第40話「帝国のOSを書き換える」
翌日の執務室は、血の匂いの代わりにインクと蝋封の匂いで満ちていた。
帝都中央行政府、第三棟。昨日まで封鎖されていた部屋の扉が開かれ、机の上には処理待ちの書類が三列に積まれている。ヴィオレッタは椅子の背に体重を預けることもなく、姿勢を崩さないまま羊皮紙に目を走らせていた。
額の左側には、薄い布が一枚貼られている。昨日の裂傷の処置痕。それ以外、彼女の外見に「前日に処刑台の上にいた人間」の痕跡はなかった。
濃紺のドレスは新しいものに替わっている。デザインはほぼ同じ。過度な装飾のない、軍服に近いタイトなシルエット。右手の人差し指に銀のシグネットが嵌まっているのも、いつもと変わらない。
変わったのは、部屋の外だった。
「——エーデルシュタイン卿、お時間を」
扉の向こうから、三度目の声がかかった。
ヴィオレッタは羊皮紙から目を上げなかった。ペン先が止まらないまま、数字の列を追っている。
「お通しして」
秘書官に向けた声は平坦だった。
扉が開く。入ってきたのは、灰色の長衣に家紋章を縫い取った中年の貴族だった。その後ろにもう一人。いずれも顔には脂汗が浮いている。
「エーデルシュタイン卿。昨日の件につきまして、我々として——」
「あら」
ヴィオレッタのペンが止まった。
アメジストの瞳が、書類越しに二人を見た。人間を見ているのではなかった。帳簿の数字を確認するのと同じ温度の視線だった。
「あなたたち、確か——東部三州の復旧予算委員会の方よね」
先頭の貴族が、一瞬だけ口を閉じた。
「さ、左様でございます。このたびの不当な——」
「不当?」
ヴィオレッタはペンを置いた。指先がインクで微かに汚れている。
「三年前の第四四半期。東部三州向けの復旧予算が執行されなかった理由を、あなたたちは『天候不順による工期延長』と報告したわよね」
沈黙。
「実際には、予算の六割が皇太子派の裏口座へ迂回していた。その送金記録は昨日、全国に中継されたわ。一巡目のループで、確か三十七分あたりのブロックに含まれていたかしら」
先頭の貴族の顔から血の気が引いた。後ろの一人は、もう目を合わせていなかった。
「で、今日は何を謝りに来たの? 予算を盗んだことを? それとも、盗んだことがバレたことを?」
答えはなかった。
ヴィオレッタはペンを取り上げ、再び書類に目を落とした。
「数字にならない無駄話は結構。出ていきなさい」
二人は何も言えなかった。脂汗だけを残して、扉の向こうへ消えた。
秘書官が扉を閉める音。
ヴィオレッタはペンを走らせながら、視線を一瞬だけ窓に向けた。
窓の外、中央広場の方角。あの処刑台がまだ見えるかどうかは、この角度からでは分からない。だが中継スクリーンの青白い光が、昼間の空にもわずかに滲んでいた。
まだ再生が続いている。
彼女はそれ以上見なかった。ペン先を次の数字に移した。
その後も三組が来た。
謝罪の言葉はそれぞれ違ったが、脂汗の量はほぼ同じだった。ヴィオレッタは全員に同じ対応をした。名前ではなく、口座番号と送金日時で呼んだ。
四組目が退出した後、秘書官が控えめに声をかけた。
「卿。次の方が——」
「今日はもう結構よ。あとは書面で送らせなさい。対面で謝られても帳簿の数字は変わらないわ」
秘書官が一礼して下がる。
ヴィオレッタは積み上がった書類の山を見渡し、一つだけ、別の束を引き抜いた。
復権の辞令書。帝国通信・決済基盤管理局、最高責任者。
署名欄には、すでに彼女自身のインクが乾いていた。今朝、最初に処理した書類だった。感慨はない。奪われたものが元の場所に戻っただけだ。
彼女はその辞令書を書類の山の一番下に差し込み、立ち上がった。
*
司令室は、執務室から廊下を二つ挟んだ先にあった。
重い扉を開けた瞬間、魔導端末の低い唸りが耳に届いた。壁面に据えられた四基の表示盤が、帝国全土のトラフィック状況を色分けで映し出している。緑が正常、黄色が負荷超過、赤が断絶。昨日の騒乱の爪痕で、黄色と赤がまだらに散っていた。
