無惨
延宝六年九月、ようやく秋らしくなってきた。
初旬、甲府宰相様から呼び出しがかかる。私にではない。明の使者を連れて来いとのお達しである。
既に一味と見られているのは複雑な思いであるが、そこはそれ、繋ぎ役に徹すれば心の平穏は保てるというものである。
いつものように、そう、この夏は繋ぎ役として主に館林藩へ大成を連れて行くことが多かったが、行商人に手紙をそっと渡し、日時を確認する。
大成、いや、明の使者が甲府藩に赴くのはまだ二度目だったが、宰相様もご家老も心得たもので、駕籠持ちの中間も黙って手配してくれている。
「本日呼んだのは他でもない。明への出兵の件じゃ」
内密の会見ということで、私も邸内に入れてもらえた。広い謁見の間である。
同席者はご家老と若年寄の堀田様のみ。
明側は鄭成功殿がいないため私を数に含めても三人。都合六人が四十畳もある空間で額を集めていた。
夏が過ぎたばかりだというのに寒々しい。館林藩の狭い部屋のほうがよほど心落ち着く。
そう不敬にも私が考えている中、話は進んでいった。
「酒井様が執拗に反対なさる。それが悉く的を得ているので、私も打つ手がないのだ。心情的にはそなたらに手を貸したいのであるが……」
堀田様が現状を報告する。
浪人姿の大成と唐服を身に纏い床几に腰を下ろしているお春・永寧公主は無言で聞いていた。
実は神田屋敷で柳沢殿に同じような話を聞いているのである。期待が外れたとはいっても顔には出さない。まったく大した若者たちだ。
「近々幕府の正式な決定が出る。残念じゃが援軍の件は諦めてくれ。だが、清国に加担しようというのではない。領国内から人は出さぬということじゃ。そこはわかってくれ」
「人は出せぬが、武具や兵糧は渡そう。明国、いや、台湾との正式な交易としてなら酒井様も文句はないそうじゃ」
宰相様と堀田様は申し訳なさを顕にしながら、この二十も三十も年下の若者たちに弁明する。
「……致し方ありませぬ。こちらが無理を申したまで。それより若輩の言をよく信じてご苦労を掛け申した。伏して礼を申し上げる」
大成はあっけなく引き下がった。
私は意外な感じが拭えない。これまでの大成の、いや、天地会のくどいまでに大掛かりな仕事振りを知っている故、これからどうするつもりなのかと心配になった。
「お顔をお上げくだされ。拙者武士として慙愧に耐えませぬ」
青々とした畳に額を付ける大成に対し、堀田様がいざり寄る。
宰相様もご家老も気まずそうな表情をしていた。
「……詫びといっては何じゃが、酒席を賜ろう。今宵は大いに飲むがよい」
「はっ、ご温情かたじけない。馳走になり申す」
顔を上げた大成は素直に答えると再び宰相様に頭を下げた。
その表情は晴れやかであり、宰相様もホッとしたようだ。
「主膳。手配を」
「はっ」
ご家老が速やかに部屋を出て行く。
まもなく五人分の膳が運ばれてくる。広い謁見の間の一部に宴席が作られた。
「では、日本と明国の繁栄を願って……」
酒が注がれると大成が杯を高々と掲げ音頭を取る。
館の主人である宰相様を差し置いてのことだが、事情が事情だけに誰も文句はなかった。宰相様のそばに控えているご家老も苦々しい表情を浮かべてはいるが、主の黙認があるからと、無視を決め込んでいる。
酒宴は長々と続いた。お春は黙々と料理に箸をつけている。大成は勧められるままに杯を傾けていた。宰相様と堀田様も安堵したように杯を交わしている。
私は呆然と見ていた。
《てっきり断ると思っていたが……》
これまでの大成を見ていて、神田屋敷でもどんなに柳沢殿が勧めても、館林宰相様の勧めでさえ、酒は会見の後一杯だけにとどめていたのだ。
私も仕方なく飲まされる。
蝋燭に火が燈された。気づくと日が暮れている。
そのころ、裏門内に停められていたお春の乗ってきた駕籠から人影が抜け出ていた。そのことは暗闇の中誰も気がついていない。
勿論、邸内にいる私も知らぬことであった。
