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第27話 前に残る一印

 宿場町の補給場は、朝から騒がしかった。


 荷馬車の車輪が泥を噛み、縄を締める音が重なる。干し肉の箱、矢束の樽、割れた盾、魔獣の角を縛った革袋。廃砦から戻った荷は、勝利の匂いより先に、汗と泥と古い血の匂いを運んでいた。


 リオンは、荷置き場の端で足を止めた。


 昨日、目に止まったズレ。


 荷札の順と、帳簿の順が合っていない。


 それは一つなら雑な処理で済む。二つなら怠慢で済む。だが三つ重なれば、もう癖だった。


「廃砦任務分、三番荷。破損武具、回収矢束、魔獣素材。こちらへ」


 補給兵の声に合わせ、荷が奥の検分台へ動く。


 だが記録線の前では、すでに別の紙が開かれていた。


 白い紙面の上に、細い筆が走る。


 ――廃砦任務。回収物一式。整理待ち。


 リオンの目が止まった。


 早い。


 まだ三番荷は検分台へ乗っていない。縄も切られていない。中身も見られていない。


 それなのに、紙の上ではもう「整理待ち」に落ちている。


「早いな」


 リオンが言うと、筆を持つ男の手がわずかに止まった。


 家内実務者のマルセルだった。細い鼻、薄い唇、袖口だけ妙に清潔な男だ。現場の泥を嫌う顔をしている。


「何がでしょう、リオン様」


「見ていない荷を、見たように書いている」


「整理区分を先に入れただけです。後で照合します」


「後で消せる形にしているだけだろう」


 周囲の補給兵が、縄を握ったまま黙った。


 マルセルは笑わなかった。笑えば軽く見えると分かっている顔だった。


「失礼ながら、戦場での御功は戦場で評価されます。こちらは後方処理です。荷の順番ひとつで大きく騒がれては、全体が止まります」


「止めるほどの話なら、最初から間違えるな」


 短く返し、リオンは記録線へ近づいた。


 記録線は、荷置き場と記録台の間に張られた低い縄だった。縄のこちら側に来た荷だけが、紙面へ乗る。そういう建前になっている。


 だが今、紙だけが先に進んでいた。


 リオンは、三番荷の札を見た。


 焼け焦げた木札に、廃砦の印。紐の結び目は二重。昨夜、コルネルが気づいたものと同じ結び方だ。


 次に、帳簿を見る。


 そこには「二番荷」として、同じ廃砦印が書かれていた。


 数は合う。


 順が合わない。


「三番荷を、二番にしている」


「荷札の付け替えは現場でよくあります」


「この結びは廃砦を出た時のままだ」


「そこまで断言できますか」


「できる」


 リオンは荷の横へ膝をついた。


 泥に濡れた縄の結び目に、黒い焦げ跡が残っている。廃砦の北門が焼け落ちた時、熱で端が縮れた跡だ。


 あの夜、リオンはその門の前にいた。


 魔獣の突進を一点で止め、兵を逃がした。


 この荷は、あの場から出た。


 だから分かる。


「この縄は、北門で焼けた。現場で付け替えたなら、この焦げは残らない」


 補給兵の一人が、思わず縄を覗き込んだ。


「……確かに、焼けてる」


 マルセルの目が、その兵に向いた。


 兵は慌てて口を閉じる。


 その一瞬で、リオンは理解した。


 敵は強く否定しない。


 整理待ち。後で照合。今は全体を止めるな。そうやって紙を奥へ送る。


「三番荷は三番として扱え」


「できません」


 マルセルは、初めて声を硬くした。


「すでに処理線へ入っています。未処理箱へ回します。確認後、必要なら訂正します」


 彼は紙を閉じた。


 そして記録台の奥にある黒い箱へ手を伸ばす。


 未処理箱。


 そこへ入った紙は、記録線から見えなくなる。


 リオンは動いた。


 黒箱の蓋が開く前に、彼の左手が記録台の端に触れる。


 空気が、薄く鳴った。


 次の瞬間、黒箱だけが動かなくなった。


 マルセルが蓋を引く。


 開かない。


 もう一度、強く引く。


 開かない。


 黒箱は閉じたまま。


 三番荷は縄を切られる前。


 その間で、紙だけが行き先を失っていた。


「何を」


「今、奥へ入れるな」


 リオンは静かに言った。


「まだ荷はここにある。紙だけ先に消える理由がない」


