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第50話 半歩ずれた死線

前哨の空気は、動かないまま張り詰めていた。


荷車は岩陰へ寄せられている。


薬箱は中央。


谷道は空いている。


さっきまで死ぬ配置だった広場には、一本だけ逃げ道が通っていた。


それでも、リオンはまだ廃砦を見ていない。


彼が見ていたのは、前哨の地面だった。


折れた柵。


傾いた見張り台。


草に隠れた浅い溝。


白い石。


どれも、荒れた前哨なら珍しくない。


だが、全部が同じ方向を向いていた。


廃砦の崩れ壁へ。


「荷は動かすな」


リオンは短く言った。


トーマがすぐ頷く。


「はい」


その返事に、家内側の案内役が顔をしかめた。


「荷を止めたままでは任務が遅れる。前哨の確認など、見張りに任せればよい」


リオンは答えない。


侮辱ではない。


だが、現場を見ていない声だった。


リオンは前哨の中央へ進んだ。


足元の草が、妙に低い。


踏まれているのではない。


払われている。


しかも、人が歩きやすいようにではなかった。


廃砦の崩れ壁から、そこだけ真っ直ぐ見えるように払われている。


「リオン様」


左尾根の弓兵から合図が上がった。


若い伝令兵が、こちらへ振り向く。


名はカイル。


トーマより少し年下に見える兵だ。革鎧の肩紐がまだ新しく、槍の握り方も硬い。


「左尾根より確認です。崩れ壁の奥が見えません。もう一段、前へ出るかと」


案内役が即座に言った。


「返答しろ。伝令は最短路を走れ。止まるな」


カイルが頷き、斜面道へ足を向けた。


前哨から左尾根へ上がる、短い道だ。


早く着く。


見た目には安全だ。


見張り台の陰にも入る。


だから、若い兵はそこを選ぶ。


リオンの目が細くなった。


違う。


見張り台の陰ではない。


見張り台から見えないだけだ。


崩れ壁の裂け目からは、胸の高さまで丸見えだった。


「真っ直ぐ走るな」


リオンの声が飛んだ。


カイルの足が止まりかける。


「え?」


「左だ。杭の外を回れ」


案内役が怒鳴った。


「惑わせるな! 伝令一人に時間を――」


リオンは右手を下げた。


地面に、細い界線が走る。


カイルの一歩先。


斜面道の入り口だけが、固く締まった。


踏み込めない。


カイルの体が反射で左へ流れる。


「でも、こっちの方が早いです!」


「早い道を敵が待つ」


リオンは言った。


「半歩ずれろ。命は、その幅で残る」


カイルが息を呑む。


その一瞬を、トーマが押した。


「聞け! リオン様の言う場所へ行け!」


カイルは左へ跳んだ。


杭の外。


草の濃い、走りにくい側。


次の瞬間、廃砦の崩れ壁が鳴った。


白い線が、空を裂く。


矢だった。


矢は、カイルが本来走るはずだった斜面道を貫き、道の中央に置かれていた白石へ突き刺さった。


胸の高さで。


カイルの肩紐が、ぷつりと切れた。


だが、体は外れていた。


半歩。


それだけずれていた。


「止まるな」


リオンの声が落ちる。


「走り切れ」


カイルは膝をつきかけたまま、歯を食いしばった。


足が動く。


左尾根へ向かって、草を蹴る。


リオンは廃砦を見た。


崩れ壁の裂け目。


そこに、二射目の影がある。


「裂け目を抑えろ。二射目が来る」


リゼットが一瞬だけ遅れた。


だが、次には剣ではなく声を抜いていた。


「崩れ壁の裂け目! 見張り台ではありません、裂け目を射て!」


左尾根の弓兵が反応する。


弦が鳴った。


牽制の矢が、崩れ壁の細い隙間へ吸い込まれる。


石片が弾けた。


二射目が遅れる。


その間に、カイルは尾根の影へ転がり込んだ。


生きていた。


前哨に、誰の息かわからない音が広がる。