「宰相様、拙者はこれにて」
二更にもなった頃だろうか、幕府の要人たる堀田様は律儀に帰宅を申し出る。旗本御家人は言うに及ばず、大名も外泊は厳禁の世の中なのである。
「そうか、もうそんな時間か……」
懸案となっていた事例が一応の決着がつき、宰相様も羽目を外していたのだろう。名残惜しそうであった。
だが、幕府要人の中でも生真面目といわれる堀田様に法度破りを強要するわけにもいかない。宰相様も充分お真面目な方である。
「そなたたちは幕府の者ではない。遠慮なくここに留まるがよい」
「はっ、お言葉に甘えまする」
私は断ろうとした。が、私が言いかけようとしたとき大成が素直に応じる。
またもや意外な感じがした。
《期待が外れて大成はおかしくなったのか……》
そんな感想まで持った。
大成がそのつもりなら私が反対する筋合いではない。最後まで付き合うしかなかった。
「堀田様をお見送りいたしましょう」
堀田様が腰を上げると、いきなり大成も立ち上がる。
あっけに取られたが私も訳もわからず従った。
おかしなことに、本来動く必要も無い宰相様までが腰を上げる。客である大成たちがいなくなることにつられたのだろう。ご家老も自然とそれに従う。
邸内、部屋の外に控えていた侍たちも客人の移動と共にぞろぞろと正門に向かう。謁見の間は一時無人となった。
正門で堀田様を見送った一同は再び謁見の間に戻る。
すぐに宴が再開されたが、程なくしてお春が眠気を催したようだ。
「宰相様、せっかくのご好意なれど我が公主年若き故これ以上は……」
「されば休むがよい。主膳、支度を」
相手が異国の姫君なので宰相様も気を使う。
「余も酔うた。今宵はこれまでとしよう」
既に三更も近い。大成がお春を抱き上げたのを潮に散宴となった。やっと私も解放される。
宰相様は奥に下がったようだが、私たちは中近くの空き部屋を与えられた。
既に敷かれていた布団にお春を寝かせる。
「酔い覚ましに水を所望」
案内の用人に大成が何か言付ける。宰相様の客と承知の用人は急ぎ水瓶を抱えてくるのであった。
「義兄上も飲め」
水瓶を受け取り、用人が下がると、大成は平素の口調に戻り、私にも水を勧める。
今日は確かに心穏やかならぬ酒を飲み過ぎた。
「その前に、これを」
「これは?」
用人は大碗も持ってきてくれたようで、私が瓶から水を移し、碗に口をつけようとすると、大成が懐からなにやら取り出した。
「酔い覚ましの薬だ。効くぞ」
「要らん」
「そう言うな。飲め」
「こ、こら……」
丸薬らしきものを大成は強引に私の口に押し込む。仕方なしに水で流し込んだ。味はないようだ。
大成も薬を飲んだ後、何故か寝ているお春の口の中にも薬を放り込む。
「春殿は酒を飲んではいないだろう?」
「……念のためだ……」
口移しでお春に水を飲ませてやった後、おかしな言い訳をする。
「そうか、よくわからぬが、私はもう寝るぞ」
そのとき、私は確かに違和感を感じたはずだ。だが、酒のせいか、状況の異常さのせいか、深くは追求せず、高そうな布団を避け、畳に寝転がる。
後のことは知らない。
夜更け、お春の駕籠に人影が再び入る。そのことにも誰も気がつかなかった。
翌朝、明け六つと共に私たちは起き出した。
朝食が用意されている部屋に案内されたので、黙って指示に従う。
「これを食したらお暇しよう」
当然だ。いつまでもこんな息が詰まるところにいられるはずがない。私は大成の意見に全面的に賛同した。
用人にその旨を告げ、宰相様或いはご家老の許可を取ってもらうことにする。
食事が済んでしばらく待たされた後、私たちは迎えに来た用人と共に謁見の間に足を運んだ。
謁見の間には既に宰相様とご家老がお待ちである。
「よく眠れたか?」
「はっ。おかげさまをもちまして」
宰相様は優しく声をかけてくれる。
大成も形式どおり受け答えした。
「これからどう致すつもりじゃ? 幕府から正式な通達が来るまでここに留まっても構わぬぞ」