 マルセルの頬が引きつった。


 周囲の視線が、一斉に黒箱へ集まる。


 閉じたままの箱。


 開けられない実務者。


 検分台の前で止まる荷。


 それだけで、何かがおかしいと分かる。


「リオン様」


 横から、澄んだ声がした。


 リゼットだった。


 彼女は供の者を後ろに控えさせ、自分だけ記録線の前に立っていた。薄い外套の裾に泥が跳ねている。それでも視線を落とさない。


「私は、三番荷がまだ検分台へ乗っていないところから見ています」


 マルセルが顔を向けた。


「リゼット様。これは家内の処理で――」


「見た範囲を狭めるつもりはありません」


 彼女は言葉を遮った。


 反応ではない。


 選んで、前へ出た。


「この荷は、帳簿より後に動きました。帳簿が先に進んだのは、私も見ました」


 補給場が静まる。


 リゼットの言葉には、リオンのものとは違う重さがあった。


 彼女は戦場の当事者ではない。


 だからこそ、見たものを見たと言われれば、処理側は簡単に流せない。


 マルセルは一拍、黙った。


「……では、確認者欄にお名前を残されますか」


 柔らかい声だった。


 だが意味は、脅しに近い。


 名前を残せば、後で問われる。家の処理に口を出した者として、線に乗る。


 リゼットはそれを理解した。


 まつ毛がわずかに伏せられる。


 しかし、退かなかった。


「私が見た範囲なら」


 彼女は手袋を外した。


 白い指が、記録台の筆を取る。


 確認者欄の端に、名の頭文字を一つ置いた。


 続けて、小さく添える。


 ――検分前より確認。


「今ここで残せます」


 リオンは彼女を見た。


 礼は言わない。


 ここで礼を言えば、私情になる。


 だから彼はただ、前を向いた。


「確認者が立った。三番荷をここで開けろ」


「勝手な指示は困ります」


 マルセルの声が低くなる。


 その背後で、別の男が記録台へ近づいてきた。


 ラザールだった。


 戦場では兵を後ろへ下げ、責任だけを横へ流す男。今は外套をきちんと留め、監督者の顔をしている。


「騒がしいな」


 ラザールは荷と紙を見比べた。


 そして、わざと小さく息を吐く。


「リオン。ここは戦場ではない。家の名でまとめる荷を、次男の判断で乱すな」


「家の名で、戦果を薄めるのか」


「言葉を選べ」


「なら、やり方を選べ」


 二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。


 ラザールの視線が黒箱へ行く。


 開かない箱。


 マルセルの手。


 確認者欄に置かれたリゼットの頭文字。


 そこで何が起きているか、彼にも分かったはずだった。


 だがラザールは正面からは否定しない。


「未処理なら未処理でよい。いったん下げ、家内でまとめて――」


「まとめる前に、順を戻せ」


 リオンは、荷札を指で弾いた。


 乾いた音がした。


「三番荷が二番荷に変わったまま処理されれば、廃砦任務の戦果は別の列に混ざる」


「大げさだ」


「大げさなら、戻しても困らない」


 ラザールの眉が動いた。


 そこで、記録台の脇から小さな手が伸びた。


 コルネルだった。


 彼は口を挟まなかった。


 ただ、記録台に置かれていた控え紙を一枚取り、裏返した。


 そこには、まだ空欄の多い控えの面があった。


 コルネルは三番荷の木札を見て、紙の上の該当欄へ、細い木片を置いた。


 廃砦任務。


 三番荷。


 未検分。


 戦果留保。


 その四つの欄が、まっすぐ一列に並んだ。


 誰に説明するでもない。


 だが、紙面が表を向いた。


 見える形になった。


 マルセルが低く言う。


「触るな」


 コルネルの肩が震えた。


 だが手は引かない。


「前に置いた方が、あとで数えやすいです」


 それだけ言って、彼は一歩下がった。


 リオンは、その一手を見た。


 後で消されない形へ直す人間。


 コルネルは、まだ小さい。声も強くない。


 だが今、逃げる紙面を表へ返した。


「そのままでいい」


 リオンが言うと、コルネルの目が一瞬だけ上がった。


