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第14話 帰す手

「外へ出る」


 リオンは古地図を丸めなかった。


 片手で押さえたまま、仮設指揮所の入口を示す。


「地図だけでは、誰が詰まるか分からない」


 机の上には、廃砦へ向かう赤い線が残っている。


 だが、リオンはもう紙の上だけを見ていなかった。


 ゲオルクが顎を引く。


「確認する気か」


「見るだけなら、紙で足りる」


 リオンは入口へ向かった。


「だが、死ぬのは紙じゃない」


 外へ出ると、湿った風が頬を打った。


 仮設指揮所の横には荷置き場がある。


 泥の上に荷箱が並び、荷馬が鼻を鳴らしていた。


 若手兵たちは、任務前の支度をしながらちらちらとこちらを見ている。


 トーマもいた。


 彼は昨日リオンに結び目を直された布紐を、今度は慎重に束ねている。


 目が合うと、少しだけ笑った。


「リオン様、何か手伝いますか」


「手伝え」


「はい」


 返事は軽い。


 だが、リオンはその軽さを責めなかった。


 軽く笑っていられるうちに、怖いものを見せておく必要がある。


「木杭を二本。縄も持ってこい。荷台は空でいい。荷馬は使うな。まず人で押せ」


「え、今からですか」


「今やる」


 トーマは慌てて走った。


 ゲオルクが補給紙を抱えたまま外へ出てくる。


 その後ろに書記が続き、少し遅れてラザールも姿を見せた。


 白い手袋は、泥の上に立つには不釣り合いなほど綺麗だった。


「確認任務のために、ずいぶん大がかりですな」


 ラザールが柔らかく言った。


「まるで戦でも始めるようだ」


 リオンは答えなかった。


 代わりに、荷置き場の端を指した。


「ここに杭を打て」


 トーマと若手兵が木杭を立てる。


 リオンは地図を開き、赤線が折れる谷口の角度を目で拾った。


 それから、地面の二本の杭へ視線を移す。


「もう少し狭い」


「これくらいですか」


「違う。荷台の幅に合わせるな。谷の幅に合わせろ」


 トーマが首を傾げる。


「荷台が通れなかったら、任務にならないんじゃ」


「だから見る」


 リオンは短く言った。


 トーマが縄を探す。


 荷駄方の一人が、腰の後ろをまさぐった。


「縄はこれだけか」


「予備は荷留めに回しています」


 リオンは返事をしなかった。


 短い縄が張られた。


 二本の杭の間に、即席の谷口ができる。


 ただの縄だ。


 ただの木杭だ。


 だが、若手兵たちの顔から、少しずつ軽さが消えていく。


 リオンは荷台へ歩いた。


 空とはいえ、幅はある。


 車輪は泥を噛み、少し押しただけで軋んだ。


「トーマ。前に立て」


「はい」


「二人は後ろ。荷を押せ。残りは隊列のつもりで続け」


 兵たちが並ぶ。


 最初はぎこちない。


 荷台を訓練場で押すなど、誰もまともにやったことがない。


 トーマは前へ立ち、笑って肩越しに言った。


「これ、横から押せば抜けられますよね」


 リオンは答えなかった。


「進め」


 荷台が動いた。


 車輪が泥を割る。


 前の兵が歩き、後ろの兵が押す。


 縄の谷口へ入るまでは、何も起きなかった。


 だが、片方の車輪が小石を踏んだ瞬間、荷台が斜めに沈んだ。


「止めろ」


 リオンが言う前に、荷台は止まった。


 前にいたトーマが振り返る。


 後ろの兵は、まだ押そうとしている。


 その後ろでは、何が起きたか分からない兵が詰まり始めていた。


「前、動けます!」


 トーマが言った。


「後ろ、押せます!」


 後ろの兵が叫ぶ。


 声はぶつかる。


 命令は混ざる。


 足元は泥で滑る。


 誰も大きな失敗はしていない。


 だが、それだけで隊列は止まった。


 リオンは何も言わず、見ていた。


 トーマが焦れて、縄の外へ足を出した。


「横から回ります!」


「そこへ出るな」


 声は低かった。


 トーマの足が止まる。


 同時に、彼の足元に落ちていた枯れ枝が、泥の上でぴたりと動かなくなった。