「ありがたきお言葉なれど、善後策を講ずるべく、祖父の待つ明へ戻ろうと存ずる。宰相様には一方ならぬ世話になり申した。感謝致しまする」
大成は平伏して礼を言う。お春もちょこんと頭を下げた。私はといえば、釣られて畳に這い蹲るザマである。
「いや、余こそ国家存亡の折、力になれず相済まぬ……」
宰相様は大成に詫びたが、途中座ったまま身体の均衡を崩したようになる。
「さ、宰相様……」
「よい。昨晩は酒を過ごしたようじゃ。大事無い」
ご家老が慌てて近寄るが、宰相様は笑って下がらせる。
それを見た大成、暗い顔をした。一瞬だったが、私にはそう感じられたのだ。
「……では、これにて失礼仕る。宰相様、今後お目にかかることはないと存ずるが、どうぞお身体にはお気をつけなされよ。公主、杉森殿、お暇仕ろう」
「う、うむ。そちも健勝でな」
「はっ!」
我々は最後に宰相様に頭を下げ、宰相様のご退席を待った。昨夜の酒のせいか、宰相様の足取りがおぼつかないようで、ご家老が心配そうにしていたのが少し気にかかる。
その後用人の案内を頼りに裏門まで来ると、お春を駕籠に乗せ、再び中間の手を借りて門の外に出る。
私は大きくため息をついた。
《すべてが水泡に帰したか……》
明国のためとは言わないが、少なくとも数ヶ月行動を共にした大成とお春の身になるとどうにもやるせない。
「杉森殿、話がござる」
中間が聞いているからか、硬い武家言葉の上、小声であった。
「何でも聞こう」
私は即答した。
「かたじけない」
それだけ言うと、中間に駕籠の行き先の変更を告げる。私は首をかしげた。話というのが今できぬことはわかるが、どこに向かおうというのか。
駕籠は外堀を渡り、神田近くの寺に運ばれた。
早朝のことで人気はない。
甲府藩の中間たちは、大成が心づけを弾んだせいもあって、駕籠を下ろすと何も聞かずに立ち去った。
しばらく大成は無言であったが、私も催促がましいことは憚られる。
突然、駕籠の中から笛の音が、口笛だったかもしれないが、聞こえた。
《春殿か?》
私は当然そう考える。
その後すぐ、駕籠の回りに侍の一群が集まって来た。
何事かと、一瞬慌てそうになったが、見知った顔が混じっていたため安堵する。
「……柳沢殿……」
侍の一群の中には館林藩小姓組番衆の若侍がいたのだ。
「ご使者殿、ご苦労でござった。もう出てよいぞ」
柳沢殿が大成に声をかけるのは理解できたが、駕籠に向かって言った言葉とその口調に違和感を覚える。
が、お春に向かって言ったのではなかったと直後にわかった。
なんと、駕籠の後ろ板が外れ、中から一人の男が転がり出てきたのだ。黒装束だが、髷からするとこの者も侍のようである。一体いつから入っていたのか。
私の驚きなど気にも留めず、大成は柳沢殿と向かい合っていた。
「……約束の物は」
「……これに……」
私には何が起こっているのか見当もつかない。が、ここで落ち合うことは二人で決めていたらしい。
約束の物とは書状の類らしく、柳沢殿の懐から白い物が取り出されて大成の手に渡った。
「間違いないでござるな」
「宰相様の名誉に誓って。金打致そう」
大成が日本の武士の血を引くと知ってか知らでか、柳沢殿は腰の物に手をかけ、鯉口を切る。大成も、書状を懐に入れると、刀に手をかけた。
かちりと澄んだ音が二つ鳴り響く。
「改めて申すが、その書状、そなた以外の者に渡ると、拙者は腹を切ってでも無かったことにしなければならぬ。ゆめゆめ気をつけられよ」
「承知」
「では、ご免」
それだけ言うと、柳沢殿と黒装束の男は侍の一団と共に立ち去った。
意味不明。
私にはもともと関係ないはずのことだったので、それが当たり前のことなのだろうが、なんとなく腑に落ちない。
「お、おい、大成。これはどういうことだ?」
「義兄上、すぐに江戸を離れるんだ」
「なに?」
まさに寝耳に水であった。