 リゼットも見ていた。


 彼女は、コルネルが揃えた四つの欄を見て、静かに頷いた。


「この形なら、私も確認できます」


「リゼット様まで、そのような」


 マルセルが言いかける。


 その時、補給兵が三番荷の縄を切った。


 蓋が開く。


 中から、割れた盾と、束ねられた矢が出た。さらに奥から、黒く変色した魔獣の角が三本。廃砦北門で討った個体のものだった。


 周囲がどよめく。


 ただの回収物ではない。


 任務の戦果だ。


 リオンがあの場で止めた突進の証拠だった。


「整理待ち、か」


 リオンはマルセルを見た。


「これを見ずに書いたのか」


 マルセルの唇が薄くなる。


 ラザールは黙っている。


 それが、答えだった。


 リオンは控え紙を取った。


 奪わない。


 破らない。


 ただ、記録線のこちら側に置く。


「ここに一行入れろ」


「何を」


「廃砦任務、三番荷。戦果物あり。照合留保」


「留保は、処理側が判断します」


「だから留保でいい。だが、戦果物ありを抜くな」


 マルセルは動かなかった。


 リオンは続ける。


「整理待ちなら、ただの荷になる。照合留保なら、荷と戦果が同じ行に乗る」


 記録台の上に、風が流れた。


 紙の端がめくれる。


 マルセルの筆先が、紙の上で止まったままだ。


 リオンは一歩だけ近づいた。


「書け」


 短い声だった。


 怒鳴らない。


 だが、補給場の誰もが聞いた。


 マルセルの喉が動く。


 ラザールが口を開きかけた。


 しかしその前に、リゼットが自分の頭文字の横を指した。


「私は、ここにいます」


 逃げ道が一つ、消えた。


 マルセルは、ゆっくりと筆を下ろした。


 紙の上に黒い線が走る。


 ――廃砦任務 三番荷 戦果物あり 照合留保


 一行。


 たった一行だった。


 マルセルは筆を置くと、棚から小さな印を取った。


「留保でよろしいのですね」


「よろしい」


 リオンが答える。


 赤い印泥に、印面が沈む。


 マルセルは一瞬だけためらった。


 その間に、周囲の視線がすべて彼の手へ集まった。


 印が、紙へ落ちた。


 赤い四角が、一行の右に残る。


 照合留保。


 任官でも、褒賞でもない。


 それでも、黒箱に沈むはずだった戦果は、記録線の前に残った。


 リオンは黒箱から手を離した。


 蓋が、今さら軽く開く。


 中は暗い。


 だが、その紙はもう入らない。


 補給兵の一人が、小さく息を吐いた。


「……残った」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、リオンには聞こえた。


 ラザールにも聞こえた。


 マルセルにも聞こえた。


 リゼットは、赤い印を見つめていた。


 その目に、安堵だけではないものが宿っている。リオンが見ていた不自然さを、自分の目でも見た者の顔だった。


「リオン様」


「なんだ」


「これは、まだ一枚だけですね」


「ああ」


 リオンは、控え紙の端を押さえた。


「だが、一枚あれば次を照らせる」


 リゼットは小さく頷いた。


 甘さはなかった。


 ただ、もう見なかったことにはしないという硬さがあった。


 その時、コルネルが控え紙の下に挟まっていた薄い納入票を見つけた。


 彼はそれを引き抜き、黙ってリオンへ差し出す。


 納入票の隅に、薄い青の商会印が押されていた。


 廃砦の荷に、宿場町の商会印。


 日付は、荷が着く前日。


 ラザールの顔から、色が一段消えた。


 マルセルは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。


 赤い留保印の横で、青い商会印が乾いている。


 リオンは紙面から手を離さなかった。


「次は、この印の先を見る」


 補給場の喧騒が、遅れて戻ってくる。


 荷は動き、人は列を作り、帳簿はまた開かれる。


 だが廃砦の戦果は、黒い箱の奥ではなく、記録線の前にある。


 赤い一印を伴って。

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