枷
2話あります。
あくまでも非公式ではあったが、大成たちが希望通り幕府の高官との謁見を果たし、その上水戸屋敷まで訪れたその日、私は命がまだあったことに心から感謝した。
ぼろぼろの長屋に帰ってきたのは夜も更けてのことだが、着くなり私は倒れこむようにして古畳の上に寝そべる。
街の匂いだ。そんなことを、たった半日留守にしていただけで考えてしまうほどの衝撃を受けていたのだろう。
それが証拠に、次の日は長屋の外に出なかった。何もする気が起きなかったのである。緊張の糸がぷっつりと切れたかのように。
数日後、やっと日常を取り戻し、辻講釈に出かけた際、行商人を通じて大成からの呼び出しがあった。
一部とはいえご公儀に正体をバラしてしまったのだから、今まで以上に慎重になっているのはわかる気がするが、それ以前に、私の役目はもう終わりではないのかという思いもあった。
幕府のお偉方が協議をして、結果を大成たちに伝えるときに私をその繋ぎ役にするつもりだということも知ってはいるのだが、お偉方の話し合いなぞいつになったら結論が出るのかわかったものではない。
それに、すべての秘密を知った私の存在が邪魔になって、私を始末しようとしているかもしれない、などと陰謀とはまるで関わりない世界に住んでいた私は、世の中の庶民が面白おかしく噂するように妄想していた。
逃げようなどとは思わなかった。
それが証拠に、酷い妄想の割には私の足取りは軽かったし、おそらく、表情もニヤけていたかもしれない。
指定の場所に到着した。以前来たことのある、浅草の北、大川端の船宿である。吉原も近いのでご公儀の目を避けるには打って付けなのだろう。
船宿の人間は、大成がちらりと言っていたが、抜け荷に関わる闇の者なのだろう、相変わらずぼろぼろの格好だった私を、大成の連れということで大いに歓迎してくれる。世を忍ぶ変装だとでも思っているようであった。
「よう、義兄上。来たな。まあ、座ってくれ」
「……祖父殿はいらっしゃらないようだな」
二階の部屋の通された私は、入る前に中を見渡しながら、念のため実名は使わずに確認をする。
声をかけてきた大成の他には、いつものようにお春が、いや、お姫サマがそばにくっついているだけで、期待した三人目はいなかった。
「ジジ様は天地会の頭だからな。飛び回ってるよ」
「そうか……」
納得して中に入ると、私はドカリと座る。正座ではなく胡坐で。
相手が旗本ならいざ知らず、いや、身分的にはそれ以上なのかもしれないが、逆に気を使う気が起きないのだ。
「今日は何の用だ? 宰相様からはまだお呼びがかかっていないぞ」
「うん、何ということもないが、義兄上の様子が気になってな」
「私の?」
「お前、ここ三日ほど講釈に出ていないではないか」
口を挟んだのは、大人びた口調が相変わらずのお春であった。
私は事実であったので返答に詰まる。
「しかし、こうしてここに来たということは、俺たちを見限ったわけじゃなさそうだから安心したよ」
「気の小さいヤツだからな」
「……今更逃げ出すほうが勇気の要る話だ……」
「確かに。明の復興もすっぱりと諦められれば楽になれるんだがな……」
「お、おい。そんなつもりでは……」
話が思わぬところへと飛ぶ。
「わらわも実のところ明の国などどうでもよいのだがな」
「春殿まで……いや、これは失礼。永寧公主どの、であったかな」
「その名で呼ぶな。わらわも春という名が気に入っておる」
妙な空気になるところだったが、お春の言葉に救われた気がした。
だが、大成は何故か私の何気ない一言にまだこだわっているようである。
「春のことは別として、ジジ様や師父が命を懸けて明の再興と言っているわけがわかった気がする。さすがは義兄上だ。見事に的を射ておる」
「いや、だから、そんなつもりじゃ……」
「まあ、国姓爺だの、天地会の盟主などと周りから言われていては逃げるに逃げられないからな。斯く言う俺も……」
大成は右腕をスッと袂の中に入れたかと思うと、肩脱ぎにした。右腕、肩の付け根を私の方に向ける。
「これは……晴明? 陰陽師の名が何故? いや、字が違うか。節季の清明か」
大成の二の腕には刺青と思しき二文字がある。
草書体であったし、京の都に住んでいた私が平安のころからの有名人の名を連想したのも仕方がないが、大成は笑っていた。
