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レディ・ヴァンパイアの城

 濁った赤い液体が、湖底に沈んだような窓辺のグラスで揺れる。

 彼女の細い指先がその輪郭をなぞり、グラスの中で(さざなみ)を起こした。白い髪に、紅を引いた紅い唇、……レディ・ヴァンパイア。

 そう呼ばれた日もある。

 どうあれ「レディ」と呼ばれたことのある女として、彼女の振る舞いは湖のほとりの古城の主に相応しく、その肌の内側に渦巻く数々の感情を覆い隠した。

「お夕飯はレンジの中です。それじゃ、また参りますので」

 小太りの女がレディに向けて言った。その女は小間使いである。仕事ぶりに不満を抱かなかったことはないが、レディは小言の一つも口には乗せず、ヒラヒラと手を振って送り出した。スクーターが赤いテールライトとともに細く高い音を立てて走り去っていく様子が、窓からちらりと覗ける。途切れかけた集中力を繋ぎ直そうと試みるのだが、頭に浮かんだのは、なぜだか栄雁(えいがん)饅頭のことだった。

 菓堂昼顔屋の栄雁饅頭。

 レディの、というよりは、古田川(こたがわ)誠の好物で、古田川はいつも、「あなたのために」と言いながら持ってきた六つ入りの箱のうち一人で四つは食ってしまう。八つ入りのを買ってくれば六つ食い、十二個のを買えば……。

 古田川はレディに会いに来るというよりは栄雁饅頭を食いに来るのだ。だからぶくぶくと肥ってあちこち悪くして、でも、今もしぶとく生きている。七種類も薬を出して「これをさぁ、毎日毎食飲まないと死んじまうって言われましてねぇ」と自慢げにぼりぼりと()って見せた。

 レディの視線は窓辺の将棋盤の上に向きながら、駒の一つも見ていなかった。盤面は、昨年末のトキノ杯電撃戦決勝の一局面。

 手番は羽村怜士八冠、言わずと知れた天才である。

 その羽村が、年間全棋戦優勝を賭けて臨んだのが昨年末のトキノ杯電撃戦。

 しかし彼は、中西潤の弟子である小笠原茂に敗れて夢を絶たれたのだ。

 まさか、という言葉は将棋を知る者のあらゆる口から零れた。姿形は将棋よりもチェスのほうが似合いそうなこのレディもまた、そう呟いてしまったのである。小笠原はだって、過去に棋戦優勝の一度もない伏兵であったから。

 白皙の美貌を誇る羽村と向き合う小笠原は、いかにも精彩を欠いた造形、将棋も全く洗練されたところのない受けの棋風。しかし危うい局面をぬるりぬるりと凌いだすえに、一瞬の隙を突いて羽村を頓死せしめた。将棋界の英雄羽村の快挙の夢を、目立った実績の一つもない小笠原が断ってしまったのだから、その衝撃たるや……。

 レディは動揺していた。盤面を見て、自分が指す手を見失っているのだ。

 局面は激しく駒のぶつかり合う中盤、羽村の鋭い攻め手に小笠原が必死の応手、しかし紙一枚ほどの(ほころ)びに頭から突っ込むようにして羽村が牙を突き立てんとして、……ついさっきまでレディはそこに、虎か獅子か、あるいは龍の姿を見たのである。盤上を縦横無尽に駆け巡りあらゆるものを食い千切る龍の姿を、羽村怜士の指し回しに垣間見て、……そうだ、だから私は、それを再現しようと思ったのではなかったか。

 少しの寒気を覚えた。

 トキノ杯電撃戦は毎年暮れに行われる、その年最後の棋戦である。クリスマスも正月もレディにはもはや縁遠いものだが、それでも鏡餅ぐらいは用意したほうがいいのだろうか? そうだとして、またあの小間使いに「喉に詰まらせますよ」などと失礼なことを言われるのは業腹だ、それならば餅もなくてもいい。それにしても膝掛けもせずに私は何をやっているのだろう。立ち上がって、湖面の向こうの西の空がまだほんのりと紅さを残していることに気付いて、レディは愕然とした。時計が六時の鐘を鳴らす。六時になってもまだ空が明るく見えるのに、師走であるはずがない。窓の手前のテーブルには将棋盤、駒が、中盤の局面を表していることは判る。しかし、レディは誰かと将棋を指していたのか、それとも自分が独りで棋譜並べをしていたのか、瞬時に思い出すことが出来ない。少し疲れているのかもしれない、甘いものが食べたいと思った。栄雁饅頭のことが、なぜだか懐かしく思い出される。古田川がいつも持ってきた栄雁饅頭。あの男はいつもそれを持ってきては一人でほとんど食べ尽くしてしまうのだ。あれは私に会いに来たのではなく奥方の前でそれを()ると小言を浴びることになるからで私は饅頭いくつかで茶汲みをさせられていただけではないのか……、だから古田川はぶくぶくと肥ってあちこち悪くして、でも、確か、まだ生きていたはずだ。

