素敵なカンバセイションを
ものすごく怖いおばあちゃんだ。
……と十歳の奏太は思ったのである。当時はまだお手伝いさんはいなくて、つまりそんな存在が必要もないぐらいにレディは強靭な健やかさを備えていた。
緊張し切って呼び鈴を押した奏太をしばらく待たせた末に現れた、背の高く、白髪の女性。彼女をを目にして、奏太は逃げ出してしまおうかと思った。
そう出来なかったのは、鋭い視線に射抜かれたようにその両足が動かなくなってしまったからだ。
からからに喉が渇いていた。夏の暑い盛りに、十歳の男児には緊張感のある長旅、登り坂を汗だくになって登ったすえに、辿り着いたのであるから無理からぬこと。
「あんたは、なんだい」
鋭く、短く、尖った声だ。
奏太は一歩も動けず、一言も発せず、……確かそのとき、彼女はグレーのジーンズに紺色の半袖Tシャツを身に付けていた。左の手首にシルバーの腕輪をしていた。男の人のような短髪、ツーブロックにしていた。眉は細く薄く、お化粧はたぶんしていなかった、……けれど、びっくりするほど綺麗な顔をしている人だった。
門扉の鉄格子に手をかけて、背中を丸め、彼女はじいっと奏太を睨め付ける。
「……ああ、通子の倅か」
すっ、と目を細めて彼女はそう言い、門扉の鍵を解いた。ぎぃい……、と軋む音を立てて、門扉に僅かばかり、隙間が開く。
「こんなところまで独りで来たのか。あんたのお袋さんはどこで何をやっているの」
字面にすれば、それほど怖くは見えないだろうか。しかし奏太は、学校で一番怖い先生に叱られたときだってこんなに嫌な汗はかかないだろうと思うぐらい、顔と背中に冷たい汗が湧き上がってくるのを感じた。だって、声はちっとも優しくない、というか、冷たく固くて、恐ろしい。
「……麦茶ぐらいは飲ませてやるよ。入りな。こんなところであんたにひっくり返られちゃ、あたしが迷惑するんだ」
門扉の中には、黒い車が駐まっていた。その車はアイドリングをしていて、中で運転手らしきおじさんが、当時まだ誰もが持っているというわけではなかったスマートフォンを弄っているのが見えた。奏太はレディに挨拶する言葉さえ出てこず、ただ邸の、巨人でも出入りするのかと思うような巨大なドアを潜り、僅かに涼しく軽くなった空気の中を、背筋を伸ばしスッスッと大股で歩いて行く背中を追い駆けることで必死だった。
マントルピースが口を開けた応接間、ソファに座ったおじさんがいた。レディよりも少しは歳下かもしれない、しかし、肌は日焼けしていた。髪は薄く、とても太っていて、けれど、奏太の目にもお金持ちだということがわかる、……とても上等そうなスーツを着ていて、スーツの襟のところには金色のバッヂを付けているのが格好いい。
それだけに、みっともなく太っているのがもったいなく見えた。
このおじさんの顔を、奏太は見たことがあったような気がする。しかし、こういう記憶というのはあてになるものではない。全然見覚えもないような人でも、「ほら、さっきのあの人、テレビで時々出てるでしょ、二時間ドラマのチョイ役なんかで」なんて言われると、「ああ、そういえばどこかで見たことがあった気がしたんだ」なんて思ってしまう。
その人は、古田川誠であった。
「えっ」
お手伝いさんがまだ現れないもので、奏太の話はそこまで進んでいる。奏太のパートナーはふわふわした喋りかたや強目の髪色のせいで誤解されがちだが、明晰な頭脳と社会と世界へのアンテナを張り巡らせた女性であるもので、
「ちょっと前に総務大臣やってた人だよね。……その、すごくおっきな人」
優しいオブラートに包んだ言葉ではあるが、まあ、確かにそう言って間違いではない。
「本当に、古田川誠がいたの?」
うん、と奏太は頷いた。
そのおじさんは、突然現れた奏太を見て、少なからずの驚きを催したことを、眉を上げて目を丸くすることで表現して見せた。ただ、その試みはあまり成功したとは言えない。実際、トノサマガエルの擬人化と真正面から向き合ったような気持ちがしたことを奏太は覚えている。後日、テレビの画面の向こうではもう少し悪い印象……、それこそ、時代劇の悪代官の役なんかが似合いそうな太々しさ、悪びれなさのようなものを目にすることになるもので、一般大衆とは逆のベクトルで「これがあの人?」とびっくりすることになる。