「日本では気楽に見せられて良い」
「で、これは何なのだ?」
「清国と明国だ」
「ああ、なるほど。いや、明はわかるが、何故『清』の文字も?」
生まれた国の名というなら、大成なら『日明』が妥当と思い、素直に聞いてみた。
「うむ。これは義兄上にもどこだとは言えないが、俺の身体にはもう一箇所刺青がある」
「何のだ?」
「反復」
「ハンプク?」
「反は『そむく』、復は『復興』だ」
「それが?」
「わかぬか、義兄上」
「…………」
「信盛。並べ替えてみよ」
「……あっ!」
お春に言われて私は一瞬考え、ある文章を思いついた。
単純なことであった。
「反清復明……」
清国に反し、明国を復する。明快な格言、いや、信仰の言葉である。
「ガキのころから聞かされて育った。この字を見るたびに使命とやらを思い出す。俺も逃げられん」
大成は感慨深そうに腕の文字をさする。
「国姓爺どのも無体なことを……」
「天地会の掟だそうだ」
「だが、理不尽ではないか。おぬしはまだ若い。春殿に至っては子供ではないか」
私は武士の家に生まれたが、次男坊であり、お家を継がなければならないという使命感は正直理解できない。
実際こうして家を飛び出して武士にあるまじき生活を望んでしている。
お家の存続にこだわって、その度が過ぎれば、豊臣家のように世の中を巻き込んだ大戦さになり、死人と浪人の数を増やす結果にしかならないことはわかりきっている。
それほど昔の話ではない。鄭成功ともあろう者が知らぬとは思えないと言ってやると、大成はバツが悪そうに答える。
「居場所がな……」
「居場所?」
「俺は日本の血が混じっているし、父はそもそも異国の者だ。母も日陰の身。一生隠れて暮らすしか道はない。春は春で、清の連中に見つかったら間違いなく殺される」
「……だから反乱軍に身を投じるしかない、ということなのか……」
何と悲惨な。
私は言葉にすることができなかった。
それから更に数日後、私は宰相様に呼び出された。
「杉森。逃げずによく参った」
「はっ。約定なれば」
「うむ。褒めて取らす」
「ははーっ! 勿体無きお言葉!」
鄭成功や大成たち、つまり明の使者が今回は来ていないため、対面は以前と同じように座敷の中から庭に向かって行われている。
このほうが私にとっては精神衛生上好ましい。
「本日そのほうを呼び出したは他でもない。講釈の続きを聞かんがためじゃ」
「わたくしで務まりまするなら」
大成を同行させろとの命は受けていなかったので、釈然とせぬままこの浜屋敷を訪れたのだが、宰相様のお言葉で納得できた。
幕府内での話し合いとやらが、予想通り難航しているのだろう。
それで甲府宰相様と同じように、私の講釈を幕閣の方々に聞いてもらい、話し合いの参考にでもさせようという意図があるに違いない。
そういえば、ちらりと座敷に鎮座するお顔を拝見したところ、以前の学者先生たちとはまったく雰囲気が違う。言葉にすれば打ち首間違いなしだが、いかめしい表情の上、古だぬきのような狡猾さを感じさせる。
わざわざ元浪人の講釈師に紹介するほどのことはないと捨て置かれてはいたが、私の直感ではご老中方ではないかと思う。ご家老の態度からもそれが窺えた。
であるならば、少なくとも甲府宰相様は大成たちの話に乗り気であるということではなかろうか。
私は他人事ながらコトの順調さに喜ぶ。
「では、明の縁起から始めよ」
「はっ!」
宰相様への返事の声にも力が入るというものだ。
「……では、お耳汚しとは存知まするが、失礼いたしまして……」
私はそれまで平伏していた身体を起こし、大成がいつもそうであるように、堂々と座り直す。
胸を張って総仕上げともいえる講釈を打つことにした。
大成たちが戦さに命懸けであるならば、私は講釈に命を懸けようではないか。そう本気で思っていた。
武家の常識の範疇である明の歴史は、蒙古とは違って日本に戦さを仕掛けてきたことはなく、また太閤サマのほうから戦さを仕掛けたことに対しての武力報復はなかったという点を強調しながら手早く進める。
そして明の滅亡のくだり。
運の悪い時期に皇帝になってしまった崇禎帝の悲哀と、武将の裏切りによる清国の介入と占領。そして人民の苦しみ。
その後の皇族たちの反清活動。ここでやっと鄭成功が登場する。
それから三十九歳の若さで頓死するまで抵抗を続けた。
