルの眼が鋭く光る。


「その地殻の底で、すでにルルイエは揺らぎ始めている。浮上の時は近い」


誰もが息を呑む。

海の匂いが鼻を突いた気がした。

塩と鉄の臭気が混じり合い、喉がひりつく。


――世界で最も孤独な海。

人の声は届かず、救いも及ばぬ場所。

その暗黒の底で、古き都は目覚めようとしていた。


〈以前であれば不可能でしたが……原点回帰した今であれば、そこへ到達することも不可能ではありません〉


蒼龍の声は深海の底から響くようで、空気を震わせた。

水そのものの化身である彼が言うのだ、疑いようはない。


「ルルイエが浮上するということは……すなわち、クトゥルフが目を覚ますことを意味する」


ギルザの言葉は重く沈み、胸の奥に鉛のようにのしかかった。


「世界は……いや、地球そのものが暗黒に包まれるだろう」


想像するだけで肺が冷たくなる。

太陽の光も届かない。

月の輝きも、星の瞬きすらも失われる。

空はただ黒く沈み、人類が最後に仰ぎ見る青い空は――二度と戻らない。


「──ふむ、では浮上する前に乗り込むこととなるな」


ギルザの声音は静かだが、揺るぎない刃のような冷たさを帯びていた。

その言葉に、場の空気がさらに張りつめる。


「しかし、蒼龍の加護を全員に行き渡らせることはできまい。そんなことをすれば――レオンの望まぬ結果となるのは明白だ」


重く、確信を持った断言だった。


アデルバート一人であれば、深淵に至ることは可能だろう。

だが“全員”となれば話は別だ。


力を均等に分け与えるということは、すなわちクレイラの命を削ることを意味する。

彼女の血と魂が燃料と化し、生命を代償にしなければならない。


「……そんなの、レオンが絶対に認めるわけねぇ」


誰かが呟き、唇を噛みしめる。

仲間たちも同じ思いを抱いていた。

――犠牲を前提にした道など、歩むべきではない。


しかし時間は刻一刻と迫っている。

静寂の中で、呼吸音だけがひどく大きく響いた。


「そこで……イングラム。お前の手に持つ銀の鍵だ」


ギルザの低い声が場を切り裂いた。

重苦しい空気の中、その一言だけがやけに鮮明に響き渡る。


「まさか……開けるのか? ルルイエへの入り口を……!」


イングラムの瞳が大きく揺れる。

その銀の鍵は異界と現世を繋ぐ禁忌の具現。

使うというだけで背筋に冷気が走る。


「可能だ」


フェンリルが断言する。

その声には狼王の威厳と確信が宿っていた。


「だが――その門を開けるには、呼ばねばならぬ存在がある」


彼の黄金の眼が鋭く動き、仲間たちの視線が一人の少女へと集まった。


「小娘……ナイアーラトテップを喚べ」


リルルは瞬きし、無邪気な笑みを浮かべた。

だがその笑みの奥で、影のように蠢く不気味な気配が広がり、場の誰もが言葉を失った。



「いいよー? でも……みんな、準備はできてるの?」


リルルがくるりと踵を返す。

幼い仕草のはずなのに、その背にまとわりつく影がぞわりと揺れた。

振り返った瞬間、そこにあったのは少女の瞳ではない。


深淵の暗闇を思わせる、異質な光が細く笑っていた。


ぞくり、と全員の背筋が凍る。

思わず息を呑み、喉が鳴る音すら聞かれてはならぬと胸に押し込めた。


しかし──


「当たり前だ」


イングラムが一歩前に出た。

銀の鍵を握る手は震えていない。

「俺は、この日のために……何もかもを費やしてきた」


その声は確固たる決意に満ち、暗闇を払う灯のようだった。


「そうだ、俺たちは──」


ルークが頷き、剣を鳴らす。

アデルバートの眼が冷たく光り、ルシウスの弓弦が静かに張り詰める。


そして最後に、ベルフェルクが吠えた。

黄金の獅子が背後に影のように揺らめき、仲間たちの胸を打つ。


「やっとだ……やっと恩を返せる! そのためなら──俺は何度でも戦い抜く!」


虚空を震わせる声が、全員の覚悟を束ねた。


「オッケー……じゃあ、喚ぶね?」


リルルが小さく囁いた瞬間、空気が震えた。

その幼い輪郭に、得体の知れぬ“何か”が重なる。

白磁の肌に走る影、口元に浮かんだ笑みは、もはや彼女のものではなかった。