部屋の中央、端末卓の前に、包帯の塊が座っていた。
ミレイユ・フォスキーアだった。
右腕は肩から肘にかけて固定具で吊られ、胴体に密着するように布で巻かれている。左手は指先まで白い包帯に覆われ、かろうじて親指と人差し指だけが露出していた。その二本の指で、端末の表示板を切り替えている。
顔の左半分にも包帯が巻かれていた。右目だけが露出している。腫れは昨日より僅かに引いていたが、頬から顎にかけての裂傷の処置痕が包帯の縁からのぞいていた。
亜麻色の髪は洗われていたが、まだ束になる癖が残っている。血は落ちても、数日間の損耗が髪の質感そのものを変えていた。
ヴィオレッタが扉を閉めた音に、ミレイユの右目がこちらを向いた。
「——お待ちして、おりました」
声はまだ掠れていた。だが昨日よりも芯があった。
「座っていなさい」
ヴィオレッタは端末卓の向かい側に歩き、自分の席についた。立ち上がりかけたミレイユを、手のひら一つで制する。
「あなたの右腕が使い物にならないのは見れば分かるわ。無駄な動きに消費するエネルギーがあるなら、それを画面に向けなさい」
ミレイユの露出した右目が、一瞬だけ細くなった。叱られて嬉しい犬のような反応だった。
「はい」
ヴィオレッタは端末卓の表示を自分の手元に引き寄せた。シグネットの銀が端末の認証面に触れると、画面の階層が一段深くなる。通常の運用モニタではなく、設計者権限でしかアクセスできない最深層——最終認証ログの一覧が展開された。
「処刑台での13秒間に投入された全認証プロセスのログ。ここまでは昨夜のうちに抽出が終わっているわね?」
「はい。全3,847件の認証イベントを時系列で整列済みです。異常フラグが立っているのは——」
ミレイユの左手の二本指が、表示板を二回叩いた。
「——14件です」
「14件のうち、12件は暫定直列同期に起因する回線の輻輳ノイズ。想定内よ」
ヴィオレッタの指がログの行を追った。アメジストの瞳が、数字の羅列を読む速度で左から右へ流れていく。
「問題は、残り2件」
指が止まった。
画面上の特定のログエントリに、ヴィオレッタの視線が固定された。
「第三鍵の認証シーケンス。ミレイユ、あなたが最後の1バイトを送信した瞬間のログよ」
「はい。タイムスタンプは14時23分07秒——処刑の刃が振り下ろされる0.3秒前です」
「認証自体は成功している。三鍵は成立し、私はロックを起動できた。ここまでは問題ない」
ヴィオレッタの声のトーンが変わった。
変わった、というより——温度が一段下がった。
「問題は、その0.8秒後に記録されている、もう1件のログよ」
ミレイユの右目が画面に向いた。
ヴィオレッタが指し示したログエントリ。タイムスタンプは14時23分07秒800ミリ秒。認証種別の欄には、通常のプロトコルでは見たことのないコードが記録されていた。
「……ヴィオレッタ様。これは——」
「第三鍵の認証が完了した直後、0.8秒の間に、鍵の認証残滓に対して外部からリードアクセスが走っている」
ヴィオレッタの声は静かだった。
静かすぎた。
「鍵そのものは三鍵成立と同時に処刑台の回路内で焼失する。それは設計通り。だけど認証が通った瞬間——鍵が『本物だ』と証明された、まさにその一瞬だけ、認証残滓がネットワーク上に露出する」
ミレイユの包帯に覆われた左手が、僅かに震えた。
「その0.8秒間に、認証残滓の複製ハッシュが——抜かれている。それも、帝国内のどの端末からでもない」
ヴィオレッタは画面を一段スクロールした。
リードアクセスの送信元アドレス。帝国の魔導通信網に割り当てられたアドレス帯域のどこにも該当しない、完全な外部アドレスだった。
「経路を逆探知したわ。中継ノードを六つ経由して、最終的な受信先が——ここ」
ヴィオレッタの指が、画面の一点を叩いた。
沈黙が落ちた。
端末の唸りだけが、低く続いている。壁面の表示盤では黄色い点が一つ、緑に変わった。どこかの回線が復旧したのだろう。
「……巨大金融聖堂」
ミレイユが、掠れた声でその名を読んだ。
