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第25話 勝利は、荷台の後ろで留められる

 補給集積場は、戦場より騒がしかった。


 槍の音はない。


 魔獣の唸りもない。


 だが、荷車の車輪が石畳を噛む音、馬の鼻息、木箱を落とす鈍い音、呼び出し役の声、札を読み上げる筆記係の声が、夕方の空気を絶えず叩いていた。


「北辺廃砦行き、先発荷。糧食、矢束、修繕具。順に出せ」


「負傷者名簿は左へ。戦果報告は記録机へ回せ」


「未処理の箱を奥へ。受領済みと混ぜるな」


 廃砦任務。


 その名が出た瞬間、周囲の騎士たちの表情が少しだけ硬くなった。


 廃砦は、王国北辺の補給路を押さえる古い砦だ。


 今は旗も兵もない。


 だが、そこへ向かうということは、辺境のさらに奥へ次の戦場を探りに行くということだった。


 リオンは、荷置き場の端で手綱を受け取った若い従卒に短く言った。


「鞍袋は軽くしろ。水袋は右に寄せるな。走った時に肩が落ちる」


「は、はい!」


 従卒は慌てて荷を直した。


 隣にいた年長の騎士が鼻で笑う。


「細かいな、次男殿は」


「走ってから直すよりいい」


 リオンはそれだけ返した。


 侮りには乗らない。


 今見るべきものは、口ではなく、列だった。


 荷車が三列。


 左から、先発荷、後発荷、未処理荷。


 戦場帰りの報告は、記録机を通ってからそれぞれの箱へ落とされる。


 他家の隊は、討伐数を読み上げられ、筆記係が頷き、すぐに受領札を受け取っていた。


「ガルド隊、魔狼十二。護衛成功。受領」


「ベイン隊、斥候二名救出。受領」


 赤い受領印が紙面に落ちる。


 乾く前の朱が、夕日を受けて光った。


 その列に、リオンたちの報告も並んでいた。


 前の任務で救った兵。


 押し返した敵。


 守り切った荷。


 そして、リオンの名。


 消せなかった名だ。


 それが紙面の上にあることだけは、誰の目にも分かった。


「リオン・ヴァルセイル隊。現場報告、三枚。証人名、二名。戦果明細、一枚」


 読み上げた家内実務者は、感情のない声で続けた。


「整理待ち」


 赤い印は落ちなかった。


 紙は、受領箱ではなく、隣の薄暗い木箱へ滑らされた。


 箱の前には、黒い札が掛かっていた。


 ――整理待ち。


 リオンの目が、そこで止まった。


 紙が落ちた音は小さかった。


 だが、場の中でそこだけが妙に重かった。


「整理待ち?」


 隣にいたリゼットが、低く言った。


 彼女は外套の裾を押さえ、荷の列と記録机のあいだに立っていた。


 戦場で見せた緊張とは違う。


 今の彼女の目は、紙面の上を外さなかった。


 家内実務者は、顔を上げずに答える。


「確認事項が残っております。廃砦任務の出立に影響はありません」


「戦果の扱いには影響があるのでは?」


「整理後に反映されます」


 筆先が、別の紙へ移る。


 まるで当然の作業だった。


 当然の顔で、勝ちが後ろへ回された。


 リオンは何も言わなかった。


 代わりに、箱の位置を見た。


 受領箱は机の正面にあった。


 整理待ちは左下。


 留保箱は、荷車の影に半分隠れた奥。


 そこへ落ちれば、列からはもう見えない。


「次。ラザール監督下、第三小隊。損耗軽微。補給優先、受領」


 赤い印が落ちた。


 周囲の騎士が少しざわめいた。


 リオンは振り向かない。


 ラザールは荷置き場の向こう側にいた。


 補給監督の腕章をつけたまま、別の役人と話している。


 こちらを見ていない。


 見ないことで、許している顔だった。


「戻ってから精査すればいい。今は出立を滞らせるな」


 ラザールの声だけが、荷の間を抜けて届いた。


 家内実務者の手が止まらない。


 リオンたちの戦果明細の端に、細い札が差し込まれた。


 白札ではない。


 灰色の札。


 リオンは、その札の角を見た。


 乾いた泥がついている。


 今差した札ではない。


 前から用意されていた札だ。


 リオンの指が、ほんの少しだけ止まった。


「リオン様」


 リゼットが呼んだ。


 問いではなかった。


 彼が何を見たのか、軽く扱わない声だった。


 リオンは短く言う。


「札が早い」


「札?」


「報告を読んでから差した札じゃない。読む前から、行き先が決まっていた」


 リゼットの視線が、灰色の札へ移った。


 家内実務者がその視線に気づき、札を紙の下へ押し込もうとした。


 その時だった。


 後発列の荷台だけ、積み方が妙に高い。


 重い修繕材が上に乗っている。


 先発用の積み方ではない。


「後発荷、動かすぞ!」


 荷車の一台が、合図より先に前へ出た。


 積み上げられた修繕材の箱が揺れる。


 端にいた少年従卒が、逃げ遅れた。


「危ない!」


