甲府宰相
2話目になります。
芝で講釈を始めて十日ほどになる。そろそろ新ネタの『明末忠臣一代記』も佳境に入った。
さて今日も一仕事と、幟を立てかけたとき、私は武士の一団に囲まれてしまう。
既に集まっていた馴染みの観客たちは、巻き添えを恐れて散ってしまった。
「お、お武家様方、当方に何用でございましょうか……」
「そこの素浪人、同行してもらおうか」
この武士の集団、私を武家の出と認めた上で話している。
しかし、そんなことは全く関係なかった。芸人に身を落としている私に否やはない。
屈強な武士たちに囲まれながら東に向かって歩かされた。
この先は海である。奉行所なら北の方角だ。言い知れぬ不安がよぎる。
そもそも、この一団は奉行所の捕り方とは思えない。
非人頭や同心への根回しは済んでいるはずなのだが……
一町ほどで着いたのは、海がすぐそばの大きな屋敷。大大名のものであろうということだけはわかる。
後で知ったことだが、そこは畏れ多くも当代将軍家綱公の弟君・甲府宰相綱重公の、甲府藩上屋敷、通称『浜御殿』であった。
◇◇
「へーっ! 公方はンの弟はン! どえらいところに連れてかれましたな!」
「はい。私も生きた心地がしまへンでした」
ここは大阪道頓堀。昔語りをしているところである。
三十何年経った今でもあのときのことを考えると身震いが起こるようだ。
「で? どうなったんでっか? お手討ちにはなりまへんでしたか?」
「アホウ! 先生がこうして目の前におるやろ! 何言うてけつかる!」
「あう……すんまへん……」
政太夫のトンチキな発言に、隣に座っていた座長がポカリと小突く。
頭をさする政太夫を見ながら私はつい笑ってしまった。
「まあまあ座長はン。いいやないか。それだけ私の話に夢中いうことや。ありがたいことやで」
「へえ、そんなモンでっか?」
「すんまへん。おおきに……」
「しかし先生。そないな雲の上のお人と知り合いやなんて、聞いたことおまへんで」
「別に知り合いやないがな」
「ああ、それで犬公方はンとも知り合いなんでっか」
「そやから知り合いなんてモンではありまへんいうに」
この二人にかかっては、どんな大事でも些細なことに思えてしまう。
「で、その甲府サイショウゆうんはどんなお人なんでっか?」
「甲府さまは四代様の弟君で、五代様の兄君に当たりなさる。話のわかるお方やったで」
「へ~。ん? 犬公方はンの兄はンゆうんなら、そンお人も公方はンになりはるンと違いまっか?」
「うん、それはやな……」
私は口を濁してしまった。
話すつもりはあるが、このような形では口にしづらかった。昔語りに混ぜてそれとなく話すほうが気が楽なのである。
「……まあ、話を聞いてや。じきにわかりますさかい」
「へえ。ほんなら……」
二人もわかってくれたようなので、私は昔語りを続けることにする。
◇◇◇◇
大きな門を、おそらくいくつもある中の一つで、私のような者が通されるとすれば裏門だろうが、それでも大きいとしかいえない門をくぐり、当然お館の中ではなく、建物の脇を何軒か通り抜け、到着したのは白い砂の敷かれた大きな庭。
私は見たことはないが、お奉行所の白州とはこんなところかと考えると、余計に緊張が募る。縛られているわけでもなかったが、身体が強張った。
「そこに直っておれ」
「はい……」
私は言われたとおり地べたに跪いた。
しばらくそのまま時間が経過する。そばに立っている武士たちは無言であった。何か聞ける雰囲気ではない。
「甲府宰相さまぁの~、おなぁ~りぃぃ!」
その声に驚いた私は、とっさに平伏せる。
そして二度驚いた。その声の言う、この屋敷の主は、私でも知っている次期将軍と目されている人物ではないか。
平伏したまま私の身体は固まってしまったかのようであった。
「……そのほうか? 近頃この近くで講釈とか申す怪しげな所業をなす者は?」
「は、ははーっ!」
しゃがれた声がかけられたが、その声が誰のものか、顔を伏している私にはわからなかった。
上様の弟君ともあろう者が浪人崩れの芸人風情に直に声をかけるとも思われないので、おそらくは用人か誰かであろうと緊張しながら推測する。
「面を上げよ」
先ほどのしゃがれ声とは違う、少し甲高い声が聞こえた。
顔を上げろと言われても身体が言うことを聞かない。
