信仰という麻酔
神様も、陰謀論も、パラレルワールドも。
それらは「あるかもしれないし、ないかもしれない」
けれど、どちらであっても——今日の現実は変わらない。
わからないものは、考えてもわからない。
信じるとは、理解ではなく、鎮静です。
不確かな不安に意味を塗って、眠らせる行為。
「きっとそうだ」「きっと大丈夫」——その言葉が必要なうちは、まだ不安の中を生きています。
本当に信じているなら、不安はもう存在しない。
だから多くの「信仰」は、信じているのではなく、そうあってほしいと願っているだけです。
人は、真実を知りたいのではありません。
安心して眠りたいのです。
そういう構造だ、という話です。
「信じる」という行為には、疑いが内蔵されています。
疑いがなければ、信じる必要がない。
信じようとする力が強いほど、その裏に抑えている疑いがある。
疑いが完全に消えれば、「信じる」という言葉も一緒に消えます。
だから問題は、何を信じるかではありません。
なぜ信じなければならないのか、です。
その問いを持てるなら、信じることも道具になります。
持てないなら、信じることに使われています。
意味を塗る前の現実は、思っているより静かです。
怖くもなく、救いもなく、ただそこにある。
その静けさに、耐えられるかどうか。
信仰の深さとは、その耐性のことかもしれません。