「坊やも……、レディのお知り合いなのかな?」
それは、そのときの奏太には最も答えるのが難しい問いだった。なんでもいい、何か別な質問だったら、すんなりと答えを返すこともできたかもしれないが。
突っ立ったままでいる奏太に、
「まあ、こっちへお座んなさい。ひょっとして、歩いてきたの。この暑いのに、まあ大変だっただろうね」
多弁に語りかけながら促し、ソファの、自身の隣をポンポンと手のひらで叩いた。
ローテーブルの上には、麦茶と、お饅頭と、それから……、将棋盤。
奏太の視線が向いたことに気付いたのだろう。
「坊やは、将棋がわかるかい」
とおじさんは問うた。奏太は、小さく首を振る。おじさんのスーツからは、顔に似合わず爽やかな、みかんみたいな香水のにおいがした。
レディは麦茶の入ったグラスを奏太の前に置くなり、すぐ踵を返し、どこかへ行き、戻ってきたときには白いタオルを手にしていた。それを奏太の膝に向かってぽいっと放り、おじさんの向かいに座る。開いた将棋盤を一瞥して、長い指ですいっと駒を動かす。隣に座るおじさんが、何か呻くような声を発して、身を乗り出して盤を覗き込んだと思った次には、背もたれに沈み、「いやいや……」と呟いたかと思ったら、食べかけのお饅頭を猛然と口に突っ込む。
それを麦茶で流し込んで……、
「……おじさんはね、このレディに、いつも将棋でいじめられているんだよ」
笑って言った。
「おじさんの周りの人はさ、みんな、おじさんと将棋を指すと、すぐに負けてしまうんだ。おじさんが勝つんじゃない、みんながおじさんに負けてしまうんだよ」
奏太には、まだ将棋がわからない。わからないけれど、盤面を見ればなんとなく、おじさんが弱いんだろうな、なんてことは想像することはできた。
「だから、おじさんはここに来るんだよ。このレディは、いつも手加減なくおじさんのことをやっつけてくれるものでねぇ」
おじさんは、負けているのに嬉しそうだ。分厚いその右の手を、何枚かの駒が乗った木箱、……どうやら駒の容れものを伏せたものだろうと奏太は想像したものへ被せて、
「負けました」
と頭を下げる。
レディはにこりともせず、将棋盤の隣にある白い菓子箱の蓋を開けて、八つ入っていたはずが、中に二個だけ残った包みの一つを持ち上げ、もう一つを奏太に放る。
「あんたは、通子から将棋は習ってないの」
レディはそれを齧りながら問う。
「は、はい」
やっと奏太は、レディに声を聴かせた。
「じゃあセンセ。この子供に、駒の動かしかたぐらい教えてやってから帰ってくださいよ。……通子は来ないのかい」
奏太は、また答えがたい問いを向けられる。だが、レディは答えを待たなかった。彼女が溜め息を一つ吐く一方で、おじさんは、「じゃあ、まあ、最初はこの、歩から覚えていこうかね」なんて、将棋盤の上に広がった世界を手のひらで集めて、一番小さな駒を摘まみ上げた。
「えーじゃあ……、奏太くんに将棋を教えたのって、古田川誠だったんだぁ……、初耳ぃ……」
奏太が将棋を指すことを、月渚は知っている。
「まあ……、そういう言いかたも出来るかもしれないけど」
月渚も将棋のルールは知っているが、「見る将」を自認し、自ら駒を手にすることはない。
ただ、二人はある棋士と知り合いである。
仲村銀星。
……と名前を出しても、よっぽどな将棋マニアでなければ、その名を知っている人はいないだろう。まだ中学生の、声変わりだって迎えていないような男の子であり、厳密にはまだ棋士ではないのだ。
銀星は奏太が上京してから住み、月渚の実家もある川久保が地元であり、彼が通う将棋道場が近所の銭湯の二階にある。
奏太と月渚が出会ったのが、その銭湯だった。
社会人一年生で仕事への情熱というか、甲斐のようなものを掴めずにいた奏太と、銭湯通いが趣味であった当時女子高生の月渚が鉢合わせ、……それから二人がいかにして夫婦を目指すことになったかはまた別の物語であるが、銭湯の二階では毎日将棋道場が開かれていて、そこで腕を磨いていたのが仲村銀星。首都圏の中学生将棋界では屈指の実力者で、東京都では最強と呼ばれる神童、現在は奨励会に所属している。