ここまでは誰でも知っている。
「……驚くなかれ。実は国姓爺・鄭成功、刺客の刃に倒れたものの、九死に一生を得て不死鳥のごとく甦ったのでございます」
おお、という驚嘆の声が上がった。既にご本尊と対面している甲府宰相様だけは微笑んでいるだけである。
話は少し戻るが、明の亡命政権最後の皇帝、永暦帝について語った。
これはつい先日大成から聞いたことである。
「唐土の南の方、広東に勢力を広げていた永暦帝もついに最期を迎えます。明の元武将・平西王呉三桂が清国に取り入るために大軍をもって攻め入りました。寡衆敵せず、逃げ出した皇帝は更に南方の国に庇護を求めたものの、清国を恐れた国王により呉三桂へと引き渡されます。皇太子も一緒であったので、これで明の血統もお仕舞いかと漢人たちは嘆いたということです……」
宰相様をはじめ、ご老中たちは聞き入っている。
年齢からすれば、間違いなく父親の世代が豊臣家の滅亡に関与し、そのおかげで老中という地位を手に入れたに違いない。
私は、この人たちはどちらの立場に立って話を聞いているのだろうかと、語りながらに考えていた。
大阪の陣を彷彿とさせる内容だけに、明側に肩入れすることは豊臣側に加担するのと同じと受け取られないだろうかとも心配する。
だが、後には引けない。
私は私にできることをするだけである。
「……ですが、明の民には希望がたった一つ残っております。永暦帝には一緒に捕らえられた皇太子の他にもご子息がございました。悼愍太子、その死を悼み哀れむと追封されたこの第二皇子は、当時十五歳でしたが、清国軍に襲われた際その乳母によって間一髪救い出されたのであります。それから数年、民間にて隠れ潜んでいた第二皇子は乳母の一族の娘、銭氏との間に子を生しました。明国皇帝の血は絶えていないのです……」
座敷の高官たちは息を呑んで私の話を聞いていた。
たとえて言うなら、大阪の陣後、真田幸村が秀頼を守って脱出し、天寿を全うしたという言い伝えに似ている。その秀頼に子がいるとしたら、豊臣恩顧の浪人たちはどうしたであろうか。
願わくは、ご老中たちが明と豊臣を一緒にしないことを祈る。
ここからは大成に聞いた、鄭成功の死後とされている、知られざる足跡である。
大成が三つのころというから、今から十五年ほど前になるが、毒で冒された身体もようやく癒えた鄭成功は、鄭鉄人と名乗り天地会、秘密組織の活動に専念する。
天地会の名目上の統領、陳近南こと陳永華と連携しながら、大陸南部に住む明の遺民たちのもとを根気よく回り続けた。
漢人たちは、心からというわけではないだろうが、表面上は清国に服従している。庶民にとって、朝廷が替わろうが何しようが、それほど関わりがない。むしろ、万暦帝以降、明の朝廷から塗炭の苦しみを味わされてきた分、新しい朝廷に期待している人々もいるくらいなのだ。
鄭成功たちの活動は困難を極めた。
だが、諦められない。
数年後、澳門の地を訪れた鄭成功は天地会の構成員にしかわからない目印を見かけた。
「これは……助けを必要としている者がいるのか」
白地を半分赤に染めた手拭いが街道沿いにある茶屋の軒に結び付けられていた。
鄭成功は茶屋の主人に、辮髪で清国に服従している様子ではあるが、仮の姿だと判断し、話を聞くことにする。
「親父さん、茶をくれ。今日摘んだのはいらない。明日摘んだ茶葉だ」
「へい。今日のは苦くて出せません。お客さん、お目が高い。明日の茶葉は何れの茶葉をご所望で?」
「台湾だ」
「ほう。名産地ですな」
鄭成功が天地会の暗号を以って話し掛けると、茶屋の主人も暗号で答えてきた。
今日は『清』と同音、明日は『明』のことである。
茶屋の主人は鄭成功が、今は反清勢力の中心地である台湾から来たことを悟ると、ここに来た目的もわかったようで、すぐに軒の手拭いも回収した。
「客の忘れ物ですが、取りに来ないんで困っております」
「ならば私が届けてやろう」
「ありがとうございます」
こうして鄭成功は問題の人物の所在を聞きだすことができた。
やっと辿り着いたのは裏路地にあった一軒の小さな家。
「ご免、私は旅の者だが、茶屋の主人から届け物を預かった」
「まあまあ、ご苦労様です」
応対に出たのは中年を過ぎた婦人である。なにやら病んでいるらしい。
鄭成功はここでも暗号を使い、身分の確認をした。
