そんなことがあった
◯
弱り目に祟り目という言葉を知っていればこそ、自分が女であることをなくし、孤独に生きていかなければならないことを受け容れてからも、麗子は背筋を伸ばし顎を上げて生きることを自分に強いて来た。私は弱ってなどいない、こんなことではへこたれない、雨よ気儘に降るがよい、傷よ好きに苛むがよい……。内心でどれほど苦しみ、それこそ白い手の幻想に追われ、冷たい汗にまみれた身体で飛び起きるようなときがあろうとも、麗子はあくまで強い振る舞いを崩さずにいた。
そんな麗子をして、その事件にぶつかったときには、言葉から逸れ、しばし立ち上がる力を失した。
目の前には、あともう少し、どこかを押しでもしたら、そのまま奈落に落ちて行きそうな女がいた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
消え入りそうな声でそう言うくせに、麗子にはその女がとても強かに見えたのだ。
女の名前は、礼子と言った。麗子と同じ響きで、麗子があの老政治家に任された店と同じ名前。どことなく儚げで、いかにも脆い線の細さが人の心を惹きつけるタイプの彼女に、数寄屋橋の店を任せることを決断した理由には、その名前の巡り合わせに面白さを感じたからだった。
過去が、死者が、意趣返しをしに来たような気持ちだった。礼子は店の売上を持ち逃げするのみならず、本店である麗子の店に麗子不在のタイミングを狙って「ママのお遣いで」と顔を覗かせ、金庫のありったけの金を持ち出して逐電したのである。
幸い、礼子はすぐに見つかった。しかし彼女は、しおらしい態度で、自分が客の男の子供を妊娠したこと、その客が妻子ある者だということを消え入りそうな声で語り、そのためにお金が必要だったんです、慰謝料とか、子供を産んで育てるにも、お金が掛かるものですから、……まだぼそぼそと言う。
礼子のおなかは目立たなかった。まだ妊娠初期だという。しかし、そこに命が宿っていることを知って、麗子に何が言えただろう?
銀座の人脈を辿れば礼子の隠れている場所はすぐにわかったし、なんなら相手の男も含めて応報することも出来た。本来ならばそうするべきところではある。だが礼子は、……麗子の身体のことを知る彼女は、却って麗子がそうした決断を下せないに違いないと踏んでいたのではないか。
子宮を失った麗子に、妊娠した礼子のこれから歩む道を閉ざすことはできるのか。
麗子が子の親になれる身体であったなら、存外冷酷に断を下すことが出来たのかもしれない。それは自然なこととして、爪を切るような塩梅で。
しかし、麗子には出来なかった。
それが出来てしまうのは、女ではないような気がして。
……麗子が礼子の逐電に気付き、数寄屋橋のビルにある二号店に駆け付け、しかし甲斐なく帰り掛けたのは、一報が入り本店を閉めた後のことだった。本当に、手に持てるものは全部持っていったという風情の店を後にしようとして、エレベーターを待っていたら、中から銀座には不似合いな母娘が出て来て、危うくぶつかりそうになってしまったのである。
麗子と同じ世代であろう母のほうは、いかにも寝不足で浮腫んだ顔に化粧もろくにせず、服もまるで洗練されていなかった。一方で娘のほうは、目の焦点が合っていない、……冷たげな汗を浮かべた額に乱れた髪を貼り付けている。「すみません」とやや訛りのある言葉で詫びた母のほうへ、
「お嬢さん、大丈夫ですか。お加減よくないようですけど」
