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第26話 帳簿は、荷台の順を覚えていない

荷置き場には、朝から湿った藁の匂いが残っていた。


昨夜の雨で土は黒く締まり、車輪の跡が幾筋も曲がっている。


荷台は五つ。


手前から順に、矢束の箱、破れた馬具、乾肉の樽、槍束、布で覆われた小箱が積まれていた。


荷の横木に、濡れた札が揺れている。


一番。


二番。


三番。


四番。


五番。


札だけ見れば、整っている。


荷を見れば、そうではない。


リオンは一番手前の荷台の前で足を止めた。


「……順が違う」


声は小さかった。


けれど、隣にいたリゼットは聞き逃さなかった。


「順、ですか」


リオンは答えず、荷台の車輪を見た。


一番札の荷台だけ、泥の乾き方が遅い。


車輪の溝に赤土が噛んでいる。


昨日、北側の補給路から戻った荷台の土だ。


だが、あの荷台は最後尾ではなかった。


戦場から戻ったとき、最初に門をくぐったのは、壊れた馬具と槍束を載せた荷台だった。


負傷兵が二人、肩で荷を押していた。


あの重さを見ていた者は多い。


「リオン様」


記録机の前に立っていた家内実務者が、薄い笑みを浮かべた。


灰色の袖。


汚れていない指。


荷置き場に立っているのに、靴先だけが妙に綺麗だった。


「荷は現在、整理中です。札の順は仮のものですので、後ほど帳簿に合わせます」


「帳簿に合わせる?」


リオンが顔を上げた。


荷ではなく、帳簿に。


実務者の笑みが、ほんの少し固まった。


「ええ。受領順を正しく整えます。現場から来た荷は混ざりやすいので」


リオンは記録机へ歩いた。


机の上には、分厚い帳簿が開かれている。


右側に受領順。


左側に荷の内訳。


その下に、留保印を押すための空白があった。


リオンは一行目を見た。


第一受領。


乾肉八樽。


家倉返戻分。


整理待ち。


二行目。


第二受領。


矢束十二箱。


補給残余。


整理待ち。


三行目。


第三受領。


破損馬具一式。


戦場回収品。


留保。


リオンの手が止まった。


リゼットも横から帳簿を覗き込む。


彼女の視線が、荷台と帳簿の間を一度往復した。


「一番札の荷台は、矢束です」


「ああ」


「でも帳簿の第一受領は、乾肉になっています」


「そうだ」


リゼットは眉を寄せた。


「荷台の札が仮なら、帳簿の受領順も仮なのですか」


実務者は即座に首を振った。


「いえ、帳簿は正式な控えです。ただ、現場の札は混乱しておりまして」


「では、帳簿に合わせるために札を替えるのですね」


リゼットの声は静かだった。


責めてはいない。


ただ、逃げ道の幅を測るような声だった。


実務者は一拍遅れて答える。


「……必要があれば、そうなります」


その一拍を、リオンは見た。


焦った者は、言葉より先に手を動かす。


実務者の指が、机の端に置かれた替え札へ伸びていた。


替え札の束には、小さな管理印が押されている。


ラザールの側で使われる、細い蛇を丸めた印だった。


リオンは荷台へ戻った。


「一番札を外すな」


「ですが、リオン様。仮札ですので」


「外すな」


短い声だった。


荷置き場の空気が止まる。


実務者の後ろで、下働きの少年が札紐を持ったまま固まった。


年は十四か、十五。


誰かに言われて札を替えに来ただけの顔をしている。


リオンは少年に目を向けた。


「お前が替えろと言われたのか」


少年は肩を震わせた。


「い、いえ、その……帳簿と合うようにと」


「誰に」


少年の目が実務者へ泳いだ。


実務者は笑みを深くした。


「私です。混乱を避けるための指示です」


「混乱はもう起きている」


リオンは荷台の前に立つ。


一番札。


矢束十二箱。


箱の底には、泥の線がない。


朝まで屋根の下にあった荷だ。


二番札。


破れた馬具。


車輪の泥は乾き切っていない。


血のついた革紐が一本、荷台の縁から垂れている。


三番札。


乾肉八樽。


樽の側面には家倉の焼印。


だが、樽を縛る縄は辺境砦の結び方だった。


リオンは三つを順に見た。


「矢束は門内倉のものだ。戦場から戻った荷じゃない」


「補給残余です。現場へ出したものが戻っただけかと」


「なら、なぜ一番札にした」


実務者は答えない。


「破損馬具は、北側補給路から先頭で帰った。なぜ第三受領だ」


「破損品は後で照合するため――」


「乾肉は」


実務者の喉が止まった。


リオンは三番荷台の樽を指した。


「家倉の焼印だ。だが縄は辺境砦の結びだ。昨日、俺たちが敵の荷囲いから取り返したものだ」


「……補給残余として扱えます」


「扱える、か」


リオンの目が細くなる。


帳簿だけなら、整理中に見える。


