あの日のこと
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レディの急襲を受け切り、中盤戦を迎えていた。
双方とも玉を囲い合い、駒がぶつかり合う。駒の損得を頭に入れつつ、どこかで損をしてでも攻めるべき機を見逃さないよう目を光らせる一方、当然相手もその隙を探しているので、相手の狙いを消す手にも神経を張り巡らせる。盤面に現れるのは些細な駒の動きであるが、升目と木目のすぐ下では、軋むような音が立っていた。
そっと、レディの顔を伺う。
奏太の母親は、奏太から遡ること二十数年前に、やはりレディが独りで暮らすこの城でしばらく厄介になったことがあったという。それが母の父、奏太から見れば「母方の祖父」に当たる人物が最後まで母から屈託めいたものを残すこととなった人物の行為によるところだということは、奏太も知っていた。二十歳になって、成人式がてら地元に帰ったときに、母が重い口を開いたのである。
母が中学二年生のとき、母の父が外に関係を持っていたことが発覚した。相手は、銀座のバーのママだそうで、その人物の名前を母はわざわざ口にはしなかったが、過去を語るときの彼女の顔は、見たこともないぐらい白く平面的であったことが、奏太の印象には強く残っている。
それでいて、
「まあ、昔のことだし、もう死んじゃった人たちのこと悪く言ってもしょうがないんだけどさ」
語る言葉はいつもの母のそれと変わらないのが、母の中でまだ完全にカタの付いた話ではないらしいことを窺わせた。
五年前、母が語ったことを、奏太はいまでもはっきり思い出すことができる。
お母さんのお父さんって人は、ええかっこしいでね。出張で東京に行ったとき、そこらのお店じゃなくて、わーざわざ銀座なんて行って、バーなんて入って、そこの女の人に一目惚れしちゃったっていう話でさ。
……あんたに写真見せたことあったっけ? まあ、顔はよかったもんだからさ、あっちの人も悪い気はしなかったんでしょうよ。こっちのことなんてもう知らないで、とんとん拍子であっちで出来上がっちゃってさ。
お腹にはその、うちの父の子供がいるんだーなんて言われちゃったもんだから、お母さん、あんたのおばあちゃんね、どんだけパニックになったか判ったもんじゃないけど、それでも昔の人だからね、強かったのよ。お母さん連れて東京まで、……当時はほら新幹線なんてなかったから夜行列車よ、上野に着いたらくったくたで。お母さん昔はさ、いまはこんなだけど、痩せてて身体も弱かったから熱出しちゃって、ねえ。
それで、どうしたもんかっておばあちゃん困りながらもあたしを連れて地下鉄で銀座に行って。でも、わかるでしょあんた、夜行列車で着いて銀座に行ったって、バーなんて一個も開いてないわけよ。おばあちゃんも田舎もんだからわかんなくてねそのへんが。
それで、あたしは熱でフラフラだし、おばあちゃんも途方に暮れてたところに、なんだかすごい、綺麗なおばさんが来てね。そう、おばさん。四十ぐらいにはなってたのかねぇ、あたしがフラフラしてるの見て、声をかけてくれて。そのビルには他にも何軒もバーがあったから、そのうちのどれかのママだったんだと思うけどね。
その人が麗子さん。
そう、レディよ。あんた、ちゃんとあの人のこと「レディ」って呼んでるんでしょうね。ダメよあの人のこと「おばさん」なんて呼んだら。「おばあちゃん」なんて絶対ダメだからね。なんてったって銀座の人なんだから。
でも、綺麗だったわぁ。ひややかぁな顔して、でも、「お困りのようですが」って言う声、うちのお母さんがもう、訛り丸出しで、この人何言ってんだかわかんないんじゃないかしらって恥ずかしくなっちゃうぐらいなのに、うんうんって頷いて、あたしたちを病院まで連れて行ってくれたんだから。見ず知らずのあたしたちをよ。
それだけじゃなくって。そう、それだけじゃなくってよ。レディは、「銀座っていう街はそう広くない」なんて言って、お母さん、おばあちゃんをね、その、お父さんと逃げた女の人のところまで連れて行ってくれたらしいのよ。らしいってのは、お母さんそのとき、あのお城にいたの。ただの風邪だったんだけど、ほら、あたしも昔は細かったからさ、美人薄命って言うじゃない、あんたは言わなくてもあたしは自分で言うのよ、誰も言わないから自分で言うのよ決まってるでしょ、それでええと、そう、美人だったもんだからぐったりしちゃってね、だからそう、レディのお城ね、お母さんのお母さんも、自分の夫の不始末のことで娘をあんまり連れ回すもんじゃないって思ったんでしょう。レディにあたしを預からせて、その間にはいろいろ、そう、離婚に向けての色々を、話してたらしいのよ。
レディは冷たいけれど優しくってね。話なんてぜんぜんしないんだけど、本を買ってきてくれたり、あと、そう、将棋を指したのを覚えてるわ。あんたも指した? そう。あたしは将棋なんてぜんぜん指したことなかったんだけどね、駒の動かし方とルールを教わって、本を読んで、……毎日? まさか。二回だけよ。レディのところに二週間ぐらいいたのかしら、その間に、二回だけ。
お母さんのお母さんはお父さんと離婚して、あたしのこと迎えにきて、レディに「このご恩は一生忘れません」って土下座をしてさ。そう、あのでっかいドアのところで。でも、レディは全然気にしたそぶりもなく、「困ったときはお互いさま」なんて言って、お饅頭を持たせてくれたの。