 まだ、生きていたはずだ……。

 彼女は、レディ・ヴァンパイアと呼ばれたことがある。失礼だとも思わなかった。寧ろそれは、彼女にとって痛快な綽名、忌み名である。自分が人の血を啜って生きる定めにあることに彼女は自覚的であった。

 将棋盤の脇、グラスに入った赤い液体が見えた。彼女は細い指でそれを持ち上げ、一気に煽る、……唇の端から一筋零れる。それを手の甲で拭い、一つ生臭いような息を吐き出し、盤面に目を凝らした。

 立ったまま、背中を丸め、細い指先で駒を持ち上げて、たつ、たつ、たつ……、と静かに動かしていく。羽村の飛車が龍となり、盤面を駆け巡る。彼の玉も少なからず危うく露出しているのだが、この機を逃すまいと切れ味鋭い攻めを繰り出し、ひりつくような終盤戦。揺るがし難い優勢を築き上げる中を、小笠原がしぶとく逃げ回る、その果てに、羽村にとっては悪夢であろう、頓死の筋が現れた。

 羽村はすぐさま自身の見落としに気付き、駒台に手を乗せた。

 レディは深呼吸を一つして、安堵する。そして自分が安堵したという事実に招かれた絶望を、払いのけるようにかぶりを振った。

 目を閉じて、開けたとき、彼女は床から無数の、人間の手が生え、自分の足を捉えるところを見た。白い手、ぷくぷくとした幼子の手がある、分厚くていかにも頑丈そうな大人の男の手がある、あかぎれだらけに傷ついて、なお美しくあることをやめられない手がある、枯れ枝のような指に指輪を嵌めた老人の手がある、そして、いくつも、いくつもの、執拗さでもって彼女の脹脛に太腿に這い上って来ようとする手、手、手、手……。

 どれも、血は通っていない。レディが全て飲んでしまったので。

 連れて行ってくれることもしないくせに。レディは憤りで覆い隠した声で叱りつけた。彼女の膝を握ろうとした手の指はびくんと強張り、怯えたようにすごすごと降りていき、床に溶けて見えなくなる。

 青い闇に空が塗り尽くされ、城の中も湖の色に沈んでいた。





 羽田奏太(そうた)は、走り去るバスの背中をしばし眺めた。

 上り坂は新緑のトンネル。緊張を催しながら、バス停の名前が手元のメモと同じかどうかを確かめた十五年前のあの日と、違うのは季節がもう少し手前であることりあの日は八月になったばかりで、バスから降りるなり蝉の合唱が雨となり降り注いだのである。

 そして、奏太が独りではないということ。

 隣で「んーいー……」とパートナーが声を漏らしながら伸びをした。

「大丈夫? 疲れてない?」

「んー。へーき。遠足みたいだなぁって思った」

 どこかしら輪郭の柔らかな声と微笑み、奏太の肩までしかない身長に、長い髪は定期的に色を変えて、いまはカフェオレ。

 奏太くんは髪ずっと黒いままなの?

 彼女にそう訊かれたとき、奏太は申し訳ない気持ちになって「俺の家系って、わりと薄くなる人が多いんだよね……」と答えた。「ふーぅん」と奏太の髪をじいっと見詰めて「ぜんぜん大丈夫そう」と呟いてから、彼女はこう言った。

「わたしは奏太くんのあたまがツルツルになってもいっしょにいるよ」

 この女の子と、奏太は結婚する。

 と言っても、彼女、弓岡月渚(るな)はまだ大学生である。出会ったのは奏太が社会人一年生のとき、つまり月渚はその当時まだ現役JKであった。彼女と縁が結ばれてパートナーとなって三年、昨秋、プロジェクトリーダーを務めてきたAIがリリースされ、それが高い評価を得たことが、慎重な奏太をプロポーズに踏み切らせたのである。

 就職面接のときを遥かに上回る緊張を帯びて月渚の両親に挨拶し、大いに恥じらいつつ自分の両親に月渚を紹介し、つつがなく婚約相成ったのであるが、奏太にはどうしても、もう一人、月渚を紹介しなければいけない人がいるのだった。

 週に二度は月渚が遊びに来る奏太の住まいは東京と神奈川の県境にある川久保駅近く。そこから、電車で一時間半、さらにバスで四十分……、辿り着いたのが、御影(みかげ)湖である。御影湖は東京と埼玉を跨ぐ人造湖、武蔵野の色濃い丘陵地帯の一隅である。

