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白い手

 麗子が自身の人生が帯びた宿命に気付いたのは、彼女が銀座の夜から脱け出して昼の光の下で生きることを決心してからそう間もない時期のことだった。

 その男の名前は、忘れたことにしている。その男の苗字を名乗ろうとしたことなど、なかったことにしてしまいたいと思っている。麗子はその男の子を産むことを試みて、結果的に自身の女であることを失った、……過程にあった心身の激しい苦痛を事細かに人に聴かせようと思ったなら、ひとひらでも同情を惹く要素を混ぜ込もうとしてしまう自分と向き合わなければならなくなるだろう。麗子にはそれが我慢ならなかった。

 ほんのひとたび、昼の光を目にした麗子の帰還を、夜の街は以前よりもずっと暗い闇として待ち受けていた。麗子が銀座にやって来たころは、幾分肩身を狭くしながらも行き交っていた路面電車もとうに姿を消し、煌びやかな光の量とともに人々の暮らしと欲が泡のように無尽蔵に膨らみつつある中で、再び舞い戻った街。若さと健やかさを削り取られた「麗子」ではあったが、救いとなったのは人の情、そして、……青年、と呼んでやってもいいだろう新たな男の存在だった。

 その男は鳥取の県議会議員だと言った。

 政治家というと、麗子にとっては自分が重大な不義理を働いた「老爺」のことが思い出される。銀座という街に根を生やしながらも、そうした人脈は繋がりそうなところから丹念に絶っていたし、そうしたニュースにも意図して触れないよう努めてきたのだが、彼は法務省の接待を受けて「麗子」にやって来てから、週に一度以上のペースで独り店を訪れるようになり、やがてこんなことを言い出した。

「僕の、およめさんになっていただけませんでしょうか」

 男は、古田川誠と名乗った。

 何を馬鹿なことを言ってるんだと丁寧な言葉で嗜めたが、古田川は頬を紅潮させながら、自分がどれだけ本気かということを語り、断っても断ってもしつこくやってくるもので、埒があかない。

 そこで麗子は一計を案じた。

「私は、将棋がお強い方が好きなのです。もしもセンセが私を将棋で負かせてくださったら、そのときにはセンセのおよめさんになって差し上げましょ」

 古田川は、将棋に少なからずの自信があるらしかった。対して、麗子は仮にこの男に将棋で負けることがあったなら、……そのときには、責任を取らせよう、と思っていたのである。

 子宮を喪失した女を「およめさん」にすることは、二十一世紀も四分の一を過ぎた現在ならいざ知らず、当時はまだ一般的に肯定される感覚ではなかった。だから麗子は、いっそこの古田川という男を騙して、後から事実を報せてやろうということさえ考えたのである。

 当時の麗子は、しばしば不快な幻覚に苦しめられていた。現在まで続くその幻覚は、仕事のない日の夜遅く、あるい眠りの中に現れる、無数の白い手であった。

 フロアの床から、あるいはカウンター、ベッドの上……、それは忽然と現れ、蠢く。

 一つ、また一つ、気づけば彼女の世界を覆い尽くして。彼女の足首を、手首を、そして首を掴んだ。けれど、決して締め殺したり、異界へと連れ去ったりはしないのだ。ただ、彼女という生ある肉体の輪郭を冷たい手でなぞることにのみ執着する。

 それはさながら死者の手による愛撫であり、同時に彼女に酷く愚弄された感覚を催させるものだった。もう新しい命を息衝かせることの出来ない彼女の身が、生者として在ることを嘲笑うために現れて、その身体がどんな形をしているものであるか、情交のときに男がするように彼女の身体の細くくびれた部分を締め付けてくる。

 彼女はそれが、自分のせいで失われた命たちの正当な抗議の表現だと解釈していた。

 さすがに「殺した」とまで開き直ることはできないけれど。

 二歳のとき、父は事故で死んだ。まだ幼い麗子のために、自分のことは二の次三の次に必死の働き詰めのすえ、工場で意識を失い、機械に挟まれて亡くなったらしい。

 どうしてか麗子はあるときから父の死ぬ姿を想像する癖がついた。それはいつも、顔も知らないその痩せた男の人が、機械に身体を数箇所挟まれ、その一部分は彼の手首の手前と奥とで文字通り分断されるというイメージで締めくくられる。

