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第8話 止まった筆

最初に見えたのは、人の顔ではなかった。


粗い板机の上に広げられた紙面。乾ききらない墨。細い筆先。


その先に、もう書かれている。


末端処――


そこまでだった。


半屋外の留め置き場には、湿った土と木箱の匂いが残っていた。返納棚の脇。未処理の荷と控え束が積まれた仮机の前で、若い補給兵が呼び出し札を胸元にぶら下げたまま立ち尽くしている。


顔色が悪い。


喉も動いていない。


帳付役は紙面から目を上げず、筆を持ったまま言った。


「では、最後に手にしていたのはお前だな」


若い補給兵の肩が跳ねた。


返事の前に、脇から別の声が落ちる。


「未了では上へ回せない。ここで閉じる」


ラザールだった。


高くも強くもない声なのに、その一言だけで場が狭くなる。


周囲の兵がまた視線を落とした。いま主役なのは壊れた箱でも票でもない。紙面と筆だった。


リオンは若い補給兵の前まで歩いた。


だが庇うようには立たない。紙面と兵、その両方が見える位置で止まる。


若い補給兵は、縋るように口を開いた。


「俺は、その、順が……箱も、その前に――」


「全部はいらない」


リオンが短く切った。


若い補給兵が目を見開く。


「そこだけでいい。お前が話す前に、何を言われた」


喉が鳴る。


呼び出し札の紐が、かすかに揺れた。


若い補給兵は一度だけラザールの方を見て、それから紙面の方を見た。もう書かれ始めている文字が視界に入ったせいか、唇が震える。


それでも、絞り出した。


「……俺が話す前に、先に“未了では上へ回せない”と決められました」


短い。


弱い。


だが、折れなかった。


帳付役が鼻で息を鳴らした。


「混乱の中で言葉が前後することはある。末端での確認を先に求めた、それだけだ」


「確認、ですか」


別の声が入った。


リゼットだった。


だが彼女はリオンの横へは来ない。


票台の外側、帳付役の斜め後ろへ視線を通せる位置まで進み、そこで止まった。若い補給兵とも、リオンとも、肩を並べない。


独立した位置だった。


一瞬だけ、場の視線が彼女へ集まる。


上位者の目が刺さる。


それでもリゼットはそちらを見ない。呼吸をひとつ止め、視線をまっすぐ紙面へ戻した。


「私は聞いています」


女騎士の声は澄んでいた。


感情で押していない。見た事実だけを置く声だった。


「その兵が自分の言葉で話す前に、“未了では上へ回せない”という文言が先に被せられていました」


場の空気が、わずかに変わる。


帳付役が初めて筆を持ち直した。


何でもない顔を作ろうとして、うまくいっていない。


リゼットはさらに一歩だけ踏み込んだ。


「最初に票を突きつけたのも、今の帳付役です。その直後でした」


違う口から出た二つの言葉が、同じ一点で噛み合った。


ラザールの目が細くなる。


「女騎士殿。現場は混乱していた。言葉の先後だけで件は決まらない。末端の手元に荷があり、票があり、未処理が残っていた。ならば――」


「その順でも、まだ末端処理に落とすのか」


リオンが言った。


一言だった。


だが、その一言は若い補給兵に向いていない。


紙面に向いていた。


すでに書かれ始めてしまった、あの文字に向いていた。


ラザールが返す。


「末端ミスで――」


そこで止まった。


紙面を見ていた視線が、もうひとつある。


検分場書記のコルネルだけは、最初から筆先を外していなかった。


わずかな沈黙のあと、その手が紙面の上に置かれた。


細い指が、書きかけの端を押さえる。


帳付役の筆先が、わずかに進もうとしたところで止まった。


「書くな」


低い声だった。


「そこでは閉じない」


筆が止まる。


本当に、それだけだった。


だが十分だった。


紙面に残った“末端処”の二文字半が、急にみっともなく見える。


書けなかった文字列は、ときに書かれた文より重い。


帳付役が青ざめた。


若い補給兵は、その場で膝が抜けかける。脇にいた年長兵が慌てて肩を支えた。


リゼットは動かない。


自分が言うべきことを言い終えた顔で、まだ紙面を見ている。


ラザールだけが、遅れて言葉を立て直した。


「……失礼。言い方を誤ったな」


笑っていない笑みだった。


「末端処理ではなく、全体混乱として整理すべきかもしれません。荷の流れも票の順も乱れている。ひとりへ閉じる話ではない、というだけです」


一段退いた。


だが崩れてはいない。


閉じ方を失っただけだ。


リオンはその顔を見た。


勝ったとは思わない。まだだ。


だが、もう若い補給兵ひとりの胸元で終わる件ではなくなった。


それで足りる。


コルネルは紙面を押さえたまま、帳付役に視線だけを向けた。


「呼び出し札は戻すな」


短く言う。


さらに、控え束の方へ顎を引く。


「それも、今の机に積むな」


誰もすぐには動けなかった。


戻せないからだ。


呼び出し札は、もう元の位置へ滑り込ませられない。


控え束も、いまの仮机へ重ねれば、この書きかけの紙面と同じ側に置かれる。


若い補給兵はまだ震えていた。


だがもう、ひとりで切られる位置には立っていない。


リゼットがその様子を見て、ほんの少しだけ息を吐く。


それだけで、彼女が感情ではなく責任でここに立っていることが伝わった。


ラザールは視線を落とし、止まった筆先を見た。


その目だけが硬い。


紙面には、書きかけの文字。


机の端には、戻せない呼び出し札。


脇には、置き場を失った控え束。


そして視線の先、留め置き場の奥。


今の仮机ではない、次に受けるための卓が、まだ誰の手も触れないまま待っていた。

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