と咄嗟に声を掛けてしまったのは、……私はまだ弱ってなどいない、背筋はしゃんと伸びている、その証拠にほら、こうやって人を気遣える……、と今にも折れそうな自分の心の弱さに向けて気丈さで抵抗を試みたかったからかもしれない。
憔悴しきった様子の母親は、目に涙を浮かべて自らの来意を麗子に語った。こちらにね、お店を出してる方が、その、うちの夫とですね、あの、ええ、お恥ずかしい話なんですけれども、一緒にその、駆け落ち言うんでしょうか、なさって、ええ……、それで、どうしたらいいかもわかんないんですけども、こうして来てしまったわけで、ええ。娘は、あの、長旅の疲れが出たんでしょうか、汽車を降りてからこうなってもうて、ええ……。
背筋が凍りつく思いだった。この親子もまた、自分と同じく礼子のやらかしてくれたことによって傷を負っているのだ。また同時に麗子は、この母娘の恨みが自分に向く可能性について素早く考えを巡らせたのである。礼子を信頼して店を任せたのは麗子である、……自分の見る目のなさ、監督不行き届き。
狡猾だったと言われるだろうか? しかし麗子には、……このときの麗子には、今ある以上の重荷を背に負うことなど到底出来なかったのである。
「この時間ですから、……お店が開くのは、早くても夕方になりませんとね」
麗子は冷静さを保ちつつ言った。
「それよりも、お嬢さまのほうが心配です。すぐ近くに病院がありますから、……ええ、早く診て頂かないと、今すぐにでも……」
懇意にしている女医のところへ母娘を連れて行く道すがらで、
「銀座は狭い街ですから、逃げ回ることなんて出来やしません。その方、……ええ、レイコさんとおっしゃるんですね、わかりました。居場所が分かりましたらすぐにお伝えしますわ」
と伝えるなり、自身は悩んだ末に、電話ボックスに駆け込んだ。
古田川誠はすぐに車を寄越してくれた。
運転手は余計なことは何も言わず、赤坂のホテルまで車を走らせる。カフェで待つほどもなく、古田川はやって来た。
礼子のことは、彼も知っている。彼が本店にやってくるたび、礼子は挨拶をし、古田川も「とてもいい子じゃありませんか」と褒めていた。
だから、古田川は開口一番、自責を口にしたのだ。
「あの人がそういう本性を持っていることを見抜くことが出来なかった、僕に責任があります」
本当は、そんなはずはないのだ。
客の立場であり、また麗子にとっていいところ「友人」で止まっている男が、礼子のやらかしたことの何を背負う必要があると言うのか。
しかし、古田川は迷いのない目でいた。
「……礼子と一緒に逃げた男の、奥さんとお嬢さんが来ているの。お嬢さんのほうが、具合が悪そうだったから、いまは病院に行かせているけど」
「礼子さん……、逃げた礼子さんの居場所に心当たりは?」
「わからないけど、伝手を辿ればすぐ調べが付くはず。銀座の女は銀座に足跡をつけずに逃げることなんて出来やしないんだから」
麗子に母娘の咎めが及ぶことを、古田川も恐れてくれているらしかった。古田川は素早く立ち上がり、どこかへ電話をしに走り、当時徐々に膨らみ始めていた腹を摩りながら戻ってきた。
「埼玉の、ダム湖のほとりに、城を買ったんです」
古田川は唐突なことを言った。虚をつかれた麗子に、
「城です、キャッスルを、買ったのです」
ともう一度言った。
「……どういうことですの?」
「いや、まあ……、あなたに似合うと思ったものですから」
古田川は場に似つかわしくない照れ笑いを浮かべ、頬を紅潮させもした。もちろんこの男の、自分へ向かう恋心のあることを把握しているからこそ、急場に助けを求める先に選んだことを麗子は認めるが、……城?