 風が吹いている。


 縄は揺れている。


 だが、その枯れ枝だけが、見えない釘で地面に打たれたように止まっていた。


 界線術。


 大きな光も、派手な音もない。


 ただ、一点だけが動かない。


 トーマは、出しかけた足を戻せなかった。


 戻れば荷台が詰まる。


 出れば撃たれる。


 その場所に、自分が立っていた。


「今の場所が、何ですか」


 リオンは古地図を開いた。


 赤線の谷口に指を置く。


 そこから、南側の斜面へ指を滑らせた。


「ここから見える」


 リゼットが動いた。


 彼女は最後尾の若手兵の横へ立つ。


 腰の盾を抜き、前へ構えた。


 盾は荷台の方へ向く。


 だが、南側の斜面には背が残る。


 リゼットの目が、そこで止まった。


「……外周を見る隊列ではありません」


 声は静かだった。


 だが、荷置き場の空気を変えるには十分だった。


「撃たれる順に並んでいます」


 トーマの顔から、完全に笑みが消えた。


 彼は自分の足元を見た。


 さっき横へ出ようとした場所だ。


 枯れ枝が、まだ動かずにある。


 そこは、荷台を助ける位置ではなかった。


 誰より先に、射線へ出る位置だった。


 ラザールが小さく息を吐いた。


「そこまで想定すれば、どの道も危険になりますな」


 口調は丁寧だった。


 だが、その声は先ほどより硬い。


「確認任務です。敵がいると決まったわけではありません」


「違う」


 リオンはラザールを見なかった。


 地図の赤線と、地面の縄を重ねるように指を動かす。


「どの道も危険なんじゃない」


 彼は荷台を見た。


 泥に沈んだ車輪。


 縄の外へ出かけたトーマ。


 南側斜面に背を向けた最後尾。


「この道だけ、止まった時に荷と兵が同じ場所へ溜まる」


 書記の筆が止まった。


 ゲオルクの目が細くなる。


 リゼットは黙ったまま、盾を下ろした。


 彼女はリオンを庇っているのではない。


 同じものを、自分の身体で確かめたのだ。


 ラザールは笑みを戻そうとした。


 だが、口元は途中で止まった。


 その視線は、ゲオルクが抱えている補給紙へ落ちている。


 リオンはそれを見た。


「ゲオルク」


「何だ」


「補給紙を出せ」


 ゲオルクは一瞬だけ迷い、それから荷箱の上に紙を広げた。


 項目は並んでいる。


 数量も、形式も、いかにも整っている。


 だが、リオンは細目を読み上げなかった。


 紙面の端を見た。


 予備欄。


 そこだけが、妙に白い。


 荷駄方の一人が、荷箱の脇を探った。


 予備の担ぎ紐を探す手が、空を切る。


 別の兵が、荷を分けるための布を探した。


 だが、残っている布は荷留めに使われている。


 一本抜けば、別の箱が動く。


 押し役を担ぎ手に回せば、荷台を押さえる者が消える。


 列を守る者を抜けば、隊列そのものが崩れる。


「分けて担げば……」


 荷駄方の一人が言いかけた。


 だが、その声は途中で止まった。


 彼は荷台を見て、兵の列を見て、自分の手を見た。


 足りないのは、食料の数だけではない。


 荷を逃がす布が足りない。


 押し戻す手が足りない。


 横へ出た兵を引き戻す役が足りない。


 行くための荷はある。


 だが、戻すための余裕がない。


 トーマが小さく言った。


「じゃあ、止まったら……俺たちは、どうやって戻るんですか」


 リオンはすぐには答えなかった。


 補給紙の白い予備欄。


 泥に沈んだ車輪。


 縄の谷口。


 南側斜面。


 トーマの足元。


 順に見た。


 ラザールの口元が動く。


 だが、白い予備欄を見た瞬間、その笑みは止まった。


 何を言っても、横へ出た兵を戻す手がないことだけは消せない。


 リオンは補給紙の端を指で叩いた。


「足りないのは飯じゃない」


 トーマが息を呑む。


 リゼットの視線も、赤線ではなく白い欄へ落ちた。


 リオンは低く言った。


「帰す手だ」

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