リオンは止まらない。


「荷車の影をもう一つ左へ。薬箱は岩の腹に寄せろ。谷道へ出るな。動いたものを撃つ」


若い兵たちが、今度は迷わなかった。


トーマが荷車を押す。


別の荷駄兵が薬箱を抱え込む。


弓兵は見張り台ではなく、見張り台から見える道を探し始めた。


案内役の声だけが遅れて飛んだ。


「勝手に陣を乱すな! 命令は私が――」


誰も見なかった。


カイルも。


トーマも。


左尾根の弓兵も。


案内役の指だけが、命令する形で宙に残った。


だが、その指の先には誰もいない。


次の判断を待つように、全員がリオンを見ていた。


その沈黙が、案内役の声を前哨の土へ落とした。


カイルが戻ってきたのは、少し後だった。


肩紐は切れている。


血は出ていない。


だが、唇の色がない。


彼は白石に刺さった矢を見た。


矢羽が、まだ震えている。


「……今の、俺の胸の高さでした」


「だから走らせなかった」


リオンは短く返した。


カイルは言葉を失った。


その横で、リゼットが白石と杭の外を見比べていた。


カイルの足跡は、二本あった。


一つは、本来の斜面道へ向かいかけた足跡。


もう一つは、リオンにずらされ、杭の外を回った足跡。


その差は、靴半分ほどしかない。


リゼットは低く言った。


「あなたの半歩は、兵の命を残すのですね」


リオンは崩れ壁から目を外さない。


「残せるなら残す。それだけだ」


「……次は、私も見張り台ではなく、そこから見える道を見ます」


その言葉は甘くない。


だが、リゼットの声には、さっきまでと違う硬さがあった。


警戒ではない。


戦場を預ける者の硬さだった。


イレーネが前へ出る。


彼女は白石に刺さった矢を見た。


次に、カイルの足跡を見る。


革表紙の記録板へ、二本の線を引いた。


一本は、斜面道。


一本は、杭の外。


二本の間は、ほんの半歩。


「伝令カイル、当初進路より左外へ変更。直後、旧進路上に敵矢着弾。進路変更により損耗なし」


筆先が止まる。


「差分、半歩」


案内役が口を開きかけた。


イレーネは表情を変えずに続ける。


「過剰警戒との判断は、記録上は保留します」


それ以上、案内役は何も言えなかった。


リオンは白石から矢を抜いた。


矢羽に、小さな布片が結ばれている。


古い紋章布。


廃砦に残されていたはずの、裂けた旗の一部だ。


野盗の矢ではない。


ここを使う者の矢だ。


リオンは布片を指で挟んだ。


乾いている。


新しく裂かれている。


「偶然じゃない」


リゼットが剣の柄に手を置く。


「こちらを狙っていた、ということですか」


「狙っていたんじゃない」


リオンは廃砦の崩れ壁を見上げた。


「待っていた」


その時、壁の上に影が立った。


欠けた兜。


一瞬だけ見えた顔。


兜の奥の目は、外した矢ではなく、リオンの右手を見ていた。


その背後で、斧槍の石突きが石を叩いた。


一度。


二度。


合図だった。


別の壁影が動く。


さらに奥で、もう一つ。


リゼットの表情が変わる。


左尾根の弓兵が弦を引き直した。


カイルが息を飲む。


リオンは低く言った。


「一人じゃない。こっちの進路を、複数で見ている」


前哨の風が、折れた柵を鳴らした。


リオンは廃砦の裂け目を見据える。


「このまま進めば、次は伝令じゃない」


誰も声を出さなかった。


壁上で、斧槍の石突きがもう一度、石を叩く。


別の影が動く。


リオンは告げた。


「前哨ごと撃たれる」


その瞬間、前哨の兵たちは理解した。


ここは荒れた場所ではない。


自分たちを、殺しやすい形に並べるための場所だった。

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