中に招き入れられ、驚くべきことを婦人の口から聞かされる。
「……天地会の方がやっと来てくれました。これで私も黄泉に旅立てます」
「ご婦人、助けを求めてその言い草は……」
「いえ。助けが必要なのは私ではありません」
「では、誰が?」
「……私は銭氏。勿体無くも永暦帝さまの第二皇子が乳母にございます」
「えっ!」
絶句する鄭成功をそのままに、命の尽きかけた婦人は語り続けた。
「肇慶の都が清の軍勢に襲われたとき、必死で第二皇子を堂兄(同姓の従兄弟)の住んでいたここまでお連れ致しました。皇子はもう戦さは嫌だと申すものですから辮髪にし、名を変えこれまで隠れ住んでいたのです」
「何と……では未だご存命なのか!」
「いえ、残念ながら今年流行病でお亡くなりに……」
「何ということだ。私がこうして生きながらえたと言うのに! 何故もっと早く知らせなかった!」
歯噛みする鄭成功を不思議な思いで見ながら銭氏は一部訂正する。
「もともと皇子は名乗り出るつもりはありませんでした。私がお呼びしたのは皇子が亡くなってからでございます」
「なに? で、では助けが必要なのは?」
「私の堂兄の娘が皇子に嫁ぎまして、子を生みました。皇子の、いえ、永暦帝さまのお血筋でございます」
「何と! まだ大明国の血が! そ、それでそのお方はどっ、どちらに!」
慌てる鄭成功を婦人は疑り深い目で見る。いや、心配そうな表情だった。
「……姪も子を生むと皇子の後を追うように亡くなりました。皇子の意思もあり、その子まで争いに巻き込ませたくはありませんが、私ももう長くはございません。ですから普通の子供として育ててくれる方を探しております。あなた様がその子を戦さに利用しようと言うのなら、どうぞお引取りください……」
どうやら鄭成功の言動で子供の将来が不安になったようである。
その鄭成功、これは小事ならぬと判断し、正体を明かすことを決意する。
「乳母殿、私も秘密を打ち明けよう。それは黄泉とやらまで持っていってもらいたい」
「何でございましょう?」
「私は鄭成功。訳あって死んだと見せかけている」
「おお! 国姓爺殿! 生きておいでだったか!」
婦人は、明の関係者なら誰でも知っている名前を聞いて驚いていた。弱った身体で椅子から立ち上がり、床に跪く。
「左様。私も『朱』の姓を賜った身。いわば身内だ。乳母殿、その子を私が預かることを認めてくれぬか?」
鄭成功も椅子から立ち上がると、婦人をやさしく抱え上げ、椅子を勧めながら最終確認をする。
「皇子のご意思に背くことになりましょうが、国姓爺の仰せとあらば仕方ありませぬ。どうか春麗を、公主をお頼み申します……」
「おい! しっかりしろ! おい! 乳母殿!」
椅子に座ったまま項垂れてしまう婦人。
鄭成功は肩を揺するが、それっきり何の反応もなかった。
どうやら今まで使命感だけで命を長らえてきたのが、国姓爺と出合ったことで安心したのだろう、穏やかな最期を迎えたのだ。
その直後、奥の部屋から火が付いたような、赤子の激しい泣き声が聞こえてきた。
まるで乳母の最期がわかったような泣き声である。
鄭成功は戸を押し開き、中に踏み込んだ。
「おお、公主……」
粗末な床(寝台)に寝かせられた赤子。盛んに身を振るってあらん限りの力で泣き叫んでいる。
鄭成功はそっと抱き上げる。
「公主。これからはジイが一緒だ。泣くな」
鄭成功があやすと、不思議なことに赤子はピタリと泣き止んだ。
ふと気づくと、赤子を包んでいるのは黄色の服。龍の刺繍があり、皇帝のみが着ることのできる『黄龍袍』であることがわかる。
皇子といえど着ることはできないが、万一に備え永暦帝が皇子に与えたのか、それとも混乱の中乳母が持ち出したのか、はわからない。
だが、間違いなく明国皇帝の血統を証明できる逸物であった。
鄭成功は一層大事そうに赤子を抱える。
明国に殉じた偉大な乳母を盛大に弔ってやりたかったが、お互い身分を隠す者同士、茶屋の亭主に始末を頼むことにして鄭成功は密かにその町を出る。
行き先は本拠地台湾。
そうして春麗と呼ばれる大明国皇帝の最後の血統は、大成の家に預けられることになった。
事情を伝えられたのは腹心の陳永華と大成親子のみ。大成は当時五、六歳であったから、妹ができたぐらいにしか思っていなかったそうだ。
春麗は鄭成功の庇護の下すくすくと育つ。
