第48話 変わる札
査定台の上に、三枚の札が残った。
一枚は、戦果札。
一枚は、留保から戻った控え。
そして最後の一枚は、まだ誰の手にも渡っていない黒縁の任務札だった。
広間のざわめきは、さっきまでとは違っていた。
リオンの名を削るために集まっていた視線が、今はその名をどう扱うかで止まっている。
もう、消せる名前でも、流せる戦果でもなかった。
査定官の筆が、戦果札の端に短く線を入れる。
「リオン・グレイス。北荷道防衛における戦果、査定済み」
その一言で、ラザールの顎がわずかに固まった。
大声で崩れる男ではない。
だが、指先だけが机の角を叩き損ねた。
一度。
二度目はなかった。
「……ならば、相応の任務を与えるべきでしょうな」
ラザールは穏やかな声で言った。
勝たせたように見せる声だった。
「家としても、戦果ある者を遊ばせておくわけにはいかぬ。ちょうど、空いている札がある」
家内実務者が横から黒縁の札を持ち上げた。
札の表には、濃い墨でこう書かれている。
廃砦奪還任務。
その名が出た瞬間、広間の奥にいた数人の騎士が、顔を見合わせた。
祝いの空気ではなかった。
誰かが喉を鳴らした。
リゼットは動かなかった。
ただ、任務札を見る目だけが細くなる。
「廃砦……」
彼女の声は低かった。
「南西の旧補給線上にある砦ですか」
「そうです、リゼット様」
家内実務者は、待っていたように頷いた。
「放置すれば盗賊や敗残兵の巣になります。奪還できれば家の名にもなりましょう。査定で戦果が認められたリオン殿には、相応しい」
相応しい。
その言葉が、やけに薄かった。
リオンは黒縁の札を見ていた。
札そのものではない。
札の下に重ねられた控えの端。
そこに残った細い折り目を見ていた。
任務札より古い紙だ。
新しい任務の下に、古い補給控えが隠れている。
「その札を、こちらへ」
リオンが言うと、家内実務者の手が止まった。
「受領されるのですか」
「見る」
「見るだけであれば、要点を読み上げましょう」
「紙面で見る」
短い返答だった。
家内実務者の口元に、わずかな不快が浮かぶ。
だが、さっき査定で止められたばかりだ。
リオンの戦果札は、もう机の隅へ流せない。
広間にいる者たちも、それを見ている。
家内実務者は、札を置いた。
黒縁の任務札。
その下から、地図が広げられる。
石の重しが四隅に置かれた。
古い廃砦は、補給路の端に赤い印で囲まれていた。
北から入る道は細い。
東の森は湿地。
南の谷は崩落地。
西には、古い橋の跡。
リオンは何も言わず、地図の上に視線を走らせた。
道。
荷の位置。
補給点。
退路。
赤い印より、空白が多すぎる。
「荷はどこに置いてある」
「荷置き場に。出発前の確認は明朝で十分です」
「今見る」
「今ですか」
家内実務者の声が硬くなる。
ラザールが横から口を挟んだ。
「焦る必要はあるまい。任務札は正式に渡された。準備は担当に任せればよい」
リオンはラザールを見なかった。
「担当に任せた結果、現場が切られるなら、任せない」
広間の空気が一段、冷えた。
自分への侮辱には何も返さなかった男が、現場の話になった瞬間だけ前に出る。
それを、もう何人も知っていた。
リゼットが一歩進んだ。
「私も確認します」
「リゼット様」
家内実務者の声がわずかに上ずる。
「査定は終わりました。ここから先は家内の任務割りです。証人としての御立場は――」
「私は証人として残るのではありません」
リゼットは静かに言った。
「次の任務線に、私の見た範囲が使われるなら、私はその範囲を狭めません」
その言葉で、ラザールの目が細くなった。
甘い言葉ではない。
味方になるという宣言でもない。
だが、逃げ道をひとつ潰す言葉だった。
見たものを、見なかったことにしない。
次も、残る。
リオンは一瞬だけリゼットを見た。
彼女は視線をそらさなかった。
「なら、行く」
それだけ言って、リオンは任務札を持った。
黒縁の札が、彼の手の中で硬く鳴った。