「私が何故……」
先ほどのことと良い、何か大きな事件が起きていそうなのはわかるが、浜屋敷でも言っていたとおり、明に帰るのは大成たちだけであろう。私に何の関わりが。
そう大成に反駁してみる。
だが、大成は切羽詰った様子でなおも私を江戸から出そうとする。
「一体何なのだ。話があるなら聞くといっているだろう」
「義兄上の命に関わる。まずは逃げよう」
「い、命?」
江戸を出る、というのが逃げるという表現に変った。
まさか、そんな。と思ったとき、駕籠の周りに再び武士の一団が集まってくる。
神田御殿の藩士ではなさそうだ。浪人のような身なりに、覆面姿である。その数五、六名。
既に鞘が払われていた。
「春! 出るなよ!」
「わかっておる!」
駕籠の中に一声かけると大成も腰の胴太貫を抜く。お春が危ないと見たのか、駕籠に先に近づいた者を問答無用で切り捨てた。
「ひいっ!」
私は駕籠のそばで腰を抜かした。
人気が無いとはいえ、白昼この騒ぎは何なのだ。命に関わるとはこのことかと、生きた心地がしなかった。頭の上でちゃりんちゃりんと剣の交差する音が聞こえる。
多勢に無勢。お春は論外だし、私が剣の達人であるはずも無い。いくら大成の腕が立つからといって勝ち目は無い。
そう半ば諦めたとき、境内に人が集まってきた。参拝客や香具師の連中だろう。江戸っ子らしく、この無法者たちを盛んに罵倒している。無論遠くからだが。
「トェィ(退け)!」
覆面の浪人の一人が何か叫んだ。
私は剣術の掛け声かと思い身を縮めたが、浪人の一団はその声を聞くと逃げ出してしまう。大成に斬られた者たちを担ぎながら。
「大丈夫ですかい? 杉森様」
「え?」
参拝者だと思ったのは、天地会、つまり明の秘密組織の人間だったらしい。私に声をかけてきたのは、あの行商人であった。
「義兄上。巻き込んですまん。だが、命には代えられん。逃げよう」
大成も無事らしく、刀を納めると腰を抜かしていた私の腕を取って立ち上がらせながら再び江戸脱出を促す。
もはや否やは無い。
「わ、わかった……」
天地会の者たちによってお春の駕籠が運ばれていき、私もその寺を後にする。
道々大成から指示を受ける。
昼だと目立つし、何より回りから不審がられるので、翌朝早立ちをしようということになった。
江戸に出てきて二年足らず、こんな形でこの生活が終わりになるとは思っても見なかった。
だが、確かに命には代えられないし、それに、私の目指したモノもおぼろげながら見えてきていたので、運命に従うに如くはないと悟る。
日本橋あたりで大成たちと別れ、私は浅草に急いだ。つけてくる者がいないか心配しながら。
まずは乞胸頭・仁太夫殿のところへ挨拶に行くことに。
「なに? 旅に出る? また急だな」
「はい。仁太夫殿や善七殿にはお世話になりました。これをお返しします」
乞胸の鑑札。本当に世話になった。これが無ければ野垂れ死にしていたかもしれない。そう思うと胸が詰まる。
だが、何かあったとき、この世話好きの頭たちまで巻き込むことにもなりかねないと返却を決意した。
「まあ、また江戸に戻って講釈をするんなら、そのときまで預かろう」
「ありがとうございます」
「で? どこを旅するんでい?」
「え? えーと……北を……義経を偲ぼうかと……」
私はつい反対の方向を口にする。
後年、元禄のころ松雄芭蕉という俳諧師が私のウソの旅路と同じ場所を辿っていて評判になった。このとき私が先に回っていたらどうなっていただろうか。
「……そうかい。北な。風流だねえ。流石は売れっ子講釈師だ」
「いえ、そんな……」
でまかせを信じたのか、仁太夫殿はそう褒めた後何も聞かなかった。
その後すぐに辞する。
玄関口まで見送ってくれた乞胸頭が袱紗包みを渡してきた。ずっしりと重い。
「これは……な、何のマネですか!」
封の切っていない切り餅、二十五両であった。
「吉さんのだ。俺は預かっていただけ」
「そんな……」