「やっぱりすごい人に教わると将棋って強くなるのかなぁ」
「俺は別に将棋強くないよ」
「でも、銀ちゃんに勝ったじゃん」
「あれは偶然だってば。彼の方に油断があったんでしょ」
将棋は二人零和有限確定完全情報ゲーム、つまり運の要素が廃され実力で勝負が決まる。しかし、その時々によって、精神状況だとか、体調の良し悪しだとか、有機的に絡み合う原因によって実力以外のところで勝負が決することが起きうる。銀星の兄弟子である羽村怜士が冴えないベテランに負けて年間全棋戦優勝の快挙を逃したことは、記憶に新しい。
だからこのことを、奏太は誇らない、ただパートナーの月渚は奏太を偉大なる人だと思い込んでいる。そもそも、古田川から教わったのは、駒の動かしかたとルールだけだ。
相手は多忙な政治家である。しばらくしたら、あの黒い車の運転手さんがやってきて、「先生、そろそろ」と促されて、席を立って言った。
「続きは、また今度ね」
おじさんはそう言って奏太と握手をしてくれた。しかし、……当然と言うべきか、おじさんと会うことはその後一度もなかった。
その日からしばらく、奏太はこの洋館の居候として暮らすこととなる。無口で怖い「レディ」との二人暮らしがどういうものであったか、奏太が告げるより先に、
「ああ、すみません、お待たせしましたぁ」
ぽっちゃりした印象のお手伝いさんが、言葉とは裏腹に悪びれた様子もなければ急ぐそぶりも見せずに、あの巨人ドアを開けてやって来る。
「どうぞぉ」
開け閉てするのが、このお手伝いさんだけなのではないか。巨大な門扉は、あるところまで開くとたちまち軋みが強くなって動かなくなる。だから奏太は、月渚を先に通らせ、自身はあとに潜り、……十五年前よりも重たく感じられる門扉を閉じた。
ゆったりとした歩きかたのお手伝いさんの後ろ、月渚と並び小刻みな歩調で通された邸の中は、十五年前とほとんど変わっていない様子に見えた。天井が高く清潔なのだが、薄暗くてしんきくさい。小学四年生だった自分が社会人三年生になっているということは、きっかりこの家も十五年ぶん歳をとったということであり、……レディもまた、同じく、あれから十五回の夏を越したということだ。
おじさんが帰って、奏太はレディと二人きりになった。レディは外に出て煙草を吸ったり、窓際のロッキングチェアで本を読んだり、……まるでそこに奏太なんていないような顔でいる。奏太がもしも無限に拡張可能な膀胱を持っていたら、二人は夏休みいっぱい口を聞かないまま過ごすことになったかもしれない。
「あの」
奏太は恐るおそる立ち上がり、
「ぼくは、羽田奏太と言います。戸ノ場小学校四年生です。おかあさんは、羽田通子で、あの」
そこまで自己紹介をしたところで、慌てて言葉を注いだ。
「おトイレに行きたいです」
レディは溜め息混じりに立ち上がって、「ついて来な」と一言残し、さっさと行ってしまう。奏太はその背中を追って、長くて暗い廊下の手前にあるトイレに通された。トイレのサイズ感も奏太の住まいとは比べものにならないもので、奏太は自分のおしっこの音がやけに大きく響くのが、なんだか妙に恥ずかしく感じた。
母のことを、うっすらと恨み始めていた奏太である。会ったことのないおじいちゃんに会いに行くために東京へ……、というのも正直、「東京で遊べる」という解釈が成立しないのならば気の進まないことではあった。しかるに、家で独りぼっちでいるわけにもいかず、でも赤州に親戚もいないものだから、結局母について東京に行くほか手段はなかったというのは小学四年生にも理解出来る。でも、それならばせめて、いきなり知らないおばあちゃんにぼくを預けるなんてことはしないでおいて欲しかった……。
「座りな」
マントルピースの応接間に戻ると、レディは将棋盤の前に座っていた。奏太が飲み干したはずグラスにはまた麦茶が注がれていて、向かいには真っ赤に濁った液体で満ちたグラスが佇んでいる。
「小学四年生って言ったね。ということは、十歳か」