査定広間から荷置き場までは、石廊を抜けてすぐだった。
夕方の光が、開いた扉から斜めに差し込んでいる。
荷置き場には、出発待ちの箱と袋が列を作っていた。
矢束。
乾燥肉。
縄。
油壺。
薬箱。
予備の靴。
それらが、木札ごとに並べられている。
だが、列が軽い。
見ただけで分かるほど、荷の影が薄かった。
リオンは足を止めた。
「コルネル」
「はい」
後ろに控えていたコルネルが、返事と同時に動いた。
彼は説明しなかった。
箱を開けて数を読み上げることもしない。
まず、木札を表に返した。
次に、箱の列を任務札の順に並べ替える。
矢束の札。
薬箱の札。
橋材の札。
替え馬の札。
一つずつ、任務札に書かれた順へ置き直していく。
すると、足りない場所が見えた。
列の中に、ぽっかりと空いた幅が生まれる。
矢束の後ろに、本来あるはずの箱がない。
橋材の札だけがあって、材木がない。
替え馬の札は二枚あるのに、綱は一本しか垂れていない。
薬箱は封が古く、角が濡れていた。
コルネルは最後に、空いた場所へ何も置かず、ただ札だけを立てた。
ないものが、あるものより目立った。
荷置き場にいた若い荷駄兵が、青ざめる。
「これで行く予定だったのか」
リオンが訊いた。
誰にともなく、ではない。
荷の列全体に向けた声だった。
家内実務者が遅れて入ってくる。
「不足分は、道中で合流する荷と合わせる予定です」
「合流地点は」
「第二宿場です」
リオンは地図を開いた。
荷置き場の床に、広げる。
埃が舞った。
「第二宿場は、ここだな」
指が地図を叩く。
補給路の途中。
谷の手前。
古い橋の北。
「はい」
「そこへ行く道の荷順が、北荷道の控えでは留保になっていた」
家内実務者の顔から、色が引いた。
「それは、前任務の処理で――」
「前任務の処理で残った留保が、次任務の補給に使われる」
リオンは顔を上げた。
「なら、前任務の戦果が査定済みになった時点で、その留保も隠せない」
誰かが息を呑んだ。
ラザールは何も言わない。
だが、彼の沈黙が一番目立った。
荷駄兵だけではない。
広間からついてきた査定官まで、ラザールではなく、床に立った不足札を見ていた。
リオンは地図の西を見た。
古い橋の印。
その脇に、薄く削られた線がある。
新しい墨で上からなぞられているが、下の線は消えていない。
本来の補給路は、橋を使う。
だが、橋材がない。
橋が使えなければ、荷は谷を下る。
谷を下れば、車輪は通らない。
荷駄兵が背負うしかない。
若い兵から先に潰れる。
リオンの目が、そこで止まった。
「この任務は、砦に着く前に荷が死ぬ」
声は静かだった。
だが、その場の全員に届いた。
家内実務者が、地図の端に手を伸ばす。
「確認が必要です。一度、控えを――」
紙が動かなかった。
地図の端が、床に縫い止められたように止まっている。
家内実務者の指だけが震えた。
リオンの足元で、空気が一瞬、硬くなる。
戦場のルールを、一点だけ書き換える。
今は刃でも盾でもない。
逃がす紙面だけを、そこに固定した。
「まだ持っていくな」
リオンは言った。
家内実務者の喉が鳴る。
「これは……」
「確認なら、ここでやれ」
リオンは地図の上に任務札を置いた。
黒縁の札が、廃砦の赤い印を半分覆う。
その周りに、コルネルが不足札を並べた。
矢束不足。
橋材不足。
替え馬不足。
薬箱不備。
第二宿場補給、留保。
夕日の光が、荷置き場の床を赤く染める。
任務札を中心に、不足の札が輪のように立った。
まるで、廃砦そのものが欠けた荷に囲まれているようだった。
それが、この任務の本当の姿だった。
報酬ではない。
名誉でもない。
失敗するように削られた戦場だ。
リゼットが、その輪を見下ろす。
「……これを、功績への任務として渡すのですね」
彼女の声には怒りがあった。
だが、乱れてはいない。
ラザールがゆっくりと息を吐いた。
「危険な任務ほど、功ある者が行くものです」
「危険と不足は違います」
リゼットは即座に返した。