 誰かが叫ぶより早く、リオンが踏み込んだ。


 剣は抜かない。


 手を上げる。


 ただ一点。


 荷台の後ろ、浮きかけた車輪の下。


 空気が、そこで止まった。


 軋んだ車輪が、石畳に縫い止められる。


 崩れかけた箱も、傾いたまま止まった。


 少年の目の前で、木箱の角が動きを失う。


 集積場の喧噪が、一瞬だけ切れた。


「下がれ」


 リオンが言う。


 少年は尻餅をついたまま、必死に後ろへ這った。


 次の瞬間、リオンが手を下ろす。


 止まっていた荷が、鈍い音を立てて荷台に戻った。


 誰かが息を吐いた。


 リオンは少年を見た。


「怪我は」


「な、ないです」


「なら、次から車輪の内側に入るな」


「はい!」


 少年が何度も頭を下げる。


 その背後で、止まった荷車の札が揺れていた。


 リオンは、その札を見た。


 後発荷。


 だが、荷台に積まれていた箱の側面には、先発一番の焼き印がある。


 順が合わない。


 リオンは、記録机へ目を戻した。


 さっき家内実務者が開いていた帳面。


 その一行目に、今の箱と同じ焼き印が書かれている。


 先発一番。


 なのに荷は、後発列に積まれていた。


 リオンの中で、音が一つ消えた。


 戦場で敵の足が止まる瞬間に似ていた。


 見えなかった線が、ふいに一本だけ浮く。


「リゼット」


「はい」


「あの荷の印を見たか」


「先発一番、です。けれど札は後発でした」


 彼女は迷わず答えた。


 見た範囲を狭めなかった。


 家内実務者の眉が、わずかに動く。


「荷の差し替えは珍しくありません。出立前の調整です」


「なら、帳面も調整するはずだ」


 リオンの声は静かだった。


 その静けさが、周囲の数人を振り向かせた。


 家内実務者は薄く笑う。


「ヴァルセイル家の次男殿。今は辺境任務の準備中です。戦果報告も荷順も、後で整理されます」


「後で、消えるものもある」


 家内実務者の目が、初めて細くなった。


 リオンたちの報告が、さらに奥の箱へ移されかける。


 整理待ちから、留保へ。


 紙面の上には、リオンの名がある。


 名は残っている。


 だが、戦果の行だけが、灰色の札で半分隠れていた。


 戦場で勝ち取ったものが、後方の机で落ちていく。


 剣ではなく、筆で。


 その時、机の端にいた小柄な青年が一歩だけ動いた。


 コルネルだった。


 彼は何も説明しない。


 ただ、奥へ送られかけた紙束の角をそろえ直した。


 その一手で、一番上の紙がずれる。


 灰色の札に隠れていた行が、表に出た。


 ――救援成功。


 ――補給荷防衛。


 ――リオン・ヴァルセイル。


 家内実務者の手が止まった。


 コルネルは目を伏せたまま言う。


「表題が隠れると、箱分けを誤ります」


 それだけだった。


 だが、紙は表を向いたまま残った。


 リオンはコルネルを見た。


 コルネルは視線を合わせない。


 しかし、紙束の端から手を離さなかった。


 リゼットが半歩、机に近づいた。


 奥の箱へ伸びる手と、紙束のあいだに立つ。


「私の証人名も、その紙にあります」


 家内実務者が顔を上げる。


「リゼット様」


「整理するなら、私が見た範囲を狭めないでください」


 甘さはなかった。


 抗議でもない。


 彼女は、ただ自分の立つ位置を紙面の前に置いた。


 周囲の空気が変わる。


 家内実務者は、すぐには紙を奥へ送れなくなった。


 リオンはその変化を見た。


 まだ勝ちではない。


 受領印はない。


 戦果は評価されていない。


 だが、完全には消えていない。


 紙面の上に、行が出ている。


 留保へ落ちる前に、見える場所へ残った。


「……整理待ちとして、仮置きします」


 家内実務者は、声を抑えて言った。


 紙束は奥の箱ではなく、机の横に置かれた。


 黒い札の前。


 見える位置だった。


 小さな失点だ。


 だが、消せると思っていた一枚が、前に残った。


 ラザールが遠くからこちらを見た。


 一瞬だけ。


 すぐに視線を逸らした。


 リオンは追わない。


 彼が見ていたのは、ラザールではない。


 荷の列。


 帳面の行。


 乾いた泥のついた灰色札。


 先発一番の焼き印を持つ、後発の荷台。


 そして、自分たちの戦果だけが、読まれる前から留保へ落とされる手順。


 全部が、同じ方向を向いていた。


 リゼットが小さく息を吸う。


「ただの遅れでは、ありませんね」


「ああ」


 リオンは、荷車の列から目を離さなかった。


「これは整理じゃない」


 夕暮れの集積場で、次の荷車が動き出す。


 その車輪の音の下で、リオンは確信した。


「順が、作られている」

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