はい、と小さな声で奏太は応じる。さっき、おじさんが駒の動きを教えるために、そのつど一枚ずつ盤に置かれては退かされていた将棋盤の上には、四十枚の駒が整列していた。
「通子から将棋を習うことはなかったのかい」
そもそも、母が将棋を指す人だということも奏太は知らなかった。
「じゃあ、話にならないかもしれないが。……あんたは、ここの家に寝泊まりして、ただ飯を食らおうってつもりなんだろ」
その時点ではまだ、すぐにでも母が迎えに来てくれる可能性に期待を抱いていた奏太である。そんな何日も、こんな知らないおばあさんの家にいたら、心が参ってしまうに違いない。
「え、あの、でも」
「出て行くんなら、そうおし。金があるなら。あんたみたいなちっこいのが独りでフラフラしてたら、どうなるかわかったもんじゃあないけどね。まあ、あたしは直接通子からあんたを頼まれたわけじゃないからさ、あんたがそう言ってるだけのことで、それを信じるかどうかはあたしが決めればいい」
奏太の動揺には正当性が認められるはずだ。このおばあさんはめちゃくちゃなことを言っている。しかし他方、筋も通っているのだ。全ては母の唐突な心変わりが悪い。
「だから、あたしと一局戦ろうじゃないか。あんたがあたしに勝ったなら、まあ、そうだね、家の仕事を手伝うっていう条件付きで、置いてやっても構わない……」
これ以上ないぐらい、めちゃくちゃ、そして無茶。目の前の女性は呆気に取られる奏太をよそに、自身の駒をいくつか盤上から退けて行く。
飛車、角、左右の香車、いわゆる「四枚落ち」である。
将棋の駒落ちはわかりやすいハンディキャップであるが、四枚落ちはおおよそ八段か九段ほどの大差。これは勝負のフィールドではなく、むしろハンデを設けてもらった側が、将棋の思考に慣れるための世界観であることを奏太が知るのは、ずいぶん後のことだ。
「さっきあの男に習わなかったかい」
「え……?」
「将棋盤を前にしたら、王さまだろうが神さまだろうが、『よろしくお願いします』って挨拶をして始めるんだ」
「あ……、あ……、よろ、しく、お願いします」
「よろしくお願いします」
ぎこちないそんな挨拶から、奏太の人生初対局は始まった。
駒の動かしかたとルールを習ったばかりだ。一方で、このレディが長い人生でそれほど多くの将棋を指してきたのか想像もつかない。ただ奏太は、彼女が駒を盤に下ろすときのぴしりぴしりという音が頬を平手で打つ音のようで恐ろしく、しかし一方で、その細く長い指が駒を持ち上げて下ろす所作に、言いようのない美しさを見た気がしたことを覚えている。
奏太はこの対局に勝った。何もわからないで、ただあのおじさんから習った通りの駒の動かしかたをしているうちに、レディに勝ってしまったのだ。
奏太が将棋に特別な才能を発揮したわけでは、決してない。あの夏の終わりごろにはもう、奏太はレディが奏太を接待してくれたのだということは理解できていた。この六十五歳の婦人は人間として欠けているところがあるわけではなく、かといってこの邸に独りで暮らしていることからも想像出来るように、家族、とりわけ自身よりずっと歳幼い奏太のような存在の扱いに窮して、あんな方法を思いついたのだろうという奏太の想像は、おそらく当たっている。
「あんたは通子よりも筋がいい」
にこりともせず言いながら、レディは駒を片付けた。
「しばらく置いてやってもいいだろう。ただし、さっきも言ったようにこの家の仕事をするんだ。それから、空いた時間には将棋の勉強をすること……、学校の宿題? そんなもんは、やらなくてもいい。あんただって別に、やりたくもないんだろ」
それは事実だが、「やるな」と言われると、人の心なんて勝手なもので「本当にやらないわけにもな……」なんて気持ちも湧いて来てしまう。どのみち母はすぐ迎えに来てくれるはずだ……、という思いは、早速言いつけられた玄関の掃除の間、じりりりりんと鳴った電話によって打ち砕かれた。母・通子からはレディに平謝りと感謝の言葉を並べたすえ、やっと奏太が代わってもらったかと思えば、「悪いんだけどね、お母さん、ちょっと時間が掛かっちゃうから、しばらくその人の言うことを聞いていい子にしててちょうだい」と一方的に言われたばかり。
「勝手な娘だよ」