「点数稼ぎとお思いになっていただいても結構。無論、その点数がどこまで嵩んだとて、麗子さんは僕のおよめさんにはなってくださらないでしょうし、そのことは、うん、わかっていますとも。しかし、僕には、あなたのための得点稼ぎをするのがどうやら楽しいらしいんですよ」
古田川はそう言って、少し残念そうに笑った。
「白い馬にあなたを乗せて、一緒にご案内して差し上げられたなら、……そしてその城であなたと一緒に暮らせたなら素敵だなって思うんですけど、あいにく、僕にはその資格はないようです。でも、ひとまずあなたにその城を贈らせて頂きたい。そして、出来れば麗子さん、あなたは少し休むべきです」
言葉の最後には、彼の眼差しは真剣さを帯びていた。麗子の身体のこと、心のこと、……無論、服の上からわかる範囲のことしか知らせてはいない麗子だったが、古田川は既に全てを知っているらしい。
このとき麗子は、古田川の言葉に抗うだけの力が自分に残っていないことを悟っている。
日々に幻覚を見るような心、身体もまだ、子宮を失った後遺症なのか、健やかさを保つことが難しい。仕事柄、不規則な生活、酒量も少ないとは言えない。
十代のころからずっと銀座の夜を翔け続けてきた麗子の翼は、既にボロボロに傷付き、しかし見た目はいつまでも若々しく美しくあり続けている事実と、向き合うときが来たのである。
古田川から譲られた、人造湖のほとりの城、……「城」は言い過ぎだが、独り身には過分な広さの洋館に、麗子は件の娘を連れて行った。まだ病み上がりの身に、父母に一人の女を交えた修羅場は重い負担となるだろうからと、数日にわたり療養させてやった。
娘の名前は通子といった。母同様に憔悴して、血の気の引いたような少女にどのような言葉が相応しいのか麗子には判らない、……まして、自分の監督不行届を隠している引け目もあって、会話らしい会話もなかったのだが、将棋を指した。あいにく、才気のようなものを感じることはできず、本人も楽しくはなさそうだったので、対局は二度だけであったが……。
数日して、通子の母が迎えにきた。夫とは離婚するという断を下したという。麗子は二人を上野駅まで送ってやるついでに、つかのま、東京を案内した。と言っても、東京タワーに登らせ、浅草ですき焼きを食わせ、最後には「昼顔屋」に寄って栄雁饅頭を買ったぐらいだ。……渡す前に、店の知り合いに頼んで、箱の中に現金を入れた封筒を納めてもらった。礼子が母娘に掛けた迷惑がそのぐらいの額で補填できるとも思わなかったけれど、自分が咎めを負わずに済ませられた安堵を額にするならばきっとそれでもなお安い。
「どうかお元気で」
夜行列車のホームで言った麗子に、母のほうは目に涙を浮かべて、
「このご恩は決して忘れません」
と大袈裟なことを言った。やめてくださいな、私のことなんてさっさと忘れてくださらないと、そうでないと……、そうした思いが言葉にならないうちに、ベルがなり、折戸がしまった。通子も目を潤ませていたようである。麗子を一人残して、ものがなしげな高い警笛を鳴らした夜行列車は夜に消えていった。
電話を鳴らしたら、深夜にも関わらず古田川は来てくれた。自らハンドルを握り、「ご飯はまだですか」と問い、頷くと、彼が時々行くという歌舞伎町の中華料理屋に連れて行かれた。個室まで酔客の笑い声が届いてしまうような店だった。
僅かな量のビールを飲んだだけで、麗子の口からは弱音が止まらなくなった。
「私はねえ、センセ、……もう、すっかり嫌になってしまいました。あの母娘を見ていたら、礼子を見ていたら、私の人生ってとどのつまり、なんだったのかしらって思っちまうんですよ」
古田川はエビのチリソースやらチャーハンやら春巻きやらをあれこれ頼み、そのほとんどを一人ではふはふもぐもぐやりながら、頷くことで話を聴いていることを表現するのだった。
麗子はこのとき、自分が古田川の妾になる意志を内心で固めていたことを認める。
それは銀座に生きてきた女として、一つの立派なピリオドであると思った。あの立派な「城」を自分にポンとくれてしまった古田川に報いるために自分が何をできるかと言えば、……実のところ、何もないのだけれど。
古田川はチャーハンに添えられたスープを啜って、
「麗子さんは、ずっと一人で闘って来られたんですよ。僕は、麗子さんほどの淑女は知らない。東京に初めて出てきてあなたを見たときの衝撃たるや……」
汗を拭きながら言った。
「ただ美しいだけじゃあなくって、気高くて、上品で、でも、したたかさのようなものをね、僕はあなたに見て取った。なぜだろうと不思議に思っていたんですけど、それはあなたの中に闘う人の心が宿っているからなんだな。あなたと盤を挟んで向き合ったとき、つくづくそれを思い知ったんです」
闘う心?