え? そう、栄雁饅頭よ。おいしいわよねあれ。でもカロリー高いのよ、あんなのパクパク食べたら太っちゃうわよね。
でも、こっち帰って来て蓋開けたら、ひっくり返っちゃって。お饅頭の蓋の裏に、こーんな、こーんなよ、こーんな分厚い、お金の入った封筒がね。
お金よ。そう、現金よ。お母さんたら本当に、これはたとえじゃなくってひっくり返っちゃって。でも、レディったら電話しても出てくれなくて。封筒の中には手紙が入ってて。
「暮らしのお役に立ててくださいませ」
って。
本当にずいぶん助かったんだから。だって、ねぇ、父は出て行っちゃって、お母さん独りで働かなきゃいけない、……あたしもまだ中学生だったわけでさ。家を売らなきゃいけないかって、そう、この家よ、あんたが古いだのボロいだの悪口言うこの家も売らなきゃなんないかって言ってたところだったけど……。ねえぇ、ごらんの通りよ。本当にありがたくって。
そういうことがあったもんだから、ほら、あの人が危篤っていう話になったときに、あんたをああして連れて行って、……本当はね、あんたをそのまま見せてやろうかと思ったのよ、あたしの父に。「おかげさまでこんだけのもんが出来ましたわアハハ」ってね。でも、ねぇ。それもなんだか情けがない気もしたし、あんたを巻き込んじゃうのもどうかと思ってさ。東京まであんたを連れて行って、そうだって思い出したのよ、レディのことを。あの人だったらきっと助けてくれるって。
……まあ、「危篤」って言うから飛んでいったけど、それからあの通り一ヶ月近く生き延びられたのにはこっちが往生したけどさ。二回ぐらいこっちに帰ってこなきゃいけなかった……、え? そうよ。帰ったのよ、着替えを取りに行ったり、あとお父さんも寂しがるからねぇ。
思い出した最後に、なんとも釈然としない気持ちまで蘇って来てしまったが、それはそれとして、である。自分より以前に、母が、更に言えば祖母が大変なお世話になった人である。
奏太の指した手に、どう応じるか……、考えに沈んでいたレディが持ち上げたグラスの中が空になっていた。彼女は小さく舌を打って顔を上げ、お手伝いさんを呼ぼうとしたが、どうも近くにはいないようだ。
「あの、もしよかったら、わたしが」
月渚が立ち上がった。レディは、尖っていた肩を下ろして、
「そうかい」
と身を起こし、ソファの背凭れに一度、深く身を沈めた。将棋で動かすのは指先だけではなく、真剣な一局の終わった後にはぐったりしてしまうこともある。しかし十五年前は、対局中にレディがこんな仕草を見せたことは一度もなかった。
「……じゃあ悪いけど、あっちに冷蔵庫がある。冷蔵庫の中に、麦茶があるはずだ」
月渚が三人分のグラスを持ってキッチンへと向かう。
「将棋を、ずっと指しているのかい」
天井を見上げたまま、レディが問うた。
「はい。……こうして物理的な盤と駒を使って指すのは、とても久しぶりですが」
「あれか、……よくわからないが、ネットの」
正確な説明を省略して「はい」と奏太は頷いた。
「最後に駒を手にしたのは、去年です。……いま住んでいる家の近くに、将棋道場があって、そこが銭湯の二階なもので、たまに行っていました」
月渚が麦茶をグラスに満たして戻ってきた。レディは座り直して「悪いね」と言う。そういえば、タバコはもうやめたようだ。
「あんたに敵うやつがいるのか」
「いっぱいいますよ。その道場には、都の中学生チャンピオンがいまして……」
「仲村銀星か」
レディの口からその名が出たことに、奏太だけではない、月渚もずいぶん驚いたらしい。レディは肩をすくめる。
「羽村怜士の弟弟子だろう」
「そう……、そうですが」
ここで月渚が口を滑らせる。
「奏太くんは、銀星くんに勝ったんですよ」
これには、レディも意表を突かれたらしい。ぽかんと口を開けて、目を丸くして奏太を見る。
「偶然です、本当にたまたま……。その、銭湯の二階にあるって言いましたでしょう、彼が湯上がりで、たぶんちょっとボーッとしてるタイミングだったんだと思います」
そうに決まっている、そうでなければいけない。奏太が仲村銀星に勝ったのはあの一回きり。天才少年は一度の敗戦が相当こたえたらしく、以降三回盤を挟んで向かい合い、いずれもこてんぱんにやられてしまった。いまでは奨励会員、まず間違いなく、羽村怜士を追ってプロの棋士になるだろう。
「……やっぱり、あんたには将棋指しの才能があったんだな。いや、今からだって遅くはないか、あんたがもし望むなら……」
かつて銀座のバーでママをやっていた女性である。引退後も老政治家が十五年前当時、ああして通うような人物なのである。将棋の世界にも多少顔が効くということだろうか? 滅相もない……、と奏太は首を振った。
レディはしばらく宙を見上げて、
「そうかい、……仲村銀星に勝ったのか、通子の倅がね……。ならば、あたしも本気を出さなきゃなるまいね……」
と呟くように言ってから、ふいに盤面に視線を戻し、驚くほど鋭い攻めの手を繰り出してきた。
「覚悟をし。あんたはこの可愛らしいお嬢さんを、およめさんにしたいんだろう」
おばあさん、なのに、厳しさを感じさせる笑みの中に、どこかしら妖しい艶が垣間見える。奏太は背筋を伸ばし、さて、この手を攻めをどう堪えるか、いよいよ本腰を据えて臨まなければならない局面を迎えているようだ。




