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第13話 赤い線の先にいる者

「確認任務なら、すぐ戻れますよね」


 外で、トーマが笑っていた。


 まだ若い従士の声は軽い。


 泥のついた荷置き場で、彼は革紐を腕に巻きつけている。


 だが、その紐は長すぎた。


 走れば足に絡む。


 荷馬が暴れれば、引きずられる。


 リオン・グランフェルトは、返事をしなかった。


 ただ、トーマの手元と、指揮所の机に広げられた地図を同時に見た。


 古い地図には、山道と林道、半壊した橋、使われなくなった監視塔が薄く残っている。


 その奥に、廃砦があった。


 そこへ向けて、赤い線だけが新しく引かれている。


 リオンは、その線の終点ではなく、途中で細く折れる谷口を見ていた。


「廃砦周辺の確認任務だ」


 ゲオルク・ハルヴァルトが低く告げた。


 仮設指揮所の中には、湿った木と泥の匂いがこもっている。


 外では荷馬車が軋み、負傷兵の声が時折風に混じった。


 机の周りには、数人の士官と書記がいる。


 少し離れた位置に、ラザールも立っていた。


 白い手袋をはめた手が、任務札の端に置かれている。


 薄い笑みは崩れていない。


 だが、その目は地図ではなく、リオンを見ていた。


 リオンの横には、リゼット・アシュベルが立っていた。


 彼女はまず地図ではなく、机の脇に並べられた兵の札を見た。


 そこには、騎士だけでなく、従士の名もある。


 トーマ・ベルクの札も、その中に混じっていた。


「任務内容は、廃砦の外周確認。残敵の有無、門、井戸、周辺道の状態を確認する。交戦は原則避ける。三日以内に帰還」


 ゲオルクの声だけなら、普通の任務に聞こえた。


 確認。


 外周。


 原則、交戦回避。


 どれも、兵を安心させる言葉だ。


 だが、地図上の赤い線は、安心とは違う形をしていた。


「兵は何人だ」


 リオンが聞いた。


「十六。騎士四、従士八、荷駄四」


「馬は」


「騎馬二。荷馬一」


「荷は」


「軽装だ。速さを優先する」


 リオンは目を細めた。


 速さ。


 その言葉が、谷口の線と重なった。


「三日で往復か」


「地図上では可能です」


 書記が答えた。


 彼は控えの紙面をめくり、指で一行を示す。


「旧道は残っています。橋も、五年前の補修記録では半壊に留まっています」


「五年前」


 リオンは静かに繰り返した。


 書記の指が止まる。


「それ以降、通行不能の報告はありません」


「報告がないことを、通れる証拠にするな」


 指揮所の空気が止まった。


 リオンの声は荒くない。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


「誰かが行って、戻って、書いた紙なら信じる。誰も行っていないから白いままの控えなら、それは穴だ」


 リゼットが地図へ視線を落とした。


 彼女は廃砦の印ではなく、赤線が細く曲がる谷口を見ている。


 そこは、山肌と林が迫る場所だった。


 隊列が長くなれば、前と後ろの声が届きにくい。


 荷馬が止まれば、人も止まる。


 止まった人の後ろに、さらに人が詰まる。


「この赤線を歩くのは紙じゃない」


 リオンは机の脇から札を一枚取った。


 トーマの札ではない。


 だが、角の新しい若い兵の札だった。


 彼はその札を赤い線の上に置いた。


 廃砦ではない。


 谷口の手前に。


「こいつらだ」


 誰も、すぐには口を開けなかった。


 小さな木札が、羊皮紙の上で傾いている。


 ただそれだけで、赤い線の先に兵の顔が浮かんだ。


 泥を踏む若い兵。


 水袋を抱え、荷馬を振り返る兵。


 後ろから急かされ、前の坂道を見上げる兵。


 矢が飛ぶ前から、足場を失っている兵。


「……退路の扱いが軽いですね」


 リゼットが言った。


 静かな声だった。


 だが、地図の上に新しい線を引くような声でもあった。


 ゲオルクが彼女を見る。


「アシュベル殿もそう見るか」


「はい。廃砦に入らない確認任務なら、むしろ帰り道を厚く見るべきです。ここを取られたら、隊は廃砦を見る前に縦に割れます」


 彼女は谷口の少し手前を指した。


 リオンは一度だけ、彼女を見た。


 短い視線だった。


 だが、リゼットは引かなかった。


 恋に浮かされた顔ではない。


 前線を知る騎士の目だった。


「谷口に二人置く」


 リオンが言った。


 書記が慌てて筆を取る。


「現地判断として、ですか」


「違う。出発前の条件に入れろ」


「ですが、任務人数は十六名です。廃砦の外周確認に人数を割くなら――」


「十六人で廃砦へ行くんじゃない」


 リオンは遮った。


「十六人を帰すために動くんだ」


 筆の音が止まる。


 指揮所の端で、ラザールの白手袋が一度だけ動きを止めた。


 任務札には、「短期確認」と書かれている。


 その札の上に、リオンの指が置かれていた。


「外周を見る人数を減らしてでも、帰り道は残す。谷口を未処理のまま先へ進めるな」


「理由は」


 ゲオルクが問う。


 リオンは谷口の印を指した。


「ここで詰まる」


「敵がいると?」