「帝国の外にある、大陸規模の決済清算機構。私たちの祝福貨システムとは独立した、もう一つの金融基盤を持つ——」
「知っているわ」
ヴィオレッタの声が、ミレイユの説明を断ち切った。
「知っている、というより——ずっと、嫌な予感はあった」
彼女はログから目を離さなかった。
「レオンハルトの不正送金。あれの迂回経路が、どうにも不自然だったのよ。あの男の頭であんな多層構造の洗浄ルートを設計できるわけがない。誰かが——外側から、テンプレートを渡していた」
シグネットの銀が、端末の光を受けて鈍く光った。
「あの男は、自分が帝国のシステムを支配していると思い込んでいた。でも実際には、外部勢力に帝国のシステムを明け渡すための——ただの窓口に過ぎなかった」
ヴィオレッタの唇が、薄く弧を描いた。笑みではなかった。刃物の切っ先に似た形だった。
「スクリプト・キディよ」
「……スクリプト——」
「ハッカーの真似事をした子供、という意味。自分では何も設計できないくせに、誰かが書いたコードをコピーして実行して、それで自分が天才だと思い込む。レオンハルトがやっていたのは、まさにそれ」
ミレイユの右目が、ヴィオレッタの横顔を見ていた。
「そして——」
ヴィオレッタの指が、ログの別の行を指した。
「特級通達。私が仕掛けた予備監査を握り潰したあの介入。あれの発令タイミングも、今になって見返すと不自然よ。あまりにも速い。まるで、私の動きが事前に読まれていたかのように」
声のトーンは変わらない。だが、端末を見つめるアメジストの瞳の奥に、昨日の処刑台の上にはなかった色があった。
「上が沈黙していた理由。レオンハルトの暴走を——あそこまで放置していた理由。単なる無関心じゃない」
ヴィオレッタは椅子の背にわずかに体重を預けた。この部屋に入ってから、初めての姿勢の変化だった。
「外を、恐れていたのよ。帝国の外にいる何かを。だからレオンハルトの不正を——外部との接続経路を——迂闘に潰せなかった。潰した瞬間に、その『何か』が表に出てくることを恐れて」
推測だった。ログから読み取れる事実と、状況証拠の組み合わせ。だがヴィオレッタの声に、迷いはなかった。
ミレイユが口を開いた。
「ヴィオレッタ様。それはつまり——私たちが取り戻したこのシステムも——」
「ええ」
ヴィオレッタは端末の画面を閉じた。
表示盤の光が消え、司令室がわずかに暗くなった。壁面のトラフィックモニタだけが、黄色と赤のまだら模様を映し続けている。
「帝国のインフラは取り戻した。でもそれは、家の鍵を取り返しただけ。家の土台そのものが——もっと深いところから、喰われ始めている」
ヴィオレッタは立ち上がった。
窓に歩み寄った。
司令室の窓は小さく、外の景色はほとんど見えない。だがその狭い視界の端に、中継スクリーンの青白い残光が、まだ滲んでいた。
レオンハルトの醜態を映し続けるあの光。帝国中の端末が受信し続けているあの映像。
あれは——終わりではなかった。
始まりだった。
「ミレイユ」
「はい」
「明日から、凍結口座群の全件精査に入るわ。レオンハルト派の裏送金ログ、認証残滓、決済経路の断片——全部洗い出す。外部との接続点が、どこに何本刺さっていたのかを」
「……了解、しました」
ミレイユの掠れた声に、震えはなかった。
ヴィオレッタは窓から振り返った。
アメジストの瞳が、端末の残光と壁面モニタの色を受けて、冷たく輝いていた。
だがその唇は——笑っていた。
凶悪に。
不敵に。
自分の仕事を、本来あるべき形で完遂するために戦う人間の顔だった。
「なら次は——帝国のOSごと、取り返してやるわ」
包帯だらけのミレイユが、固定具に吊られた右腕を庇いながら、それでも背筋を伸ばした。
今度は——伸ばしきれた。
「お供、します」
その声だけが、薄暗い司令室の中で、はっきりと響いた。
壁面のトラフィックモニタで、また一つ、赤い点が黄色に変わった。
どこかの回線が、少しだけ息を吹き返していた。
*
第1章「処刑台の女」——完。




