麗子の将棋
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棋は対話なり。
将棋にまつわる言葉としてはあまりにも……、あまりにも有名なものである。およそ将棋を指したことがある者、指したことがなくとも将棋という世界観に触れたことがある者であれば、誰しもがこの言葉に一定の好意を持つだろう。
……そうでもない。
藤原麗子は、そうでもないのだった。
「お前さんの将棋は、冷たいな」
麗子の将棋を見た中西潤は、そう言って顔を顰めた。麗子の向かいでは、麗子と同い歳の少年ががっくりと項垂れている、もしかしたら泣いているのかもしれない。盤上は、その少年が麗子の奇襲を受け損なってみるみるうちに形勢を悪くし、ほとんどいいところなく敗れた様子が窺えただろう。
「そない酷な将棋を指しとったら、友達なくしてまうで」
潤は麗子より五つほど歳上である。麗子が居候していた家に、同じく居候として入ってきたのが潤で、麗子はそのとき十歳、彼は十五歳だった。
「将棋は、勝ったもんが偉いんや」
麗子の言葉に潤は少し頬を緩めて、のちに麗子が数えきれぬほど向き合うことになる言葉を、そのとき初めて聴かせた。
「棋は対話なり、や」
麗子はその言葉の中に寧ろ、負の側面とでも呼ぶべきものを見出すことをした。自身のそうした視座にこそ、大きな価値を感じたのである。将棋が対話という要素を内包するのであれば、寧ろ自分はそのことを逆手に取ってやろう。しからずんば相手に丸め込まれて負けるばっかりではないか。
聞く耳など持ってやらんぞ、という気構えで盤に向かい、相手をコテンパンにのしてしまう。それが麗子の、棋風、……とでも呼ぶべきものであった。
「将棋いうんは、ただ相手をやっつけるだけの手段と違う。……タケちゃん、今度は俺と指そか」
潤は麗子を退かして、座布団に収まった。麗子が負かした武史というその少年は近所でも評判の悪たれである。今日はとうとう麗子が居候する家の庭の柿に手を出そうとしたのを麗子が首根っこ捕まえて家まで引き摺り込んだのであった。
武史は将棋が強いと学校でも威張っていたので、「うちに勝ったら柿なんぞ好きなだけ食わせてやるわ。そんかわり、うちに負けたら『ボクは麗子に将棋で負けました』言うてこれまでいじめてきたみんなに謝れ」と言って、……この通りの状況。
これは一九五六年、兵庫県の下町にある、久田十五の家での出来事である。
将棋指し、久田十五。タイトルとは無縁であったが、この時代の関西棋界においてそろそろ「重鎮」と位置付けられようとしていたベテランであり、麗子から見ると遠戚に当たる。終戦翌年の夏に生まれ、二歳のときに父を事故で、三歳のときに母を病気で亡くした麗子は親戚の家を三軒、親等を徐々に離しながら流転したのち、五年前から久田の家に引き取られた。
久田の家とて終戦間際六月の空襲で焼けてしまったのである。しかし、そこは棋士として、立場も蓄えも人よりあったもので、終戦後は元より立派な家を建て、しばらくは身寄りのない人々を保護していた。十五の妻がかつて病院勤めをしていた身であったということも、彼の奉仕の情動と無縁ではなかっただろうし、そういう人たちの家であったから、顔も見たこともない麗子を居候させることにも躊躇いがなかったのだ。
このころ、十五の家には四人の弟子がいた。そのうち、いちばん若いのが潤である。気取って神戸らしい言葉を喋るのだが、生まれは広島だそうだ、……広島。
初めて聴いたとき、ちょっと恐ろしい気持ちがした。潤は気の強い麗子が、自分を恐れる気持ちのあることを察して、かえって面白がって、左腕から肩にかけての火傷の跡を見せびらかした。潤は色の白くぽっちゃりと福々しい容姿であったもので、その火傷の跡は一層恐ろしく、また痛々しく見えたのだ。
そのころ潤は既に「長田の天才」とか「須磨の神童」なんて異名をほしいままにしていた。丸い顔に優しい目、おっとりとした性情を顕すように、じっくりと腰の入った受けの棋風で、攻め自慢の相手の苛烈な攻撃を悠然と受けて往なし、次第にじりじりと勝利へと押し切ってしまうさまは、当時の人気力士にあやかって「関西棋界の阿満富士」なんて呼ばれもした。
「お前さんも、きちっと将棋の勉強をしたらええんや。あないな手ぇばっかり指すんやなしに」
じっくりと時間を使って武史を慰撫するような将棋を指し終えた潤が、縁側で不貞腐れて足をぶらつかせている麗子のところへやって来て、言った。
「いまに、女の将棋指しも出るようになるで」
