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第15話 空白の帰還班

「飯はありますよね」


 トーマが、無理に明るい声を出した。


 仮設指揮所の外には、廃砦周辺確認へ向かう小隊の荷が並べられている。


 食料袋だけが、妙に整っていた。


 数もそろっている。


 口紐もきつく結ばれている。


 兵を安心させるためなら、それで足りるように見えた。


 だが、リオン・グランフェルトは食料袋を見ていなかった。


 彼の目は、その横にある棚で止まっていた。


 担架布を置くはずの棚。


 そこは、空だった。


「飯じゃない」


 リオンは短く言った。


 トーマの笑顔が止まる。


「え?」


「倒れろ」


 荷置き場の空気が、そこで変わった。


 荷馬が鼻を鳴らす。


 荷駄方の男が、縄を束ねる手を止める。


 トーマは、何を言われたのか分からない顔をした。


「倒れる、ですか」


「谷口で荷台が止まった。お前は横へ出た。撃たれた。倒れろ」


 昨日の泥が、まだ車輪に残っている。


 縄で作った谷口。


 沈んだ荷台。


 横へ出ようとしたトーマの足。


 南側斜面から見える位置。


 それを思い出したのだろう。


 トーマの顔から、少しだけ血の気が引いた。


「……ここで、いいですか」


「荷台の横だ」


 トーマは荷台の脇へ移動した。


 昨日、自分が足を出しかけた場所に近い。


 彼はそこで膝をついた。


 泥が膝当てに付く。


「負傷、ということですね」


「声は出せるか」


「出せます」


「なら叫べ」


 トーマは喉を鳴らした。


 一度、周囲の若手兵を見る。


 それから、覚悟を決めたように声を出した。


「負傷! 動けません!」


 荷置き場にいた全員が、その声を聞いた。


 ただの実演ではなくなった。


 荷台の横に、倒れた兵がいる。


 それだけで、昨日の谷口がここに戻ってきた。


 リオンは荷駄方を見た。


「戻せ」


 荷駄方の男が動きかけた。


 だが、すぐに止まる。


 荷台が邪魔だった。


 横へ入れば、体をさらす。


 後ろから引くには、縄がいる。


 担ぐには、担架がいる。


 荷台を動かすには、荷をいったん分ける必要がある。


 だが、目の前にあるのは空の棚と、短く丸められた回収縄だけだった。


 リオンは、その縄を取った。


 片手で伸ばす。


 届かない。


 トーマの膝までは、どうしても届かない。


「……届かないんですか」


 トーマが、自分で気づいた。


 声が震えていた。


 彼は倒れた役をしているだけだ。


 それなのに、立ち上がれない意味が分かってしまった。


 リオンは縄を足元へ落とした。


「お前を取りに行くやつが、次に出る」


 トーマの喉が鳴る。


「その人も、撃たれますか」


「撃たれる場所へ出る」


 リオンは腰を落とし、泥の上に指で短い線を引いた。


 ただの線だ。


 だが、その上の砂粒だけが動かなくなる。


 風が吹いている。


 荷馬が足を踏み替えている。


 それでも、その一点だけは、地面に縫い止められたように止まっていた。


 界線術。


 派手な光も、音もない。


 ただ、戦場のルールが一点だけ変わる。


「ここが谷口だ」


 リオンは線の内側を指した。


「荷台が止まる。前が詰まる。後ろも詰まる。横へ出た兵が倒れる」


 彼は、膝をついたトーマを見た。


「担架がなければ、持ち上げるしかない。縄が届かなければ、誰かが取りに行くしかない」


 リオンは短い回収縄を、トーマの前に投げた。


 縄の先は、泥の上で止まった。


 届かない。


 その絵だけで、若手兵たちの顔から軽さが消えた。


「敵に撃たれる前に」


 リオンは言った。


「味方の荷で、足が止まる」


 トーマは黙った。


 その目が、空の担架棚へ向く。


 今まで棚に何が置かれているかなど、気にしたこともなかったはずだ。


 だが今は違う。


 空であることが、自分の命に触れていた。


「リオン殿」


 ラザール・ヘニングが、穏やかな声で割って入った。


 白い手袋をはめた手には、補給控えがある。


「必要数は満たしております」


 彼は、食料袋の列だけを見て言った。


 リオンは答えなかった。


 代わりに、補給控えへ視線を落とす。


 食料欄には数がある。


 武具欄にも数がある。


 水の欄にも、整った数字が並んでいる。


 だが、端の一欄だけが白かった。


 帰還班。


 その欄だけが、空白だった。


 リオンは顔を上げない。