「敵がいなくても詰まる」


 リオンは短く言った。


「橋でも、雨でも、荷馬でも、ここで隊は止まる。前が止まれば後ろも止まる。後ろが止まれば、若い兵から焦る」


 彼の視線が、外へ向いた。


 荷置き場で、トーマがまだ紐を束ねている。


 何も知らない顔で、任務前の軽口を叩いている。


「あいつらは、命令が止まると、自分の足で動こうとする。そこで列が崩れる」


 リオンは札を指先で押した。


 木札が谷口の線に触れる。


「崩れたところを拾われる」


 書記の喉が鳴った。


 リゼットは黙っていた。


 だが、その横顔は固い。


 彼女ももう、赤い線をただの道とは見ていなかった。


「谷口の手前で順を決める」


 リオンは続けた。


「荷馬が止まった時、誰が前を見るか。誰が後ろを押さえるか。誰が荷を捨てる判断をするか。書け」


「そこまで、任務書に?」


「書け」


 短い声だった。


 書記は筆を落としかけ、慌てて持ち直した。


 紙面に、黒い文字が増えていく。


 谷口。


 見張り二名。


 荷馬停止時の順。


 撤退時の先導。


 ただの確認任務だったはずの紙が、少しずつ戦場の形へ変わっていく。


 ラザールの薄い笑みが、わずかに薄くなった。


「リオン殿は、随分と臆病でいらっしゃる」


 彼が初めて口を開いた。


 柔らかい声だった。


 だが、机にいる全員が、その声の棘を聞いた。


「確認任務に、そこまで大げさな備えが必要でしょうか」


 リオンは振り返らなかった。


「必要ないなら、帰ってきた兵に笑われればいい」


 ラザールの眉が少し動く。


「あなたが?」


「俺がだ」


 リオンは赤線から目を離さない。


「生きて帰った兵に笑われるなら、安い」


 リゼットの目が、かすかに揺れた。


 ゲオルクは口元を引き結んだ。


 ラザールは笑みを戻そうとしたが、戻りきらなかった。


 その時、入口からトーマが顔を出した。


「あの、リオン様」


「何だ」


「荷留めの紐、これで足りますか。古い幕布も裂いておきました」


 トーマは腕いっぱいに布紐を抱えていた。


 先ほどの革紐より幅がある。


 粗いが、濡れればよく締まる。


 リオンは近づき、布の端を引いた。


「結び目が甘い」


「あっ、すみません」


「謝るな。ほどける前に直せ」


「はい」


「それと、水袋を一つ増やせ」


 トーマが瞬いた。


「自分が持つんですか?」


「おまえが一番若い。周りはおまえを最後に飲ませようとする」


 リオンは布紐を結び直し、トーマの腕に押し返した。


「最初から持っていろ。遠慮して倒れられると、運ぶ方が面倒だ」


 トーマは一瞬ぽかんとした。


 次に、背筋を伸ばした。


「はい!」


 彼は外へ駆け戻る。


 その足音が遠ざかるまで、リオンは入口を見ていた。


 そして、何事もなかったように机へ戻った。


 リゼットが小さく息を吐く。


「……言い方は、本当に悪いですね」


「倒れられると困るのは事実だ」


「ええ。そこは疑っていません」


 彼女はそう言って、兵の札を見た。


 トーマの札は、まだ机の端にある。


 だが、その札はもう、ただの人数ではなかった。


 帰すべき一人だった。


 ゲオルクが補給の紙を机に置いた。


「現時点で出せる荷はこれだ。食料、矢、包帯、油、馬の飼葉。確認しておけ」


 リオンは紙面を受け取り、上から順に目を通した。


 食料。


 包帯。


 油。


 飼葉。


 そこで、指が止まる。


 ほんの一瞬だった。


 リオンは何も言わず、紙を閉じかけた。


 だが、リゼットは見逃さなかった。


「今、どこで止まりましたか」


「まだ言わない」


「なぜです」


「今言えば、全部が散る」


 リオンは補給紙を机に戻した。


 そして、もう一度地図を見た。


 赤い線は廃砦へ向かっている。


 だが、彼の目はやはり終点ではなく、途中にあった。


 谷口。


 その少し手前。


 汚れに見えるほど小さな井戸の印。


 リオンはそこに指を置かなかった。


 まだ触れない。


 触れれば、次の問いが始まるからだ。


「見落としなら、どこかが雑になる」


 リオンが呟いた。


 誰に向けた言葉でもない。


 だが、指揮所の中の全員が聞いていた。


「だが、この任務書は妙に整いすぎている」


 ラザールの白手袋が、机の端を押さえた。


「どういう意味ですかな」


「意味を決めるのは、まだ早い」


 リオンはようやく顔を上げた。


 その目は、ラザールではなく、ゲオルクに向けられていた。


「だが、少なくともこの任務は、廃砦だけを見ればいい任務じゃない」


 ゲオルクが頷く。


「なら、どこを見る」


 リオンは赤い線の途中、谷口の手前で止まる場所を見た。


 兵の札が置かれている。


 若い兵が立つ場所だ。


 そこから先へ進めば、廃砦が近づく。


 そこから戻ろうとすれば、隊列が細くなる。


 赤い線は、行き先を示しているようでいて、帰り道を削っていた。


「廃砦へ行く前に」


 リオンは低く言った。


「隊を戻れなくする一点がある」

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