麗子も将棋には自信があった。しかし、当時はまだ「女が職業としての将棋指しを目指す」なんて感覚は存在しておらず、麗子に将棋の手解きをした久田十五も麗子に棋才のあることは認めつつも、彼女に棋士への道を薦めることはしなかった。プロ棋士への登竜門である奨励会に初めて女性が入るのは、この三年後である一九六一年まで待たなければならない。
久田の邸に住む女性は久田の妻と麗子だけ、だから麗子は昔風に言えば丁稚のように、学校から帰れば掃除に洗濯、食事の支度と忙しく働き回ることになる。そしてなぜ彼女が忙しいのかと言えば、将棋指しになるために、ほとんどもう、将棋以外のことは何もしないし、そもそも出来やしない男どもが生活の維持と運営という面ではからっきし役に立たないからである。そのくせ潤を筆頭に飯は麗子の倍は食うし、盤に向き合っているだけでやたらと汗をかいて洗い物を増やすのだ。
「ならん」
麗子は舌打ちをするように言った。
「うちは、将棋指しになんかならん」
翌年、潤は奨励会に入り、その二年後にはプロの棋士となった。麗子は十五歳まで久田の家の居候として過ごしたすえに、大阪に出た。
一九六一年の大阪で、働き口に困ることはなかった。また、働く限り飢えて困ることもなかった。麗子ははじめ小料理屋の下働きとして雇われたが、客として訪れたキャバレーの支配人の目に止まり、大阪から名古屋、そして奇しくも潤の郷里である広島の店でも働いた。
流転のたび、彼女は自身の存在を強く膨らませて行くこととなった。
オリンピックの年を、麗子は東京で迎える。
かつてないほど明るく煌びやかな熱狂に東京の街が、国全体が照らされ、しかし戦争の傷もまだ微かな埃っぽさとして街路の奥に残る時代、広々とした通りの中央を都電が光の帯を引いて走って行くのを、昼かと見紛うばかりのネオンが照らす数寄屋橋の裏道に、麗子は小さな店を構えた。街頭のテレビでの中に映る、イギリスから来た四人組に人々が熱病のような興奮状態に陥ったころのことである。
東京に来てしばらくは新宿の店で働いていたのだが、最初世話になった支配人と些細な諍いから袂を分つことになったのがこの前年のこと。麗子はとある政治家の男の妾となり、彼の用意した舞台であるこの銀座の小さな店でママとなった。実態はどうあれ麗子は、二十歳という若さながら、「銀座のママ」という立場を得たのである。
店の名前は「礼」であった。
「麗という字は画数が多くってよくない、看板にすると重たくなっちまうから、『礼』にしなさい」
と政治家が言ったのである。
将棋とは、すっかり縁遠くなっていた。将棋も、礼にはじまり礼に終わる、……日本人はそういう決めごとが好きである。麗子は内心でくだらないことをと毒づきながらも、ニコニコ笑って言う通りにした。
数寄屋橋の裏道の店は、すぐに評判となった。麗子の美貌、薄い関西訛り、それ以上に、気が強く、客に媚びない接遇が却って好感を呼んだらしい。
二十五歳のとき、麗子は元の店から徒歩で十分ほど、四丁目に店を構えた。店の名前は「麗子」である。これは「礼」で得た貯えを使い、政治家の許しも得ずに作った店である。
政治家は激怒した。憤死するのではないかというほどに激怒して、それが原因かははっきりしないが、苛烈な攻撃を麗子に加えようとしたがそれを果たす前に倒れた。麗子は「礼」という店を非礼によって終わらせ、自分についてきた客たちによって「麗子」を繁盛させることに成功したのである。
順風満帆……。
このころの麗子を表現するとして、最もふさわしいのがこの四文字だろう。彼女はまだ「月に叢雲花に風」という言葉は知らなかった。風とは自分の背中から押して吹くものだと信じて疑わなかったのである。
◯
奏太は何度も右手の拳を口に当てて、指の間に呼吸を行き渡らせる必要に駆られた。
やっぱり、めちゃめちゃ強いな……、という実感が、四肢に行き渡る。いや、この人の強いことは知っていた。奏太がそれを客観的事実として知ったのは去年、たまたま見たウェブニュースのコラムでのこと。
タイトルに「古田川誠」の文字を見かけてほとんど反射的にその記事を開いていた。十五年前からだいぶ老けたが、まだ精気の滲んだ巨体を、議員会館の中だろうか、ソファに沈めた古田川が、普段ニュースなどで見るものよりは柔和な表情で映っている。
手元には、仰々しいトロフィー。
「永田町で毎年行われる議員による将棋大会『議棋会』をご存知だろうか?」
こんな書き出しで始まる記事はニュースというよりはコラムであった。
……先日の衆院選で激戦となった鳥取選挙区でからくも当選を果たし、議員生活四十年目を迎えることとなった民友党の重鎮・古田川誠だが、十一度目となる当選を果たすと同時に史上初の『五連覇』に挑戦する権利を得たのである。