私は平伏したままで声を出すこともできなかった。
「殿! このような下賎の者にお声をかけあそばしてはなりまぜぬ!」
「かまわぬ。これから話を聞くのに不都合であろう。そういたせ。余の命であるぞ」
「ハッ! 出すぎたことを申しました。平にご容赦を。これ、そのほう! 面を上げぬか! これは宰相様のご命令であるぞ!」
「ははーっ!」
そうは言われても、私もどうしたらいいかわからない。
這い蹲ったまま返事だけはする。
「そんなに硬くなるでない。余もそなたの講釈とやらが聞きたいだけじゃ。評判だそうじゃの。唐物講釈が」
「ははーっ。おそれいりたてまつりまする!」
これは驚いた。
こんな雲の上のお人が私の講釈を聞きたがるとは。
それにかけてくる声も穏やかである。
少し心が落ち着いた。
「では面を上げよ。話にならぬ」
「ははっ!」
私は恐る恐る顔を上げた。
といっても直にお顔を拝見する度胸などない。目は伏せたままであった。
しかとはわからなかったが、一段高い座敷には二人いる。
御歳三十五と聞いているので真ん中の、線が細いほうが甲府様であろうと見当をつけた。お側の肩衣をつけた初老のお方は家老か何かか。
「唐物の講釈にはどのようなものがあるのか?」
「は?」
顔を上げたはいいが、余計に緊張する中で、いきなり質問された。
すぐには声が出ない。
「演目を答ええよとのご下問である! とく答えぬか!」
「はっ。三国志、水滸伝、十八史略などがございます」
家老に叱咤され、私は慌てて答えた。
「ほう、三国志。そのほうなかなか学があるとみえるな」
「滅相もありませぬ!」
「では早速始めよ」
「は?」
「ええい! 講釈とやらをお聞かせ申せと言っておられる! はよういたさぬか!」
「ははーっ!」
私は家老の剣幕に再び平伏してしまう。
「これ主膳。そう大声を出すでない。一向に話が進まぬではないか」
「はっ! これはしたり。申し訳ございませぬ。これ、そのほうも顔を上げて講釈をいたさぬか」
「ははーっ。で、ではご無礼して……」
私は震える手で、持参してきた風呂敷を広げる。
いつもは立ったまま講釈を打っているが、今日はそうもいかないので、手書きの講釈本を地面に置くと、心持ち膝の間隔を広げ、重心を少し後ろに、背筋をピンと伸ばして右手に扇子を握った。
「で、では、時代の順に。三国志から、孔明出師の表の段を……」
「諸葛亮か。存じておる」
「で、では始めまする。とっ、時は千と四百年余り前、三国に分かれた漢の国、その一つ景帝末孫と称する劉備が建てた国・蜀漢は自ら正統を名乗っておりました……」
私は緊張で声がかすれそうだったが、何とか半刻かけて一番の盛り上がりどころ、五丈原まで話を終わらせる。
その間甲府宰相様はジッと耳を傾けていたようであった。
こちらは気が気ではなかったが。
「……この後如何になりますか。次回をお聞きあれ」
お決まりの台詞で締めにする。
そして深々と頭を下げた。
さて、反応はどうか。お気に召さず、お手討ちということにでもなれば正に一巻の終わりだ。
「うむ。評判だけのことはある。褒美を取らせよ。主膳」
「はっ。これに持て」
幸いお手討ちは避けられた。
が、褒美とは思いもよらない展開になる。
ご家老の指示で誰かが私の目の前に三宝を置いた。
ちらりと目をやって驚く。
「こっ、これは……」
「ん? 些少に過ぎたか?」
「と、とんでもございませぬ! 過分に過ぎます! とてもいただけませぬ!」
三宝には切り餅が二つ置かれていた。
五十両である。
「そのほう! 宰相さまのご意思を無下に致す気か!」
金子の多寡より、この家老にとっては主の言葉のほうが大事のようであった。
私は恐れ入るしかない。
「めっ、滅相もございませぬ! ありがたく頂戴致しまする!」
震える手で三宝から金子を押し頂く。
ずっしりと重かった。
そして、更に思いもよらぬお言葉も受け賜る。
「では、次も期待しておるぞ。主膳を迎えに遣す。主膳、そのように計らうがよい」
「ははーっ」
私は呆然とした。
今回で終わりではないというのか。
甲府宰相様が席を立つのを平伏して見送った後、家臣たちに門の外に送られるまで私は放心して歩いていたらしい。
門の外でハッと我に返る。
懐にずっしりとした感覚があった。
首にも手を当てる。