以前甲府宰相様にいただいたものだとすぐにわかる。だが、仲間に分配してもらったはずではなかったか。
「今必要だろ? 黙って持っていきな」
私は直感した。乞胸頭は何かを知っている。いや、たとえはっきり知らずとも私が災いに巻き込まれ、江戸を去ろうとしていることがわかってこのような心遣いをしてくれているのだと思い至る。
「に、仁太夫殿……」
私は言葉が出てこなかった。言われたとおり懐に入れる。人情紙の如しといわれるこの世の中で、涙が出そうであった。
私は無言で頭を下げると小屋を出る。頭も黙って見送ってくれた。
非人頭の車善七殿にも会いたかったが、これ以上迷惑はかけられないと、会わずに長屋に戻る。
大家に旅に出ることを伝え、預けてあった金子を受け取ると共に、三ヶ月分の店賃を新たに預けた。
「もしそれまで戻らなかったときは家の中の物は処分してください」
まだここに住んでいることにしておけば、仮に追っ手がかかったとしても少しは目晦ましになるだろうとの大成からの受け売りであった。
大家が納得したところで、急ぎ旅の支度をする。
といっても、大した荷物は無い。命一つあればそれでよかった。だが、あくまでも自然に見せなければならない。長屋の住人たちにも北を回ると告げる。うらやましがられても引きつった笑顔で返すことしかできなかった。
眠れぬ夜を過ごす。
斬り合いなぞ間近で見たのは初めてであった。浪人たちがここまで襲ってこないだろうかという恐怖にも駆られた。
狙いは明国の使者である大成だろうということはわかる。私は既に多くの秘密を知った身、敵からすれば一味と思われても仕方がない。
まんじりともせず夜が明け始めた。
明け七つ。日はまだ昇ってないが、早立ちには最適の時間である。私は約束の場所、日本橋まで足を急がせた。
日本橋。東海道の基点である。西に向かうのはわかっていた。大成たちは明に戻るのだろうし、私は故郷の京に戻るしかない。
「義兄上。急ごう」
先に来ていた大成とお春は、二人とも編笠の浪人姿、大きいのと小さいのだったが、挨拶もそこそこに催促してくる。
当然異論は無い。
だが、歩き出す前に私は詳しい説明を求めた。
「まずはこいつを差せ。話は道々。間違いなくすべて話す」
大成が差し出したのは武士の魂、二尺三寸の打ち刀であった。私が浪人姿であるのに腰が寂しいということであろう。
男装のお春も手にしていた編笠を渡してくる。
気が引けたが、乞胸であったのは昨日までだったし、武士の身分に戻るのに異議を唱えたのではご先祖に申し訳ないというものだ。
それに追っ手の目も気にかかる。
私は素直に刀を受け取り、大成たちと同じ格好になった。
「さあ、急ごう。途中、長崎屋の船が来てくれる」
私たち三人は朝焼けを背に、まだ暗い西の方角に向かった。
「で? どういうことだ? あの浪人者たちは? 柳沢殿と何か取引でもしたのか?」
歩き始めてすぐ、私は辛抱たまらず改めて問いただした。
「……あの浪人者たちは侍ではない。日本人でもない。清国の者だ」
「なに。では、とうとう見つかったのか? 春殿が姫であることがバレたのか?」
「いや、それはわからん。だが、狙いはおそらくこの書状」
大成が懐からちらりと見せる。それは昨日柳沢殿から受け取った物であろう。
「それは何の書状だ?」
「館林宰相が将軍になった折には明に援軍を出すという念書だ」
「何だと! 何をバカな。確かに当代様はお世継ぎがおられぬが、甲府宰相様がご養子になられるともっぱらの噂だ。館林宰相様が上様になるなど、あろうはずが無い。そ、その書状、不敬に過ぎるぞ。世に出たら館林様といえど謀反の咎でどうなることか。我々もただでは済むまい……」
そんなことは大成もわかっているはずだ。だからこそ今こうして江戸を離れようとしているのだ。
だが、わかっているなら何故そんな危険な念書など受け取るのか。いまいち納得がいかない。