 それはおそらく、その翌年に亡くなる母の姿を見たからだ。

 麗子はまだ悲しいとか寂しいとかいう感情を催すには至らず、ただ痩せこけて眠りに落ちたまま目を覚まさなくなってしまった母の、骨と皮だけの手首の印象が鮮烈に残っている。いまの自分よりも若かったはずなのに、老人のようだった薄い手首。麗子が触れても何の反応もなく、ただかさこそとした骨の上に、なぜかちょっと湿ったような感触のある皮膚が、薄いゼラチン質の層の上に乗っているかのようだった。

 手首、手、指。

 そうしたものが自分を撫で回すのは、自分を妾にしたあの老政治家の、しみの浮いた手を覚えているからだろう。戦争を安全なところで生き延び、いっときは戦犯の一人に名を連ねるかもしれなかったのだということを、なぜだか自慢げに話していた男は、既にそうした行為に及ぶだけの力を失っていた。しかし、それだけに永遠に近いほどの時間、麗子の肌に触れていることが出来た。

 麗子はその感覚の中で、老人の肥えた指に食い込んだ指輪が時折冷たく肌に当たるのがいつもとても嫌だったことを覚えている。

 いっとう小さな指がある、いっとうか弱い手がある。

 母胎の中で手は、妊娠四週目から五週目ごろに突起として肢芽が出現し、追って水かき状の手板が生じる。七週を過ぎると、手板の中に骨格の原型が現れ、九週ごろには五つに分かれ始める。十週を超えると五指は完全に分離し、握る動きが観察されるようになる。まもなく爪や指紋もその手に現れ、それはまさしく、手、と呼ぶほかないもの。

 この身の中にあった身体の組み立て、命の出来上がり、とりわけ、指紋というもの、……他の何者でもない、確固たる個別の命として「自己」が存立する証が既にそこ(・・)にあったことは、麗子にとって極めて重たい意味を持った。生まれることさえないまま終わってしまった命、つまりそれは実のところ「死」ですらないのだ。空白の墓碑名に僅かばかりその痕跡を残すのみ。だからそれを「誰の手」とも呼べないことが、なおのこと麗子には心苦しいのだ。

 ただ、男の子だったということだけは知っている。

 そういう手も見える。

 呪いを帯びた身であることを知らせて捨てられるのならば、そのときには人の真贋を見抜く力もないのに政治家などやっているのかと嗤ってやればよい。

 いずれにせよ、古田川が自分の申し出を本気にするとも思えなかったのだが、驚いたことにその翌週、彼はどこで仕入れて来たのか折り畳み式の将棋盤と、やけに立派な駒を自ら携えてふたたび「麗子」を訪れた。

 駒を一目見て、麗子は珍しく驚愕を素直に表現しないわけにはいかなかった。本黄楊の盛上駒、超の付く高級品。

 どこでこんなものをと問えば、

「はぁ、実はよくはわからんのですが、父が戦後まもなくのころに、焼け出された棋士の知り合いから譲り受けたということでしてね」

 古田川の父は鳥取で県議会議員をしていたという。県下では昭和二〇年の夏に入ってから米子で大規模な空襲があった一方、古田川の生家があった鳥取市内には米軍から空襲予告のビラが投下されることはあったが、実行されることはないまま八月十五日を迎えた。古田川の父は親戚の関西の棋士が空襲で焼け出されたことを知り、援助を申し出た。この駒は、その棋士から返礼として贈られたものだそうだ。

「と言いましても、僕は終戦してから生まれたもんでして、詳しい事情はわからんのですが……」

 説明を聴く気は起こらなかった。家を出たぎり久田には会っていないし、手紙のやり取りも途絶えている。中西潤が棋士になったことはもちろん知っているが、タイトルとは縁がない。

 古田川は一九五三年生まれで、麗子より七つも下。このときまだ三十を過ぎたところであった。これで三十路? いきなり「およめさんになってください」などとほざく非常識さもそうだが、色白で丸い頬にどこかしら甘ったれの雰囲気がある。初めて店に来たときから誰かに似ている……、と思ってはいたが、その既視感の正体に気付いて麗子は少し嫌な気持ちになった。