つながっていた。夢ではないようである。
私は暗くなり始めた江戸の街を浅草に向かって急いだ。
向かったのは、何か事がある度に非人屋敷である。
途中乞胸頭の仁太夫も半ば無理矢理引っ張っていった。
「くっ、車様!」
「なんでえ、騒がしいな……」
「のんきなことを言っている場合ではありません! こっ、これを!」
「なんだ? 切り餅が二つ? 五十両じゃねえか。どうしたい? 押し込みでもしたのか?」
「冗談を言っている場合ではありません! じっ、実は……」
私は先ほどあった出来事を事細かに説明する。
仁太夫も善七も信じられないといった面持ちであった。
「……夢でも見てたんじゃねえか?」
「この五十両はどう説明するんですか!」
「そりゃそうか。だとしたら……おめえ、すげえ金ヅル掴んだな」
「吉さん、よかったじゃねえか」
「何をのんきな。これから如何いたせばよいか……」
「如何って、そりゃ講釈師なんだ。講釈するのが稼業だろ」
「しかし……」
「まあ、気持ちはわかるがな。大身の連中はお忍びで見世モンに来るこたぁあるが、呼ばれるってのは聞いたことがねえからな」
「車様……」
「そんな目で見ねえでくれ。俺は非人の頭で、奉行所くれえなら顔も利くが、お大名の、それも上様の弟様相手じゃ、逆立ちしても相手にならねえ。長吏頭の弾左衛門でもどうだかな……」
弾左衛門。
長吏頭とは全国のエタ・非人を一手に取り仕切るお役目で、車善七が江戸の非人のみ管理するのとはその桁が違う。屋敷にしても、ここは正式には非人小屋というのだが、弾左衛門の屋敷は正に大名屋敷並みだという。
そんな人物が出張っても無理かもしれない。
いや、どだい私のような浪人崩れの、一介の芸人のために動くはずはない。それはこの二人のお頭も同じだ。
心配させるだけ無駄なことだと思い直し、また申し訳なく思った。
「車様、仁太夫殿。無理を申しました。何かあったときは自分で責任は負います」
「お、おお。そうかい……」
「な、なに、吉さんならきっと気に入られるに違えねえ」
「はい。なんとかお手打ちにならないようにします」
「おいおい、縁起でもねえな」
二人と話して、いい思案は出なかったものの、かなり気が楽になった。もう一つの気がかりな話題に移る。
「ところで、この金子、如何致しましょう……」
「うーむ……」
三人の目の前にある切り餅二つが異様な雰囲気を漂わせている。
「さすがに俺も封を切る気にゃなれんな……」
貰った物だからハイそうですかと使うのに抵抗があるのだ。
「預かってはもらえないでしょうか?」
「ふん。おめえの長屋じゃ置いとくのもアレだしな……よし、しばらくは俺が預かろう。使うも突っ返すも、決まったら返ぇしてやる」
「お願いできますか」
「しゃあねえだろ」
「ありがとうございます」
これで一応落着する。
後はこの次甲府宰相様に呼ばれたときに取り乱したりしないように覚悟を決めるだけであった。
仰天の出来事から数日後、相も変わらず私は講釈に忙しかった。今は浅草と芝を回っている。
その日芝に到着してすぐ同心のほうの結城殿に出くわす。
乞胸頭の心配していたとおりに、私を良いカモと見ているらしく、袂をこれ見よがしに振りながら近寄ってきた。
私は仕方なしに、仁太夫殿から言われたとおり、小銭を用意する。
同心・結城が何か金額のことで文句を付けようとしたとき、目の前に駕籠が止まった。庶民が使うモッコ籠でも町駕籠でもない。大名駕籠だ。お連れの侍もズラリと並んでいる。
言葉の出ない同心の結城殿が目をぱちくりさせていると、駕籠の戸が開く。
「甲府藩江戸家老、飯沼主膳じゃ。付いて参れ」
「はっ、それがしがでござるか?」
答えたのは同心の結城殿。
この場にいて大身の武士から声をかけられるのは自分しかいないと思ったのは至極当然だったろう。
しかし、事実は違う。
「不浄役人に用はない。そこな講釈師じゃ」
「は?」
私は、駕籠が見えたときから、おそらくそうではないかと思っていたので、慌てず荷物をまとめ、ついでに同心の袂に小銭を放り込むと、何も言わずに駕籠に近寄る。
駕籠はすぐに出立した。私は同心・結城に一礼して後ろに従う。
同心の結城殿は呆然と眺めていた。
それまで同心の後ろに隠れていた目明しが不安そうに同心の袖を引っ張る。