「どっち?」

 指先を絡めてきた月渚に問われて、

「こっち」

 ゆっくりと奏太は歩き出す。万全を期してスマートフォンで地図を調べるべきかと思ったが、足は自然とそちらへ向いた。森の中、歩道のない二車線道路は、バスが行ったあとは車通りもなくなる。まだ小学四年生の小さな男児が独りで歩くにはずいぶん心細い道だと奏太は思ったし、実際あの日の自分が、不安で押し潰されそうな思いでこの道を歩いたことは、いまでも思い出せるのだった。

「……ここを、奏太くん独りで歩いたの? えっと、十歳のとき……?」

 月渚が、心配そうに訊いた。奏太自身、小さかった自分のことが心配になる。今でこそ一七〇センチを超える身長を得た奏太であるが、当時はクラスでも前から二番目であった。

「まあ……、でも、泣いたって(わめ)いたって、ね、他にどうしようもなかったわけで……」

 奏太の生まれは赤州というところで、日本海側である。

 十歳の奏太にとって「東京」というのは、遠くにあって、でも縁のないところだと思い込んでいて、ぼんやりとした諦めと、淡い憧れを抱いて見る地図の点でしかなかった。

 その夏の日、奏太は母に連れられて、新幹線に乗って東京へ来たのである。母の父、つまり奏太のおじいちゃんという人は、長らく具合を悪くして病院に入っていたのだが、いよいよ良くないということで、急遽の上京。しかし当時奏太の父は長距離トラックの仕事をしていたもので、奏太を家に残して行くわけにもいかない。そうした次第で母が自分を連れて上京することを決断したのだということは、いま振り返ってみて奏太は容易く理解出来る。せっかくの旅行なのに母が青ざめた表情でいて、問いかけにもろくに答えを寄越さなかったことを、奏太はよく覚えていた。

 東京駅に着いて、「お腹空いたでしょう」と久しぶりに笑顔を浮かべた母が、レストランで昼ごはんを食べさせてくれた。

 とろとろのオムライスにデミグラスソース、ごちそうだった。

「もしかしてそれって、エキナカのお店?」

 その味の良さと、伴う記憶の苦さを切り離したくて、月渚がまだ高校生だったときにデートで連れて行ったことがある。

 母は食事を終えるなり、メモを書いて奏太に渡した。

「お母さんはね、これから、ちょっと行かなきゃいけないところがあるの。悪いんだけど、奏太、あんたは連れて行ってあげられないから、ここに行きなさい」

 渡されたメモの内容を、奏太はしっかり思い出すことができた。

 それは、東京駅から新宿駅を経由して、電車で乗り換えて、さらにバスに乗り継いで……、田舎から初めて東京に来た小学四年生が独りで辿るには無茶と言ってもいいような行軍の指示である。

 奏太は当然、それを嫌がった。しかし、母は怖い顔をしてきびしく命じた次には、猫撫で声で「帰ったらあんたの欲しいって言ってたやつ買ってあげるから」なんて態度を豹変させ、結局のところ、奏太は独り中央線の乗客とならざるをえなかったのだ。

 いまから十五年前と言っても、社会がそうおおらかで平和だったわけではない。敢えて繰り返すが、田舎から初めて東京にやってきた小学四年生が、独りで東京駅から郊外まで電車とバスを乗り継いで……。

「どうしてお母さんは、奏太くんにそんなことさせたんだろ。奏太くんのおじいちゃんなら、一緒に行けばいいのに……」

 奏太の母との初対面を果たしたあと、「わたしお母さんすごく好き」と月渚は言って奏太を安心させた。いわゆる「嫁姑問題」というのはなにがきっかけで家庭の幸福を蝕むものか判然としないから、奏太は内心でビクビクしていたのだ。は小市民なおばさんで、それゆえに月渚にも高い好感度を抱かしめた母を擁護する側に、二十五歳の奏太は立つことができる。

「あの人のお父さんっていうのが、昔、あの人を捨てて家を出たっきりだったみたいで……」

 月渚がきゅっと唇を結んだのがわかった。

「でも、最後に会いたいみたいなことを言ってきててさ。ギリギリまで、俺も連れて行くつもりだったみたい。でも……」

 オムライスを美味しそうに食べてるあんたを見てたらねぇ、なんか、連れて行ったら巻き込んじゃう気がしてさ。あっちにはあっちで、家族が、ね、子供もいたわけで、そこにあたしがあんた連れて行ったら、やっぱりよくない気持ちになるようなことになると思ったし」