 将棋は、勝負にすらならなかった。

 麗子が得意とするのは奇襲戦法。一般的に奇襲は応手を間違えなければやがて仕掛けた側が不利になると言われる。将棋の常道・王道から逸れたところにあるのが奇襲の生きる道であり、集合知の蓄積された王道に比べれば劣るもの……、という見方が常識である。

 しかし、棋士の家で、鬼の棲家とも称される奨励会を目指して戦う潤のような棋士の卵たちと暮らしていた麗子の操るそれは、単なる奇襲ではない。無論、プロの棋士に通用するものではあるまいが、奇襲の裏に王道の思想を張り巡らせたもの。

 古田川は、序盤の急襲には上手く対応してきた。しかし、ならばと麗子が王道の攻めを繰り出したとき、その急な貌変わりに対処することは出来ず、中盤一気に形勢は傾いた。古田川は見るも無惨なほどに悄然とし、麗子への思いを遂げられなかったばかりか賭けのカタにと銘品の駒も取り上げられて、とぼとぼ……、と革靴の底に音を立てさせながら帰って行ったのである。

 それからしばらく、古田川は来なかった。地元の鳥取に帰ったのであろうと思った。

 しかし一年ほどが経ち、麗子が男の名前も忘れつつあったころ、また突如として彼はやって来た。

「衆議院議員になったんです」

 この一年は白い手の幻想に囚われる時間が増え、気持ちも顔色も冴えない日々が続いていた。年齢的なものもあっただろうか? あるいは、女としての機能を喪失したことが自身の心身の均整を保つことにも悪い影響を及ぼしていたのだろうか? 麗子はずいぶんと暗い日々の中にいた。新聞こそ取っていたし、少し前に選挙があったことは知っていたが、地方議員から転身した古田川が国会議員になったことは知らなかった。

「いかがでしょうか。国会議員になったので、およめさんになっていただけないでしょうか」

 馬鹿なことを言う男もあったものだ。

 相手が馬鹿だと思ったからだろう、ついつい麗子は正直に、自分の身体のことを古田川に話してしまった。

「お気持ちはありがたいですけどね、センセ。私はセンセのおよめさんになって差し上げることは出来ても、先生の跡取りを産んで差し上げることなんて出来やしないんですよ。おわかり? おわかりになったら、さっさとお帰んなさい。こんなののところに通って時間を無駄になさるぐらいなら、せいぜいお国のために汗かいて働いてくださいな」

 終戦翌年に生まれた麗子自身もその言葉に直接的な悪感情を抱く世代ではないのだが、「お国のため」という言葉を選んで使うときには一種の攻撃的なニュアンスを含む感覚がある。七つ歳下の古田川も、政治の現場にいるのならばその言語感覚には敏感であったはずだ。古田川は少なからず傷を負ったことを表情に現して見せた。

 それ以上に、母になれないことを告白した麗子に、古田川は強いショックを受けたようだった。

 不妊というものを取り巻く社会と、それを形成する人々の考え方が未熟だった当時の日本である。ようやく男女の雇用機会を均等にするべきという発想が取り入れられつつあったぐらいで、麗子のような女性が「女性」としてあることを認める土壌はまだ出来ていなかったのである。

 その日、すごすごと帰って行った古田川はまたしばらく店に顔を出すことはしなかった。

 麗子は古田川を思い出すたびに苦い気持ちになる自分に気付き、白い手の妄想が一層つらさを増すのを覚えた。精神的な病症への無理解、精神科医への受診も当時はハードルが高く、麗子がそれを選択肢の俎上に上げるということは全くなかった。

 せいぜい麗子に口に出来るのは、「ですから、ほっといてください」と言うぐらいのものだ。どうせ理解の及ばぬ他人から説教めいた言葉を向けられたって、苦しみは増すばかり。それならば、私は一人でじっと、誰にも迷惑なんてかけずに黙っておりますから、どうかほっといてください。

 好景気に湧き、諭吉さんが乱舞する銀座の街の片隅、……「麗子」の繁盛ぶりは物凄いものがあり、かつて「礼」のあった数寄屋橋にも店を出した。麗子は孤独を仕事で埋める。

 事件が起きたのは、そんな日々の最中だった。

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