「旦那、あのヤロウ、あ、いや、あのご浪人さん、さわらねえほうが……」
「あ、ああ……源之将といい、アイツといい、何なんだ……」
そんなことは露知らず、私はこの間の浜屋敷に到着する。
庭に回されると、驚いたことに、畳が用意されていた。酒の膳まで。
恐れ入った私は、地べたに座り込み、甲府さまのお出ましを待つ。
「甲府宰相さまぁの~、おなぁりぃぃ」
さあ、お出ましだ。私は平伏する。
「よい。面を上げよ。席を賜る」
「もったいないお言葉。しかし、私はここに入れただけで身に余る幸せにございます。どうかその儀は……」
「うむ。殊勝な心根じゃ。褒めて遣わす。それ、座に参れ」
「うおっほん! 宰相様の仰せじゃ。従うがよい」
「は、ははーっ!」
ご家老さまにまで言われては否やはない。
私は震える身体を引きずり、青々とした畳の上に膝を乗せた。
《こんなことになるなら新しい袴を買うのだった……》
後悔先に立たずというが、私はビクビクするばかりである。
「では……そなた、名は何と言ったかのう?」
「ははっ! 杉森信盛にございます!」
「ほう、モリが二つとは面白い。気に入った。杯を取らす」
「ははっ!」
こうなれば、言うとおりにするしかない。
ご家来衆が無言で高価そうな朱塗りの杯を差し出してくる。
震える手で受け取ると、高々と掲げた。
酒が注がれ、私は目を閉じて飲み干す。
おそらくは素浪人の、乞胸の私が飲んだことも無いような上等の、灘の生一本の類の下り酒であろうが、とても味などわかる状況ではない。
だが、宰相様はそんな私の様子に満足していたようであった。
「よい酒量じゃ。おお、そうじゃ。紹介しておこう。これは算学の学者で、関じゃ」
「関新介にござる。なにやら面白き話が聞けるとお聞きいたし、宰相様にねだってまかりこし申した。良しなにお頼み申す」
「ははーっ!」
私は杯を両手で持ったまま頭を下げた。さぞおかしな格好だったことであろう。
甲府宰相様は笑いを堪えるように、講釈の開始を促した。
私はやっと自分らしさが取り戻せると、急いで支度する。
「本日語りますは、水滸伝。宋の時代に、朝廷に背を向けた豪傑たちが、最後は朝廷のため奮戦いたす物語であります……」
私は、特に朝廷に帰順したという点を強調して話し始める。
いくら物語といえど、幕府要人の前で朝廷に逆らう話などはできない。
前半部分はなるべく柔らかく、短く紹介した。
さて後半部分。宋江が朝廷の招安に応じるところから本番である。
私は朝廷のためと、何度も繰り返し、遼国や反乱分子との激闘を語った。そして梁山泊の全滅の前で締める。
「……さて続きは如何に。次回をお聞きあれ」
以上でございますと、平伏する。
「あっぱれ! 褒美を取らす」
「ははーっ!」
「主膳」
「はっ」
「杉森とやら、面を上げよ。今回は些少である。安心して受け取るがよい」
「ははーっ!」
見ると、確かに三宝に乗っているのは小判が一枚のみ。
講釈のおひねりとしては法外だったが、何十両ではないので、確かにホッとする。恭しく押し頂くことに。
「杉森殿。非常に興味深うござった。次も是非お聞かせ願いたい」
関様からもお褒めの言葉をいただく。
「ははっ、ありがたき幸せにございまする」
「宰相様。次は友人の国学者も同席させてよろしいでございまするか?」
「よいよい。ならば余も歴史の学者を呼ぼうかの」
「それは良きお考えで……」
なにやら頭上では話が大きくなっている。私は冷や汗の掻きとおしだった。
甲府宰相様がお席を立った後、私はご家来衆にご家老へのお目通りを頼む。
素浪人が何を、という目で見られたが、先日の五十両という大金についてだと言うと、案外すんなり聞いてくれた。
「何じゃ? 話とは」
しばらく待つと、先ほどの座敷の上から声がかかる。
私は平伏して事情を、心情を語った。とてもあの金額は身に余ると。
「何じゃ、気の小さい。それに、宰相様が一度出した物を返せと言うと思うのか!」
「し、しかし……」
「それに、そなた武家の出であろう。もう少しまともな格好はできんのか? あの金子で購うがよい」
「しかし、私は乞胸の身。武士とは名乗れませぬ」
「ここに来る方便じゃ。かまわぬ」
「ははっ。……で、ではあの大枚五十両はありがたくいただきまするが、仲間に分けてもよろしいでございましょうか?」
