第49話 死ぬ配置
夜明け前の荷車列は、音まで軽かった。
軋む車輪の数が足りない。
馬の鼻息も少ない。
縄で縛られた箱は並んでいるが、列の腹にところどころ穴が空いている。矢束箱の札だけが立ち、箱そのものはない。橋材を積むはずの荷車は、底板が見えるほど空いていた。
若い荷駄兵たちが、寒さとは別の理由で肩を縮めている。
その先頭に、トーマがいた。
まだ顔に幼さの残る荷駄兵だ。両手で荷車の横木を握り、誰よりも早く押し出せるように構えている。本人は、その位置の意味を知らない。
リオンの視線は、トーマではなく前輪で止まった。
乾いた泥が、車輪の縁に固まっている。谷道に入れば、すぐ割れる。割れれば止まる。止まれば、後続が詰まる。
詰まった場所が敵から見えるなら、荷車は盾ではない。
的だ。
「任務は与えられた」
石畳を鳴らして、ユリウス・グランフェルトが現れた。
整った騎士服。曇りのない家章留め具。泥ひとつ付いていない手袋。
それは、出発する者の姿ではなかった。
見送る者の姿だ。
「遅れは許されない。第二宿場までは持つ算段だ。戦果を認められたのだろう。なら、廃砦ごときで足を止めるな」
リオンは返事をしなかった。
侮辱には、反応しない。
だが、第二宿場という言葉だけは拾った。
荷が薄いことを知っている者の口から出た、予定通りの地名だった。
「リオン・グランフェルト殿」
別の声が入った。
門の脇に、黒い外套の女が立っていた。長い髪を後ろでまとめ、胸には王都監察院の小さな章がある。手には細い筆と、革表紙の記録板。
リゼットがわずかに視線を動かした。
女は、リオンへ軽く頭を下げる。
「監察院出向、イレーネ・シュタール。廃砦任務の準備状況を見ます」
ユリウスの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
失敗すれば、外にも残る。
そういう意味の同行だった。
イレーネは表情を変えない。
「称賛も弁護もしません。ただし、見たものは見たまま残します」
リオンは、その一言だけ聞いた。
「なら、見ていろ」
短く言って、彼は歩き出した。
荷車列が門を抜ける。
夜明けの空はまだ白く、旧街道の先には霧が残っていた。右手には湿地が広がり、黒い水が草の間で鈍く光っている。左手は崩れた谷だ。かつて橋があった場所には、折れた石柱だけが残っていた。
その奥に、廃砦が見えた。
低い丘の上。
崩れた壁。
傾いた見張り台。
ところどころ抜けた城壁は、遠目にはただの石の骨に見える。
荷駄兵の一人が、小さく息を吐いた。
「……あれを取り返すんですか」
誰も答えなかった。
廃砦は小さい。
だが、そこからは三本の道が落ちている。
第二宿場へ向かう旧街道。
崩れた橋跡。
谷へ下る細い道。
リオンは廃砦そのものではなく、そこから落ちる三本の道を数えた。
リゼットが隣へ来る。
「廃墟を見ているのではないのですね」
「廃墟なら楽だった」
リオンは低く言った。
指が、空中で道をなぞる。
「あの砦は、壁じゃない。喉だ」
「喉?」
「ここを押さえれば、荷は息をするたび見られる」
リゼットの目が細くなる。
彼女もようやく、砦の意味を掴んだ。
廃砦は、ただ荒れた石の塊ではない。
補給線の喉元に立っている。
そこを敵が握れば、荷は通るたびに数えられる。止められる。遅らされる。削られる。
そして、こちらの荷は最初から薄い。
リオンは、後ろの荷車列へ振り返った。
「荷を薄くした者と、ここを見ている者。別々なら、できすぎている」
イレーネの筆が、革板の上を走った。
リオンは気にしなかった。
第二宿場手前の前哨は、荒れていた。
柵は折れている。
見張り台は斜めに傾き、水桶は割れていた。古い焚き火跡には、黒い灰が低く溜まっている。風が吹くたび、前哨の旗竿だけが乾いた音を立てた。
一見すれば、放置された場所だ。
家内側の案内役が、前へ出た。
中年の男で、革鎧だけは新しい。現場に慣れた顔を作っているが、靴の泥は浅い。
「荷は正面に並べろ」
男は前哨の中央を指した。
そこは広かった。
地面も平らで、荷車を入れやすい。若い荷駄兵たちが、少し安堵した顔になる。
「そこが一番広い。荷を置け」
トーマが先頭の荷車を押した。
車輪が、前哨の広場へ入る。
その一歩先で、朝の薄い光がトーマの胸当てをかすめた。
丘上の見張り台。
崩れた壁の隙間。
そこから落ちる線が、荷車の横腹にぴたりと合っている。
リオンだけが、丘上の一点から目を外さなかった。
次の瞬間、車輪が止まった。
見えない何かに当たったように、前輪だけがぴたりと止まる。トーマの体が前へつんのめり、荷台の縄が小さく鳴った。
「え……?」