その感想については、奏太とレディとで意見は一致していた。
お手伝いさんに案内されて通された応接間、……当時よりすっきり片付いて見えるのは、この小柄なお手伝いさんの仕事によるものだろうか。逆に言えば、お手伝いさんの存在なくてはもう、レディが独り暮らしすることが難しいのだという現実と直面して、奏太の胸は痛んだ。
「奥さまは、もうすぐ降りてらっしゃるので……」
奏太と月渚にソファを勧め、甲斐甲斐しくお茶を淹れてくれたお手伝いさんが引っ込む。初めて来たとき、古田川代議士が座っていたところに、あの日と同じクッションが横たわっていた。
隣の月渚が緊張しているのが、奏太にはわかった。
奏太は月渚と出会ってから何度もレディの話をしてきた。あの一ヶ月が自分に与えた影響は人生規模のもので、……だから、彼女と結婚することを、双方の両親に認めてもらうのと同じかそれ以上思いを携えて、レディに伝えなければいけないと思ったのだ。
つまり、同じだけの緊張を、奏太は催している。
そんな二人の耳に、階段を降りてくる足音が聴こえて来た。十五年前は昇りも降りも一段飛ばしで、スリッパの高い音を立てていたレディの足音は、家鳴りのように弱々しく、小さく軋んで。
しかし、
「おやおや。……誰が来たのかと思ったら」
その声は、以前より嗄れているとはいえ、独特の尖りかたは奏太の記憶にぴったりとフィットした。
咄嗟に立ち上がって振り返った姿を見たときには、薄い痛みを伴う感慨を抱かないではいられなかったけれど。
「十五年も見なかったかと思えば……、妙なのを連れてるじゃないか。ええ?」
の、などと言われた月渚が緊張感を強めた。奏太の語りによって形作られてきたイメージと、目の前に現れたその女性と、どれほどの乖離があっただろうか?
レディははっきりと老いていた。かつてはばっさり男っぽく切っていた髪は伸び、細く絡まり、その肩も腰も痩せて骨張っている。着ているものも実用本位のものに変わり、それが一番、奏太には彼女を萎ませて思わせた。
六十五歳だったレディは、八十歳になったのだ。
「ご無沙汰しております、レディ。……あの」
手紙は読んでもらえましたか、と問おうとした。それより先に、
「奥さま、あの、お飲みものはいかがしましょ」
とお手伝いさんが口を挟んだ。
「ああ、いつもので構わない」
十五年という月日を、奏太は思わずにはいられなかった。それが誰の身にも等しく訪れ、抗いようもなく重ねられ、過ぎて行ってしまうものだということを。
いま二十五歳の奏太である、二十歳の月渚である。二人で同じように歳を重ねて、レディの歳になるまで、……奏太はあと四回弱、「十五年」を折り返すだけのこと。十五年前の夏の日にこのテーブルでレディと将棋を指したことが、ついこの間のことのように思い出されるものだから、かえって恐ろしく、儚い。
「あの」
ソファに、じっくりと時間をかけて腰を下ろしたレディに向けて、月渚が深く頭を下げた。
「……はじめまして。この度は突然お伺いいたしまして、誠に申し訳ございません。奏太さんとご結婚を前提にお付き合いさせていただいております、弓岡月渚と申します。どうか私たちのことをご許し賜りたく、今日このようにご挨拶に伺いました。些細ではございますが、こちらは栄雁饅頭でございます。お口に合いますと幸いです」
近い将来、彼女に控える「面接」の予行演習と呼ぶには、きっとそれを上回るクォリティの挨拶。
栄雁饅頭はいつの世も「ちゃんとした手土産」として重宝される。奏太がそれを知ったのは、実は大人になってからで、彼は人生で栄雁饅頭を一個しか食べたことがない。そしてその一個が、この家で古田川誠から分けてもらったあれである。
古田川があの日、どうしてレディのもとを訊ねてきたのか、……将棋、という理由を彼は挙げてはいたが、奏太ははっきりとはわからない。政治家が子供に向けて言ったことが本当だと信じる大人は稀なはずだ。
レディは月渚の差し出した栄雁饅頭を受け取り、
「そうかい」
と小さく呟き、奏太を見る。視線の強さは相変わらずであることに、奏太は少し、安心する。
「あの弱虫の子どもが、フィアンセを連れてくるとはね。……あたしも歳をとるわけだ」