その答えは、すぐ後大成の口から吐き出された。
「……甲府宰相はまもなく死ぬ……」
「なっ……」
世にも恐ろしい予言である。
明国の人間は占いもできるのかと、一瞬思った。
だが、占いであれば私も生涯悩みを抱える必要は無かったのだ。
「先の宴、あの酒には毒が入っていた」
「げっ!」
私は足を止め、のどに手を当てる。毒入りの酒など、一体何杯飲まされたか覚えていない。
「信盛。そう慌てるな。毒消しは飲んだであろう?」
「ど、毒消し……」
私が立ち止まったものだから、大成と私の間にいたお春も足を止める。
お春は私を励ますつもりか、小さな手で背中を叩いてくる。
「あ、あれか……」
思い出した。宴の後、大成に丸薬を無理矢理呑まされたことを。お春にも飲ませていたはずだ。念のためとはそういうことかと納得する。
お春に袴を引っ張られ、私は再び歩き出した。
歩を緩めていた大成に追いつく。
「あの毒は昔ジジ様が飲まされたものだ。だんだんと身体が弱まり、ついには命を縮める。幸い師父が毒に詳しくてな。解毒剤もある」
「で、では、お主が宰相様に……」
私は、私を義兄と慕うこの若者が恐ろしくなった。
「俺ではない! 柳沢の飼っている忍びの者だ!」
私の当然の疑念に、大成は珍しく激高しながら否定する。お春も少し驚いていたようだった。
「……ああ、駕籠の中の……」
確かに。いわれてみれば大成が毒を盛る機会などあるはずが無かった。おそらく甲府藩家老や若年寄堀田様もそう証言することだろう。
疑って悪かったと反省していると、大成が急に声の調子を下げる。
「……いや、柳沢に毒を渡し、刺客を手引きしたのは俺だ。宰相を殺めたのは間違いなく俺ということになる……」
「た、大成……」
そのまま我々は無言で東海道を歩いた。夜明けと共に、遠くから明け六つの鐘が聞こえてくる。
甲府宰相様がお亡くなりになったのは、それから数日後。
九月十四日のことと旅先で耳にする
……合掌……
◇◇◇◇
「せっ、先生! くっ、公方はンのおっ、弟をこっ、殺したって……」
「どえらいことでっせ……」
現在、大阪道頓堀の茶屋では私の知己である竹本座・座長の竹田出雲と義太夫・竹本政太夫が顔を蒼くしている。
鄭大成、つまり結城源之将との出会いを、私がこれまで秘密にしてきた理由は、大成が明の人間だったというからだけではない。
そのままでいけば自然征夷大将軍になれたはずのお方の命を奪い、なれぬはずのお方を公方様にしてしまったことなのだ。
そう考えると、五代様の治世、天変地異が相次いだのは単なる偶然では無いとさえ思えるのだ。
天の怒りかもしれない。私のせいかもと。
「……どうしはります? お上に訴え出ますか?」
「と、とんでもありまへん! こちらの首まで危のうおます!」
「そやろなあ……」
四十年近くも前の話である。
首謀者ともいえる綱吉公は六年も前に、柳沢殿も昨年亡くなった。だからこそ『国性爺合戦』の発表を敢行できたのである。
証拠といえば、今まで私が無事生きていたことも考えて、まったくあるはずも無い。甲府宰相様の死因も酒害ということで落ち着いていたのだ。
そこに将軍候補の暗殺などと言い触らしたりなどしたら、証拠云々以前に虚言流布と不敬の咎で闇に葬られるだろう。
それぐらいは誰でもわかる。いくら芸一筋の政太夫でも。
「し、しかし、先生、よく無事でしたな……」
「私もこの年まで生きて、しみじみそう思ってます」
私はここでホッとため息をついた。二人も息が詰まりそうだったのか、何故かそれに倣う。
少し空気が和らいだ。
「で、で? それからどうしはったんで?」
少々過激だが、昔語りには違いない。政太夫は続きが気になるようだ。それに、これ以上驚くこともあるまいとでも考えているのかもしれない。
だが、これで秘密は終わりなどではない。戯作者としても、このまま後は山場は無しでは立つ瀬が無い。
何れ二人もわかるだろう。