「ふむ。どこまでも小心な男じゃ。好きにするがよい」
「ははっ。ありがとうございます」
「では、後日迎えに行く」
「わかり申した。では、これにて失礼致します」
懸念していた件が解決し、私はこの前と違って堂々と門を出る。
夕焼けに染まった街が美しい気がした。
その後、非人頭と乞胸頭に事情を話し、それぞれ二十五両を非人や他の芸人たちに分けてもらうことに。
二人とも呆れていた。
まともな着物を着ることについては異議があったようだが、武家屋敷内だけなら誰も口出しできないと、結局は認めてもらえることになる。
それから数日後、芝のいつもの場所に駕籠がやってくる。
同心の結城殿の姿は見かけない。
恐れられているのだろうか。そういえば、背の高い、総髪のほうの結城殿の姿も最近見かけていない。
浜屋敷に入ると、私は許可をもらい、お庭の隅で着替えさせてもらった。
先日もらった一両で古着屋で購った着物と袴。充分武士の姿を取り戻した。といっても伸び放題の月代はすぐには如何ともしがたいが。
庭にはやはり畳と膳が備えてあり、型どおりの謙譲と賜席があった上で、私は座に着いた。
三度目ともなると度胸が付くのか、座敷を見上げてみる。
そこには五人の姿があった。
真ん中は勿論宰相様であり、右にお家老、左に関様がいる。あとのお二人はこの前言っていた学者だろうと見当をつける。
この次は何人に増えるのだろうかと、気楽なことを考えられるようにまでなっていた。この武家の格好が気持ちまで変えてくれたのであろうか。
まあ、当代上様の弟君の御前である。それ以上の存在といえば上様じきじきの下向しかない。何人増えても気持ちに影響はなかった。
座敷の方々にそれぞれご挨拶申し上げ、私は襟元を正す。
「では始めさせていただきます。本日語りまするは、十八史略より、南宋は忠臣・岳飛の物語にございます……」
金国に滅ぼされた宋国は南の方に押しやられ、後世、南宋と呼ばれるが、その南宋の猛将・岳飛は一人宿敵金国と戦う。そして奸臣・秦檜の讒言で最期を迎えた。だが、岳飛は最後まで忠義を貫こうと抵抗しない。
「……これにて一巻の仕舞いにございます」
「あっぱれである。岳飛もそのほうも見上げた者じゃ。杯を取らす」
「ははーっ! ありがたき幸せ!」
私は酒と褒美の一両を素直に受け賜る。
宰相様は言葉を続けた。
「杉森。次の講釈はいずれの国の話か?」
「ははっ、明にございます」
「ほう、明か。では、元を追い払う話であるな」
「そ、それは……」
「いや、今は聞くまい。楽しみが減る。そうであろう?」
「全くそのとおりでございます。杉森殿、拙者も楽しみにして待つでござるよ」
「はっ、かたじけない次第でござる!」
「では下がるがよい」
「ははーっ」
宰相たちはそのままその座敷で酒宴を始めるらしい。
私はご家来衆にいざなわれ門の外に出る。
「しまった。着替えを……」
既に通りは薄暗い。
それにこれから街中で講釈を始めるわけではないと考えると、この格好のままでかまわないと判断し、私は道を歩き出した。
「杉森殿」
「ど、どなたですか?」
黄昏。たそかれ(誰ぞ彼)とはよく言ったもので、不意に声をかけられても誰かわからない。
ここは大名屋敷近くの通り。人通りは全くない。
人影が近づくにつれ、やっと誰か見当が付く。
背の高い二本差しが小さな女の子を連れているのだ。あの御仁しか考えられない。
顔の見える距離までお互い近づくと、果たして結城源之将殿であった。連れも、いつもの振り分け髪のお春である。
「お久しゅうござる。ご活躍のようで何より」
「いやいや。本当にお見限りで。そうそう。北町の結城殿という同心に会いましたよ」
「修理之助殿か……」
「嫌なことはされなんだか?」
「春殿。そのようなこと……」
さすがに身内というこの御仁たちに、袖の下を要求されたとは言えない。
「それはともかく。ご同行願いたい」
「今からですか? あの船宿に?」
「いや。近くだ。異存はあるまい」
「黙って来るがよい」
「春、黙らんか」
変わらぬ二人の様子に、私はすっかり安心した。
「無論お供いたします。お話もありますし」
「うむ。快諾、かたじけない」
二人は向きを変えるとスタスタと歩き始める。私も後に続くのであった。