「敵が強いのは任務です。味方の荷が削られているのは、仕込みです」
荷置き場の空気が固まった。
家内実務者が目を伏せる。
それが答えだった。
ラザールはまだ崩れない。
だが、彼の足元から、逃げ道が一枚ずつ抜けていく。
リオンは任務札を拾った。
黒縁の札には、査定済みの印が押されている。
その印の横に、彼の名が書かれていた。
さっきまで消されかけていた名が、今度は任務の先頭にある。
リオンは札を見て、口の端をわずかに上げた。
「受ける」
コルネルが目だけを上げた。
リゼットも、リオンを見た。
家内実務者が、ほっとしたように息を吐きかける。
その前に、リオンが続けた。
「ただし、このままでは行かない」
吐きかけた息が止まった。
「不足は不足として残せ。橋材、替え馬、薬箱、第二宿場の留保。全部だ」
「それでは、任務前から家の不備を外へ見せることになります」
「見せずに出せば、現場の死体で見える」
リオンの声が低くなる。
「家の顔を守るために、荷駄兵の背中を橋にするな」
若い荷駄兵が、唇を噛んだ。
その手が、持っていた縄を握り締める。
ラザールの眉が動く。
リオンは彼を見た。
「この任務札は、俺が持つ。だが、不足を俺の失敗に混ぜるな」
広間で残った戦果。
査定で返ってきた名。
それが今、任務札の上で効いている。
ラザールが閉じようとしたものは、閉じ切れなかった。
家内実務者が流そうとした不足は、荷置き場の床に立っている。
リゼットが一歩、札の横に立った。
「不足札には、私の確認印も入れます」
「リゼット様、それは――」
「私が見たものです」
彼女は短く言った。
「次も、外しません」
その確認印は、ただの証言ではない。
リゼットの家名が、リオンの任務札と不足札の横に残るということだった。
一度押せば、彼女もこの任務線から外れられない。
それを知ったうえで、リゼットは印章を取った。
それ以上、誰も止められなかった。
公的には、確認印。
私的には、リオンの勝ちを次へ通す一手。
リオンはその重みを理解していた。
だから、礼は言わない。
ここで軽く言葉にすれば、彼女の立場まで軽くなる。
ただ、任務札を胸の高さに持ち上げた。
「廃砦へ行く」
その声に、荷置き場の若い兵たちが顔を上げた。
「敵がいるなら倒す。橋がないなら作る。荷が削られているなら、削った手を見つける」
黒縁の札が、夕日に照らされる。
リオンの指先で、札の影が地図の谷を横切った。
「勝ちを消させないために残した紙だ。次は、その紙の先にある戦場を取る」
リゼットは静かに頷いた。
コルネルは不足札の向きを直した。
全員に読める向きへ。
ラザールは、その光景を黙って見ていた。
彼の顔には、まだ余裕の形が残っている。
だが、その目の奥だけは違った。
ラザールが押し付けたはずの任務札は、もう一枚ではなかった。
矢束不足。
橋材不足。
替え馬不足。
薬箱不備。
第二宿場補給、留保。
それらが黒縁の札にまとわりついたまま、リオンの手の中に残っている。
外で鐘が鳴った。
夕刻の鐘。
荷置き場の扉の向こうで、馬が一頭、短く嘶く。
続いて、車輪が乾いた音を立てた。
橋材を積むはずだった荷車が一台、空のまま待っていた。
リオンは最後に地図を見下ろした。
廃砦。
崩れた橋。
留保の第二宿場。
足りない荷。
通るはずのない谷道。
全部が一本の線で繋がっている。
そして、その線の先には敵の旗ではなく、味方の空箱があった。
リオンは任務札を握り直す。
「これは奪還戦じゃない」
誰も口を挟まなかった。
「砦に着く前から、負けるように組まれている」
風が扉を押した。
床の上の不足札が、かすかに揺れる。
だが、倒れない。
コルネルが立てた札は、全員に読めるまま残っていた。
リオンは黒縁の任務札を持ち、荷置き場の出口へ向かう。
その背に、リゼットが続いた。
次の戦場は、もう紙の中にはなかった。
欠けた荷と、崩れた橋と、失敗前提の廃砦が、夕闇の向こうで口を開けていた。