――ナイアーラトテップ。


「イングラム……鍵を渡し給え」


声は鈴のように澄んでいるのに、耳の奥を爪で引っかくような異音を孕んでいた。


イングラムは無言で頷き、銀の鍵を差し出す。

その刹那、鍵はふわりと重力を失い、彼の掌から浮き上がった。

青白い光を帯びながらゆっくりと回転し、リルル――いや、“それ”の手に落ちる。


金属音すら立てぬまま指先に収まった鍵が、かすかに震えた。


「もしや……全員で、行くのかね?」


リルルの顔をした“何か”が、鍵を差し込むような仕草を見せながら、不意に問いかけた。

その声音は軽い調子だった。

だが誰一人、軽口として受け取ることはできない。


息を呑む音が、場を埋め尽くす。


「……何人かは残り、地上で迎撃してもらいたい」


ギルザの声は低く、だが一片の迷いもなかった。

その言葉は雷のように場を貫き、弟子たちの胸に重く突き刺さる。


だがすぐに、空気がざわめいた。

皆、同じことを考えたのだ。


――地上に残された者に、本当に邪神を迎撃できるのか。

今の人類に、クトゥルフの眷属を食い止められる保証はどこにもない。


「屈強な精神を持つ数人が……地上で、万が一の時に備えねばならん」


ギルザは目を細め、仲間一人一人を順に見やった。

その眼差しは厳しくもあり、父のように深くもあった。


「酷だろうが……俺が勝手に人選させてもらった」


その一言に、空気が凍りつく。

反論も、叫びも出ない。

ただ、ごくりと唾を飲む音が、場を不気味に響かせた。


「レベッカくん、シュラウドくん、ユーゼフくん、ルキウスくん、ケリィくんは迎撃部隊として残ってくれ。

セリアくん、シンディくんは負傷者の治療に当たって欲しい」


ギルザの言葉が落ちた瞬間、場の空気が固まった。


「……っ!」


レベッカの瞳が大きく見開かれる。

ルークと共にルルイエへ挑みたい――その気持ちを抑えて、唇を噛んだ。


「は、はは……俺か」


ケリィは乾いた笑いを漏らした。

だが、その目はもう冗談を言う色ではなく、覚悟の色を宿していた。


「……承知した」


シュラウドは短く答える。

自分の力がどこまで通用するか分からなくとも、任せられた以上は果たすしかない。


ルキウスは肩を竦め、わずかに苦い顔をした。


「ギルザさんの采配ならば、よろこんでお受けします」


「オッケー」


ユーゼフも、文句をつけずに答える。


セリアはすぐに頷いた。

自身の手で、可能な限りの命を救う。これは、名誉なことなのだ。


「……かしこまりました、ギルザ様」


「わかったぜ、じいさん。

思い切り治してやるよ!」


その声には震えも迷いもなかった。


重苦しい沈黙の中で、ギルザが全員を見渡し、ゆっくりと頷いた。


「残る者も、行く者も……どちらも命懸けだ。だが信じろ。どの役割も等しく“戦い”だ」


――その言葉に、ようやく場の呼吸が解けた。


「急に押しかけ、伝えたゆえに準備不足もあるだろう。

今のうちに済ませておけ――出立は、明日とする」


フェンリルの低く響く声が、静まり返った広間に落ちた。


言葉は決して荒々しくない。だがその一言に、床石が震えるような圧が宿っていた。

まるで“神狼”そのものの咆哮が、全員の胸を叩いたかのように。


誰も反論はしなかった。

いや――反論できなかった。


「……明日」


レベッカが小さく呟き、胸に手を当てる。

その震えは恐怖か、期待か、自分でも判別がつかない。


アデルバートは目を閉じて深く息を吐いた。

水の匂いを纏う空気が肺を冷やし、張り詰めた気を静めていく。


ルークは拳を握り直し、カチリと指の骨を鳴らした。

全身を巡る血潮が熱くなるのを感じながら、隣に立つ仲間の顔を見渡した。


一瞬の沈黙のあと――全員が無言で頷き合った。


「明日か……」


ギルザの低い声が、静かに広間を支配した。

それは覚悟を重ねた戦士たちをさらに鼓舞するように響き渡った。


こうして彼らは、明日という“決戦の扉”を前に、それぞれの胸に重い息を溜め込んだのだった。

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