レディはそう言って立ち上がるなり、どこかへ消えてしまった。それぎり五分ほど、奏太と月渚は待たされた。これまでの短い時間、自分たちの振る舞い、……減点されることはないはずだと思いながらも、緊張はの解けない二人の元へ、レディが戻ってきたとき、彼女の後ろにはお手伝いさんが従っていた。
お手伝いさんの手には、……息が詰まるほど懐かしい将棋盤と駒入れの箱。
それがもし、埃をかぶっていたなら、奏太は相当なショックを受けていたはずだが、盤も駒入れもいきいきとして見える。
レディはいまも、将棋を指すのだ。
盤は折り畳み式とはいえ、重厚感がある。足付きの立派な盤は、「見栄えはいいが邪魔で仕方がない」とのことで、実はレディの家にはそういう盤もあるのだそうだが、かつて欲しがった人がいたとかで譲ってしまったと言っていた。
レディは駒入れを開け、盤の上に駒を放った。
「……一局戦ろうか」
刃のように鋭い目をして、レディは言った。奏太のすぐ隣で、月渚が唾を飲み込む。
「あんたは、あたしに結婚の赦しを得るために来たんだろう……。違うのかい?」
彼女の言葉が、少しも素っ頓狂なものだとは思わなかった。歳を重ねたことでレディが正常な思考回路を摩耗させ、筋の通らないことを言っているのだと見る者もいるかもしれないが、奏太にとってレディの提案は、極めて妥当なものとして受け止められる。
だってあの夏、奏太はこのレディと、一体何度将棋を指したかわからない。やらなくていい、と言われた宿題も一応はちゃんとこなしたし、掃除などの「家の仕事」もした、レディは気まぐれに奏太を連れ出し、新宿のデパートや、浅草、そして一度など銀座のお寿司屋さんに連れて行ってもらったこともあったが、それ以外のほとんどの時間はもう、ずっと将棋を指していた。停電をしたときにさえ、蝋燭の灯りを頼りに指したほどだ。
……いま自分の右隣に座る女性と結婚したい、とても素敵な人です、賢く、強く、何より春の陽射しのようにあたたかな心を持つ人なんです。だから俺はこの人と生きていきたい。
奏太は、自分と血のつながりのないこの老女を、自分の祖母のように見ていることを認める。レディはきっと嫌がるだろうけれど、幼いころに母方も父方も祖母が亡くなっており、そう呼べる相手がこのレディしかいないということも手伝っているだろうか。彼女のことをそう思い、そう呼ぶことで感じる甘美な恍惚を、自分のパートナーにも共有させたいと思うのだ。
「わかりました」
奏太は短く深呼吸をして、駒を並べる。奏太の駒の並べ方は「伊藤流」と呼ばれるものだ。駒の並べ方の順序には伊藤流ともう一つ「大橋流」というのがあって、実はそちらのほうが主流なのだが、奏太に将棋を教えたレディが伊藤流の並べ方をする人なので、奏太もそうする癖がついた。
大橋流が、玉、左金、右金、左銀、右銀……、と並べていった次に、角、飛車と配し、歩を五筋、六筋、四筋、七筋……、と並べていくのに対して、伊藤流は左桂、右桂……、まで並べたら歩を一番左の九筋から言うなれば蓋をするように順に並べていき、最後に左の香車、右の香車、角、飛車と配する。
香車と飛車・角は相手の陣まで届く射程を持った駒であるが、将棋のルール上、自分の駒を飛び越えて移動することは出来ない。自らの歩を先に並べてから長射程の駒を置くことで、言うなれば槍の穂先に鞘を被せ、龍と馬も檻に入れるという行儀の良さを示すのだと、奏太は解釈している。
レディの指が歩を五枚摘まみ上げる。指の長いことは昔と変わらない。重ねた手のひらの中で駒同士が静かにぶつかり合う涼やかな音が、幼い日、奏太は好きだった。あのころレディより小さくて、彼女を真似ようのなかった奏太には、その音がずいぶん羨ましく思われたのである。
表が四枚、裏が一枚。レディの先手だ。
「……あんたがあたしに勝ったら、そのお嬢さんとの結婚を認めてやろう」
月渚が短く息を呑んだ。
奏太にとっては、レディがそう言い出すだろうということは想定の範囲内であるから、動揺することはなかった。
膝に手を置いて、
「よろしくお願いします」
一礼。
言葉のない盤上の対話が始まる。