 土壇場になって、結局母は奏太を父に会わせないことを決めた。代わりに彼女が選んだのが、「レディ」である。

「レディ」

「そう、レディ。とても高貴な人」

 血のつながりもない。ただ、母は中学生の一時期、自身の父の先述のような問題もあって、しばらくその女性の世話になっていたこともあるという話だった。

 本当はね、でも、その人以外に誰か居りゃあよかったんだけどさ。だって、怖いおばさんだったもん、あたしのころは。身の回りのことも全部自分でやんなって感じでさ。まあ、仕事が忙しかったんだろうし、いきなりこんなのが転がり込んで来ちゃったんだから、しょうがないんだろうけど……、これは、のちに振り返った母の弁。

「じゃー、奏太くんは一度も会ったことない人のところに行かなきゃ行けなかったの……」

 奏太としても、「困惑」という言葉が包含できるあらゆるマイナス感情を抱えて、母のメモの通りに道を辿ったことをよく覚えている。鬱蒼と茂った森の中の、うねうね曲がる上り坂、木々の間からは湖の水面が見え、そこからの風がわずかばかりに涼しく心を慰めてくれた。

 やがて、月渚が「わあ」と声を上げ、繋いだ手にちょっと力を籠めた。

 大袈裟な言葉を用いるならば……、城、と表現したっていい、そんな洋館が姿を現したからだ。十五年前の奏太は、それを目にした瞬間ビビってぼくもうおウチに帰りたいようと泣き出してしまいそうになったし、実際そうしたって誰も責めはしなかっただろう……、白い壁面に蔦を巡らせ、辺りを睥睨するように佇立するその威容は迫力満点。

 レディ・ヴァンパイアの城と呼ぶに相応しい、洋館なのである。

 鉄格子の門扉脇、奏太の指が門柱に備えられた呼び鈴を押すと、少々大袈裟さを感じさせる鐘の音が、邸に響き渡った。

 門扉は図体の大きな車が悠々と通り抜けられるほどの幅があり、洋館へのアプローチにもゆとりがある。かつてはどこかの国の大使が私邸として使っていたとかで、外観は尖塔付きの三階建て、広い庭には、いまは枯らしているものの噴水まで設えられており、どんなに控えめな人でも豪邸という表現を選ばざるを得ない重厚感である。

 ここにレディ・ヴァンパイアは独りで住んでいる。

 これほどの物件であればさぞや……、と頭の中でそろばんを弾いてしまうのは、母のことをとやかく言えないほどに奏太も小市民であることの証左であろうか。ただ、最寄りの鉄道駅までバスで三十分以上かかること、近くにコンビニやスーパーマーケットの類もないこと、そもそも建物として非常に古いことなどもあって、目玉が飛び出るほどの高額物件というわけではないようだ。

 しかし、レディ・ヴァンパイアが切り開いてきた人生の末に手にした物件であるという解釈で正しいはずだ。その威厳ある佇まいは、レディにとても相応しい。

「はぁい」

 インターフォン越しにくぐもった声が届いた。お手伝いさんだろう。

「あ、おそれいります。あの、赤州の、羽田です。羽田の、息子の奏太です」

「はあ」

 なんだか気の抜けた返事があって、何やらしばらく待たされた。その待ち時間を、性善説で生きる月渚は「広いんだねぇ……」という解釈に繋げたらしかった。

 奏太は、ちょっと心配になる。

 レディ・ヴァンパイアは傘寿である。普段は縁が遠く、レディはスマートフォンなど通信機器を持たない主義であるので、長らく会話さえしていない。ただ、お手伝いさんが毎日やって来ているし、健康不安があるという報もない。

 月渚を連れて実家を訪れたとき、「レディにも会いに行こうと思う」と母に言ったら、彼女はちょっとぽかんとした顔で、「……ああ! はい、レディね、あーはいはい。元気してるのかねぇ」なんてリアクションであった。それぞれが重ねてきた時代の年輪の隙間、奏太の中にはずっとレディは呼吸を続け、母は(息子をいきなり押し付けるという、相当な迷惑をかけたわりに)すっかり埋没させている。もちろん奏太は今日の訪問を控え、レディに向けて「この日にお邪魔したいが宜しいか」という訊ねを行っているし、応諾も得ているのであるが、八十寿の女性の体調の細かな変化というものを、奏太は想像することが出来ない。

「かっこいいおばあちゃんなんだよねぇ」

 奏太は、まだレディが六十代だったころ、母に言われて訊ね、結果的に約一ヶ月滞在することになった期間の話を、何度も月渚にした。もっとも、「昔お世話になったおばあさんがいて……」という説明と好ましい思い出を掻い摘んで話しただけで、なぜ奏太がここで一月暮らすことになったのかについては、今日まで語ったことはなかった。

「そうだね、俺から見て……」

 レディ・ヴァンパイア。

「ものすごくかっこいいおばあちゃんだった」

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