そういうものが、もしかしたらあったのかもしれないが、今やすっかり萎れて弱いばかりの女未満に成り下がってしまった麗子には、古田川の言葉はどこか虚ろに感じられた。
しかし古田川は熱を籠めて言う。言葉に詰まったらいつでも口に放り込むつもりだろう春巻きを、右手の箸でカラシをといた酢醤油に浸しながら。
「あなたの将棋は、その、文学的な表現になっちゃいますけど、とってもサディスティックだ。あんなに酷薄な将棋を指す人を僕は知らない。でも、それは僕にとってものすごく刺激的で、また魅力的だったんですよ。僕は別にその、ええ、マゾヒストのつもりもないんだけども。僕は将棋なんて、まああなたもご存知の通り下手っぴだけど、あなたの将棋に刃や氷柱のように鋭く冴え渡る光を見たんです。あなたはずっと闘って来た人なんだって思ったなぁ。そしてね、でも、いまはこう思う。ずっと闘い続けなきゃいけないなんて、誰も決めちゃいないんじゃないですか。麗子さん、少しはゆっくり、自分のために生きたらどうですか。僕はあなたに恋をした、それが見るも無惨に敗れても、あなたのことを尊敬し続けている。だからこそ、あなたには元気で長生きをしてもらいたいって願うし、……時々ああして、僕のことを将棋でこてんぱんにやっつけてもらいたいんです」
長広舌を振るった末に、すっかり酢醤油を吸って柔らかくなったばかりでなく、べっとりとカラシのついた春巻きをはぼっと口に放り込んで、古田川は目に涙を浮かべた。あるいは、それ以前から彼の目は潤んでいたのかもしれないが、それを見分けられるほどに麗子の双眸も乾いていたわけではなかった。
「僕は、……僕はこれから、きっと偉くなります。仕事をしていきますので、必然、そうなるものだと思っています。ですが、僕は天狗にはなりたくない。政治家ですから、仕事をして人から嫌われることはあるでしょう。嫌われてでもやらなきゃいけないこともあるでしょう、でも別にそれは構わないんだ。でも、忘れちゃいけないことがあると思っています。それが初心ってもの、真っ当な感覚ってものだと思っています。思えばあなたに『およめさんになってください』なんて言ったとき、いま思うと顔から火が出そうな話で、要するに僕はお尻の青い坊ちゃんだったんです。世間知らずの甘ったれだったんです。それをあなたの冷たい手が、僕の頬を張ってくれたんです。僕は終生、あの感覚を忘れずに働いていきたいと思っています。甘ったれの鼻っ柱を叩き折ってくださったあなたに生きていて欲しいと思っているんです。ですからどうか、健やかでいてください、元気でいてください、そのためには休むことだって必要です、ね、お願いですよ麗子さん、どうか、少し休んで、健やかさを取り戻してくださいよ。ね」
しみったれた中華屋の個室には、夜中の一時を回ってもまだ、がわがわと酔っ払いが笑う声が響いていた。武蔵野の人造湖のほとりの建つ城へ帰るには、上野や銀座よりも、歌舞伎町のほうが遥かにいいことは言うまでもない。古田川は夜がしらじらと明けるころ、自らハンドルを握り麗子を送り届けた。
彼は「およめさんになってください」などと言ったときよりは肥えて膨らみ、しかしどこかしら凛々しさを感じさせる目付きで、
「では、失礼します。どうかご自愛ください」
と言い残して、すぐさま東京方面へ車を向けた。