だが、荷の前で読めば違った。


血のついた馬具が後ろへ送られる。


奪還した乾肉が、家倉返戻分に変わる。


門内倉の矢束だけが、前に出る。


順を変えれば、戦果の意味が変わる。


「上手いな」


リオンは低く言った。


実務者の眉がぴくりと跳ねた。


「何のことでしょう」


「戦場の順を消す気か」


「言いがかりです」


「なら、今ここで並べたまま読む」


リオンは荷台の前に立ち、声を上げた。


「一番札。矢束十二箱。門内倉残余。戦場回収ではない」


下働きたちが顔を見合わせた。


「二番札。破損馬具一式。血痕あり。北側補給路から帰着」


実務者が一歩出た。


「リオン様、その確認はまだ――」


「三番札。乾肉八樽。家倉焼印、辺境砦結び。敵荷囲いから奪還」


「おやめください」


初めて、実務者の声から薄笑いが消えた。


その瞬間、リゼットが前に出た。


「続けてください」


実務者が彼女を見る。


「リゼット様、これは家内処理です。外部の方が関わる段階では――」


「私は昨日、荷が門を通るところを見ました」


リゼットは視線を逸らさなかった。


「見た範囲を、狭めるつもりはありません」


荷置き場にいる兵たちの空気が変わった。


誰かが小さく息を吐く。


誰かが、荷台の札を見直す。


帳簿だけでは見えなかったものが、現物の前で形を持ち始めていた。


実務者は口元を引き結んだ。


その手が再び替え札へ伸びる。


リオンは足元の泥を踏んだ。


空気が一瞬、硬くなる。


荷台と地面の間。


札紐と横木の間。


ほんの一点だけ、動きが止まった。


少年が札を外そうとしても、紐はびくともしない。


荷台を押そうとした兵の肩も、空を押したように止まる。


リオンの空間固定。


派手な光はない。


音もない。


ただ、その場だけが、帳簿に合わせて動くことを拒んだ。


「この列は、今のまま見る」


リオンは言った。


「紙に合わせて荷を動かすな。荷に合わせて紙を読め」


決めつける声ではなかった。


現場の順を、地面に打ち込む声だった。


実務者は平静を取り戻そうとしたのか、ゆっくりと息を吸った。


「……そのような乱暴な確認では、正式な処理には使えません」


「なら、正式にする形へ直せばいい」


記録机の端で、誰かが紙束を揃える音がしていた。


リオンはそちらを見なかった。


小さな紙擦れの音が、もう一度した。


コルネルだった。


いつからそこにいたのか。


彼は誰にも説明せず、帳簿の下に敷かれていた薄い控え紙を引き出した。


一枚目の帳簿には、第一受領が乾肉になっている。


だが、その下の控え紙には、消し切れない筆跡が残っていた。


破損馬具一式。


北側補給路。


帰着先頭。


文字は薄い。


正式な行ではない。


まだ、照合も印もない。


だが、そこにあった。


コルネルは何も言わない。


ただ、控え紙を裏返さず、机の中央へ置いた。


隠れる位置ではなく、誰の目にも入る位置へ。


リゼットの目が、その一行に止まる。


実務者の喉が鳴った。


「最初の控えは、残っているな」


リオンは言った。


実務者は答えない。


荷置き場の奥で、黒い封蝋を持った男が足を止めた。


ラザールの使いがよく持つ、細い革紐の封筒だった。


実務者が一瞬だけ、その男の方を見る。


男はこちらを見て、すぐに背を向けた。


見られたくないものを見られた。


その気配だけが、荷の列の奥へ逃げていった。


リオンは控え紙に手を伸ばさなかった。


触れば、また「扱いが乱れた」と言われる。


代わりに、リゼットが机の反対側へ立った。


「この控え紙は、照合前のものですね」


実務者は黙っている。


「なら、照合の対象から外す理由も、まだありません」


「……リゼット様」


「まだ結論は言っていません」


彼女は静かに言った。


「ですが、見なかったことにもできません」


風が吹いた。


荷台の布がめくれ、槍束の穂先が一瞬だけ光った。


血の跡の残る馬具。


家倉の焼印を持つ乾肉。


門内倉の矢束。


ばらばらに置かれた荷が、初めて一つの線に見えた。


リオンは実務者を見た。


「これは整理ミスじゃない」


実務者の顔から、最後の笑みが消えた。


「順を変えれば、戦果の意味が変わる。意味が変われば、留保に落とせる」


誰もすぐには言葉を返さなかった。


リオンは控え紙の一行を見下ろす。


破損馬具一式。


北側補給路。


帰着先頭。


まだ小さい。


まだ弱い。


消そうと思えば消せる一行だ。


だが、いまは机の中央にある。


リオンは言った。


「次は、この一行を消させない」


リゼットが、ほんのわずかに頷いた。


荷台の順は、もう帳簿だけのものではなくなっていた。

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