『議棋会』は将棋を愛好する棋士たちが党の垣根を超えて盤面で丁々発止のやり取りを行うトーナメント戦であり、はじまりは七〇年代だというから驚きだ。勝田信、戸坂浩一郎、木部昌三と優勝者には錚々たる名が連なり、記念すべき五十回大会では垣内美津代が女性議員として初優勝を果たしている。かつてこの大会では四連覇が最高、……五連覇となると、衆議院では確実に間に選挙が挟まることになり、四連覇を果たした議員棋士は古田川以前に三人いたが、五連覇に挑む前の選挙でいずれも敗れ、大会参加資格を喪失していた。そうした意味でも今回の衆院選は古田川の当選なるかという点で、議棋会参加メンバーの注目を集めていたのだが、晴れて史上初の五連覇に挑戦かなったというわけだ。
「将棋ってのは、人生みたいなもんだからね。序盤、中盤、終盤とあって、序盤で崩されても、堪えていればなんとかなることだってある。中盤は人間同士の、魂のぶつかり合いだ。そして終盤は、もう、自分の思いってものを、どうやって形にするか……。縮図ですよ、人生の」
歯に衣着せぬ毒舌で知られる古田川だが、棋士としてはテクニカルな三間飛車党、じっくり囲って、相手の攻めを受け止める棋風だという。
「若いころは将棋もイケイケドンドンだったけどね。これぐらいの歳になると、相手がどんな手で来るかを見極めるのが楽しい。『棋は対話なり』って言うでしょう、人の指す一手には、その人の心が、人生そのものが、必ず現れるもんなんだよ」
古田川誠を好きな有権者は、あまりいないはずだ。見た目もよくないし、いつまでも日本がよくならないのはこういう旧態依然たる議員を「重鎮」だなんてありがたがっているからではないのか、なんて批判も向けられる。また古田川自身の言動も時に苛烈な攻撃性を帯びるもので、しばしば批判の的となる。どうしてあんなヒキガエルみたいなじじいが毎回当選するんだ、なんて訝しむ声も、よく上がる。
奏太は、古田川という人物についての評価を、ずっと留保している。十五年前、このソファで、「坊やは、飲み込みが早いね」と褒めてくれた人物と、テレビの中で悪いことを言う悪徳政治家の具現化と、どうしても一致しないのだ。子供に対しては誰だって優しいよ、という意見に同意する一方、子供のころには自分にもある種の超能力的に、隠しようのない善性/悪性を見抜く力があった気もする。何よりレディが家に上げていたという点には、古田川誠の根の善なることを信じさせる強い材料となるのではないか……。
古田川はめでたく五連覇を果たした。そういう人物を将棋で鍛えてきたのが、目の前にいるレディなのだ、強くないはずがない。
盤を挟んで向き合っていると、十五年という時間の重さが失われるような錯覚に陥りそうだった。角が向き合った瞬間に交換され、その角を受けづらいところに打ち下ろす「筋違い角」という奇襲戦法は挨拶代わり。レディの指すこれは単なる奇襲に終わらず、進出してきた銀・桂馬が通常とは違うコンビネーションで襲い掛かってくる。単調な筋違い角ならば、逆手に取って相手の打ち込んだ角を負担にしてやることも出来るのだが、レディの指す手は重奏的だ。受け手を一つ間違えるとたちまち悪くなってしまうので、奏太はしばらくは守りに集中しなければならない。
十五年前の一ヶ月、八月も下旬に差し掛かったころ、よくこの不可思議なフォーメーションであっという間に攻め潰されてしまったことが思い出される。
「話にならない」
「出直してくるんだね」
「所詮はお子さまか」
昼の時間の大部分を将棋の勉強に費やしてもなお、レディにはまるで歯が立たなかった。どうせ自分が勝つのだから、奏太をやっつけたってちっとも面白いことなんてないだろうに、しかしレディは毎夜、奏太を盤の前に座らせた。レディは必要なことぎり話さなかったが、それでも母のいない一ヶ月を振り返ると、あんなにいい夏休みはなかったな、なんてことを奏太に思い出させる。海やスイカや花火、麦わら帽子に蝉の啼き声にとうもろこし……、そういったノスタルジーとは縁遠いはずなのに、忘れえぬ時間。
それは、奏太とレディが盤を挟んで、「対話」していたからではなかったか。
いま、奏太は自らが十五年ぶりにレディと向き合って、言葉などほとんど交わしていなくとも、彼女の意気のようなものがその指先にさえ触れずとも伝わってくることものだから、ほとんど確信しているのだ。なんなら、レディが健やかでいることさえ、奏太には感じ取れる。それはなによりも奏太にとって嬉しく温かな事実だった。
レディとの時間が奏太にとって、人生を決めた一ヶ月だったと言うことは、実のところちっとも大袈裟ではないと思っているので。
レディの厳しい攻めを、最善の守りで受け止めて、……まだ、油断してはいけない。一瞬でも気を抜いたら、レディの牙は奏太の首筋に突き立てられることとなる。