大成の父からは、皇帝の孫娘と知ってのことか、日本の武家言葉を教え込まれる。母からは明の歴史を教わった。生まれつき頭が良いのか、春麗は幼いながらもすべてを吸収したという。
そして三年ほど前、大陸では後世三藩の乱と呼ばれる反清の大戦さが起こったが、前述したとおり平西王呉三桂を除き、他の二人の漢人藩王は脱落した。
これが正真正銘最後の機会だと、鄭成功が大成を日本に派遣したわけである。
右はあくまでも大成に聞いた秘話である。とても幕府の要人に聞かせられない。
私はなるべく辻褄を合わせながら大明帝国が滅亡しきってはいないという点を強調するに留めた。
後は大成の仕事である。今後幕府に呼ばれて正式に援軍を要請すると共に見返りなどの条件が話し合われることになるだろう。私は同情票を稼ぐばかりである。
「ふーむ。信じられん話だ。宰相様、この下賎な者の話をお信じなさるので?」
老中の一人が私の講釈を聞き終え、宰相様に食ってかかる。
後になってわかったことだが、この五十半ばの武士はなんと大老職の酒井忠清であり、下馬将軍と呼ばれる当代切っての実力者であった。
私如きみすぼらしい浪人者を見下すのもわかるというものだ。
「その者はただの講釈師。真偽のほどは改めて確かめねばならぬが、その者の言っていることは本当じゃ。余は信じる」
「ははーっ!」
畏れ多くも宰相様が私を庇ってくださった。感動の余り私は平伏する。
酒井大老は渋々と引き下がるをえない。
「これ、それがしは若年寄の堀田と申すが、そのほう名は?」
末席に座っていた四十がらみの武士が不意に私に話しかけてきた。この人物も並みの人間ではない。後年老中、大老と出世する堀田正俊様である。
「はっ、今は講釈師・吉次郎を名乗っておりまするが、杉森信盛にございます」
平伏したまま答える私に堀田様は続けて質問をぶつけてくる。答えに困る質問を。
「たいそう興味深い講釈であったが、事実ならば一体どこから聞いた話じゃ?」
「そ、それは……」
実は、私はこの手の質問に直接答えたことがない。甲府宰相様のときも親書を渡して、後は大成が自ら正体を明かしたのだ。
返答に詰まる私を見て助け舟を出そうとしたのか、或いは単に問題をややこしくしたくなかったのか、宰相様が話を引き取ってくれた。
「堀田殿、そこまでじゃ。それ以上は先ほど申したとおり後日改めて確かめる。その前に方々で評議してもらいたい。明国の援軍要請が正式なものとして我が国が、幕府がどう対応すべきかについでじゃ」
「それは……」
「宰相様。それは通例どおり関与せず、でよろしいかと」
大老酒井がさも煩わしげに答える。
確かに、鄭成功の言い分からすると今まではこの調子で無視されてきたのだ。
「しかし、話は聞いたであろう。義を見てせざるは勇無きなりとも言う。武士として強きを挫き弱きを助けるは責務と考えるが……」
「拙者もそれは同感にござるが……」
「堀田殿まで何を申される。宰相様、この際申し上げまするが、ようやく徳川の基礎も固まり、武に頼らず文を以って統治するという先代様の築いた風潮を蔑ろにされるのは不孝と申すもの。お考え直しいただきたいと存ずる」
「うむ、父上がか……」
「ですが酒井様、上様のご意見も伺わねば」
「上様は『左様せい』と仰せになられるばかりじゃ。どちらを奏上申し上げようともな」
「その申し様、大老といえど、いかい不敬にございますぞ!」
当代公方様が自分の意見を持たず、周りから密かに『左様せいサマ』と言われていることは私でも知っているが、いくらご本尊がこの場におられないからといって酒井様の発言は余りに酷い。
私が見るところ、老中たちは大老酒井に追随するばかりで誰も発言しない。この場は宰相様に加担した堀田様と大老酒井様の二極に分けられた。
「双方控えよ。評議は余が頼んだことじゃが、ここですることはあるまい。ほれ、杉森が当惑しておるわ」
「ははーっ! も、申し訳ございませぬ!」
宰相様はこれ以上部外者の私に聞かせたくなかったのか、うまく話を中断させた。ダシに使われた私は身も縮む思いであったが。
「なんじゃ、まだおったか! 下郎は下がれ!」
「はっ! で、ではこれにてご免つかまつりまする」
酒井様に怒鳴られ、私はそそくさとその場を後にした。
その後、評議が浜屋敷で続けられたか、お城に持ち込まれたかは私の知るところではない。