「なら、ここを埋めろ」


 ラザールの笑みが、わずかに薄くなった。


「後ほど補えばよろしいでしょう」


「違う」


 リオンは補給控えを取り、ゲオルク・ハルヴァルトの前へ押した。


 白い欄に、指を置く。


「今、空いていることを残せ」


 その一言で、荷置き場の空気が変わった。


 後ほど補えば、紙面は整う。


 後ほど数を合わせれば、最初から足りていたように見せられる。


 後ほど札を掛ければ、出立前から準備していたことにもできる。


 だが、今、空白であることを残せば違う。


 出立前の時点で、帰還班は決まっていなかった。


 倒れた兵を戻す棚は空だった。


 回収縄は届かなかった。


 その事実が、紙面に残る。


 ラザールの視線が、白い欄に落ちた。


 口元だけは笑っている。


 だが、目は笑っていなかった。


 ゲオルクは書記を見た。


「書け」


 書記が慌てて筆を取る。


 筆先が紙面に触れた。


 白い欄に、黒い文字が入る。


 帰還班、未定。


 担架棚、空。


 回収縄、現配置では負傷者に届かず。


 それだけだった。


 だが、それで十分だった。


 紙面は、もう綺麗な任務控えではない。


 誰かが後から整える前に、欠けたままの形を晒された。


 膝をついたままのトーマが、その文字を見ていた。


 完全には分かっていない。


 だが、何かが自分たちの側へ傾いたことだけは分かった。


「……立っても、いいですか」


「まだだ」


 リオンは言った。


「お前が立つと、この場が軽くなる」


 トーマは息を呑む。


 それから、泥の上で拳を握った。


「はい」


 返事は、さっきより強かった。


 リゼット・アシュベルが、一歩前へ出た。


 彼女はリオンを見なかった。


 まず、トーマを見る。


 次に、短い回収縄を見る。


 そして、空の担架棚を見る。


 最後に、補給控えの白かった欄を見る。


「負傷者を戻す手がありません」


 リゼットの声は静かだった。


 だが、荷置き場の誰もが聞いた。


「これは確認任務の装備ではなく、戻らない前提の装備です」


 ラザールは笑みを保ったまま、目だけを細めた。


 リゼットはそれ以上、何も言わない。


 リオンを褒めることもしない。


 彼女自身の目で見て、前線実務の言葉で置いた。


 それで、リオンの判断は独断ではなくなった。


 ゲオルクは補給控えを見下ろした。


「このまま出せば、後で揉めるな」


「後では遅い」


 リオンは、任務札を取った。


 廃砦周辺確認。


 短期。


 交戦回避。


 三日以内帰還。


 札の文面は、何も変わっていない。


 だが、その下にある補給控えは変わった。


 帰還班の空白は、空白だった事実として残った。


 リオンは任務札を懐に入れなかった。


 補給控えの上に重ねる。


「出る」


 若手兵たちの肩が動いた。


 トーマも顔を上げる。


 リオンは続けた。


「だが、このままは出さない」


 短い声だった。


 任務拒否ではない。


 逃げでもない。


 兵を死地へ流す形だけを、ここで止めた。


 ラザールは、ゆっくりと息を吐く。


「慎重でいらっしゃる」


「生きて戻れば、笑えばいい」


 リオンは補給控えから指を離さなかった。


「笑う口が残っているならな」


 トーマが、泥の上で小さく息を吸った。


 その顔には、まだ恐怖が残っている。


 だが、さっきとは違う。


 何に怯えればいいのかを知った顔だった。


 そして、自分を帰すつもりで見ている男がいることを知った顔だった。


 その時、荷駄方の男が、足元の木箱をずらした。


 箱の下から、古い荷札が一枚落ちる。


 乾いた音がした。


 リオンの目が、そこへ向いた。


 廃砦行きの札ではない。


 今朝の札でもない。


 古い補給線で使われた、薄汚れた荷札だった。


 端が欠けている。


 押された秤印も、半分だけ削れていた。


 リオンは拾わなかった。


 ただ、見た。


 古い地図の赤い線。


 谷口。


 荷台の横に膝をついたトーマ。


 空の担架棚。


 届かない回収縄。


 帰還班欄の空白。


 欠けた秤印。


 点が、静かにつながる。


 ラザールの白い手袋が、わずかに曲がった。


 リオンは低く言った。


「この削り方、初めてじゃない」


 風が、補給置き場を抜けた。


 空の担架棚が、かすかに鳴る。


 帰還班の欄には、もう文字が残っていた。

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