トーマが振り返る。
リオンの右手は、わずかに下がっていた。
地面と車輪の間。
そこに、細い界線が一本だけ引かれている。
戦場のルールを、一点だけ書き換える。
今は敵を止めるためではない。
味方を死ぬ場所へ入れないための線だった。
案内役が声を荒げた。
「何をしている。そこに置けと言ったはずだ」
リオンは前へ出た。
「そこに置くな」
短い声だった。
だが、荷車列の全員が聞いた。
「死ぬ配置だ」
空気が変わる。
トーマの手から、横木を握る力が抜けた。
案内役が眉を吊り上げる。
「広い場所に荷を置いて何が悪い。見ての通り、ここが一番――」
「見張り台」
リオンが言った。
全員の視線が、丘上の廃砦へ上がる。
傾いた見張り台。
崩れた壁の隙間。
そこから前哨の中央は、真正面だった。
リオンは続ける。
「荷車を三台並べれば、後ろの谷道を塞ぐ。撃たれた時、負傷者を戻せない。逃げる兵も戻れない」
トーマの顔から血の気が引いた。
自分が押していた荷車へ目を落とす。
そのまま三歩進めば、見張り台から丸見えの位置だった。さらに後続二台が入れば、谷道への出口を完全に塞ぐ。
「……あそこに置いてたら、俺たち、最初に撃たれてましたか」
リオンはトーマを向いた。
「撃たれる前に、逃げ道を塞いでいた」
その言葉で、若い荷駄兵たちの目が変わった。
恐怖ではない。
理解だ。
自分たちは、危険な任務に出たのではない。
死ぬように置かれかけていたのだ。
リオンは右手を下ろした。
界線が消え、車輪が小さく沈む。
「荷車は岩陰へずらせ。矢束箱は中央後方。薬箱は最後尾に置くな。負傷者に届かない。橋材のない車は谷側へ出すな。弓兵は崩れた柵ではなく、左の浅い尾根へ」
兵たちは一瞬、案内役を見た。
次に、リオンを見た。
リオンは命令を繰り返さない。
その代わり、自分で先頭の荷車に手をかけた。
トーマが慌てて動く。
「は、はい!」
若い荷駄兵たちが続いた。
荷車が岩陰へ沈む。
谷道が空いた。
薬箱が、最後尾ではなく負傷者の手が届く中央へ出る。
弓兵が低地から尾根へ上がり、崩れた柵の向こうを見下ろした。
さっきまで死体を並べるだけだった広場に、逃げ道が一本通った。
前哨の形が変わった。
リオンが来る前のそこは、荷置き場だった。
今は、生き残るための陣だった。
案内役の顔が赤くなる。
「勝手な配置変更だ。任務前から混乱を――」
「記録します」
イレーネが言った。
筆先が一度だけ止まり、それから淡々と動き出す。
「家内案内役指定位置、廃砦見張り台の射線内。荷車三台を置けば、撤退路を閉塞。リオン・グランフェルト、配置変更を指示」
案内役の顔色が変わった。
怒りではない。
外に残ることを理解した顔だ。
「監察官補殿、それは――」
「見たままです」
イレーネは視線を上げなかった。
「称賛も弁護もしません」
それだけで十分だった。
リゼットは、リオンの指が空中に引いた線を追っていた。
彼は廃砦だけを読んでいたのではない。
荷車だけを読んでいたのでもない。
荷車の後ろで逃げ道を失う兵の背中を、先に数えていた。
「……あなたが先に見ていたのは」
リゼットの声は低い。
「敵ではなく、あの子たちの死に場所だったのですね」
リオンは答えなかった。
それは、褒め言葉ではない。
だが、彼女は初めて、その強さの形を正しく掴んだ。
リオンは前哨の奥へ歩いた。
荒れた柵。
割れた桶。
倒れた旗竿。
放置されたように見えるものの中に、不自然なものが混じっている。
リオンは、傾いた見張り台の支柱へ手を伸ばした。
指先に、ぬるりとしたものが付く。
油だ。
新しい。
「空なら、見張り台に油は差さない」
リゼットが剣の柄に手をかけた。
イレーネの筆が止まる。
リオンは焚き火跡の灰を見下ろした。
昨夜、雨が降った。
だが、灰の中心だけが濡れていない。
誰かが覆った。
誰かが使った。
誰かが、ここを見ていた。
「前哨を先に見る。荷はここから動かすな」
リオンが言うと、トーマがすぐ頷いた。
今度は案内役を見なかった。
「はい」
その返事は、先ほどより少しだけ強かった。
風が丘の上から降りてくる。
廃砦の崩れた壁の上で、何かが光った。
兜だった。
縁の欠けた、古い兜。
その横で、裂けた布が一度だけ揺れる。廃砦の古い紋章を切り裂いたような布だった。
次の瞬間には、もう何もない。
トーマが息を呑む。
リゼットが半歩前へ出る。
イレーネは表情を変えず、筆を握り直した。
リオンだけが、丘上の一点を捉え続けていた。
「廃砦じゃない」
風が、空の荷車を低く鳴らす。
「もう、敵の前哨だ」
送られた先が危険なのではない。
意味があるから、危険にされていた。




