第39話「同じ台の上で」
環状の魔導具が、低い音を立てた。
ヴィオレッタの手の中で——正確には、レオンハルトの首筋に押し当てられた銀色の環が、内側から淡い魔力光を灯し、ゆっくりと収縮を始めた。
嵌合。
金属同士が噛み合うような硬質な振動が、ヴィオレッタの指先を伝って消えた。環は首の太さに合わせて自動調整し、皮膚に密着したまま固定された。外せない。本人にも、他人にも。それが仕様だった。
「ひ——」
レオンハルトの喉が、意味をなさない音を漏らした。金属の冷たさではない。環が首に嵌まった瞬間、その表面に走った微細な魔導刻印の光が、彼の涙に濡れた頬を青白く照らしたのだ。
ヴィオレッタは手を離し、立ち上がった。
しゃがんでいた膝が軋む。額の左側から、乾きかけた血がまた一筋、こめかみを伝った。拭わなかった。
「——な、なんだこれは……! 外せ……! 外せっ……!」
天板に縫い止められたまま、レオンハルトが首を振った。環はびくともしない。重力拘束陣が身体を押さえつけているから、その抵抗は濡れた石畳の上で魚が跳ねるのに似ていた。
ヴィオレッタは答えなかった。
二歩。コンソールの前に戻る。
天板に埋め込まれた操作面に視線を落とした。認証スロットにはシグネットが挿し込まれたまま光っている。画面には、先ほどの特級通達の受信ログと、皇室口座分離の完了通知がまだ残っていた。
その下に、新しいコマンドラインが待機している。
**〈最終保全処分:公開監査拘束——適用対象を指定してください〉**
ヴィオレッタの指が、画面に触れた。
対象者の欄に、たった今皇籍を剥奪された男の識別番号が表示されている。もう「殿下」の敬称はない。管理番号だけが残った、ただの監査対象。
確定。
処刑台の中継スクリーンが、一瞬だけ明滅した。
全国に繋がっている画面の隅に、新しい表示が追加される。
**〈公開監査拘束:執行開始〉**
**〈対象者:レオンハルト・ヴァルムブルク(元・帝国第一皇太子)〉**
**〈記録保全:無期限〉**
群衆のざわめきが、一段低くなった。
「……なんだ、あの表示」
「公開……監査、拘束……?」
「処刑じゃ、ないのか……?」
広場のあちこちで、困惑した声が漏れていた。
ヴィオレッタはコンソールから顔を上げた。増幅術式が、彼女の声を拾える距離にある。
拾わせた。
「聞こえているわね」
静かな声だった。だが全国の回線が、その一言を隅々まで届けた。
「処刑は、しない」
短い沈黙。
広場の空気が、固まった。
レオンハルトの首が、不自然な角度でヴィオレッタを見上げた。涙と鼻水に汚れた顔が、理解を拒んでいた。
「……は?」
「聞こえなかった?」
ヴィオレッタは振り返らなかった。コンソールの画面を見たまま、事務的に続けた。
「この処刑台は、今日をもって機能を変更する。公開処刑場から——公開監査展示場へ」
言葉の意味が浸透するまでの、数秒。
レオンハルトの顔から、最後の色が抜け落ちた。
「あなたの首に嵌めたのは、永久記録用の拘束具よ」
ヴィオレッタは、ようやく振り返った。
アメジストの瞳が、天板に貼りつけられた男を見下ろす。その視線には何の熱もなかった。壊れた機械の型番を確認するときの目。
「逃亡はできない。自害もできない。その環が首にある限り、あなたの状態は二十四時間、公的アーカイブに記録・保存され続ける」
一語ずつ、句読点を刻むように。
「そして——」
彼女の視線が、広場の巨大中継スクリーンへ向いた。
画面が切り替わった。
レオンハルトの顔が、映った。
だが、今の彼ではない。
数刻前の映像だった。白と金の皇室礼装に身を包み、処刑台の上で民衆に向かって演説していた頃の。自信に満ちた笑顔で、「正義」を語っていた頃の。
その映像の横に、改竄不能アーカイブから引き出された送金ログが並んでいる。
映像が進む。
演説が嘘に変わる瞬間。ファクトチェックの【FALSE】が画面を埋め尽くしていく過程。近衛騎士に殺害を命じた瞬間。監査シールドに弾き返された瞬間。
そして——泣きながら「殺してくれ」と懇願する、つい先ほどの醜態。
全てが、順番に、淡々と再生されていた。
「この映像は」
ヴィオレッタの声が、再生される映像に重なった。
「あなたの目の前で、無期限にループ再生される。止める手段はない。改竄も、削除も、その拘束具を外すことも、誰にもできない」
レオンハルトの口が開いた。声は出なかった。
「帝国中のどの端末からでも、いつでもこのアーカイブにアクセスできるわ。今日ここにいない人も、明日生まれる子供も、百年後の歴史家も。全員が見られる」
ヴィオレッタは、一歩だけレオンハルトに近づいた。
見下ろす。
「あなたが一番欲しがっていたものを、あげる」
その声は冷たかった。だが、どこか——歪んだ親切さを纏っていた。贈り物を差し出す者の口調。
「民衆の注目よ」
間。
「一生、浴び続けなさい」
*
数秒の、完全な静寂があった。
広場を埋め尽くす群衆も、全国の中継回線の向こうにいる無数の視聴者も、誰一人として声を発さなかった。
最初に沈黙を破ったのは、レオンハルトだった。
「いやだ」
低く、掠れた声だった。
「いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ——」
否認が、そのまま絶叫に変わった。
「殺せ! 殺してくれ! 頼む——死刑にしてくれ!!」
天板を叩く音。だが重力拘束陣は指一本の自由も許さない。爪が石に擦れる音だけが、増幅術式に乗って全国へ流れた。
中継スクリーンの隅で、ファクトチェック機構が反応した。
——反応する必要のない叫びにまで。
**〈「殺してくれ」——該当処分権限:なし。対象者は公開監査拘束下にあり、身体刑の適用対象外です〉**
事務的な表示だった。システムは感情を持たない。ただ仕様通りに動いている。それが、何よりも残酷だった。
広場の群衆の中から、笑い声が上がった。
一つ。二つ。それが連鎖して、やがて波になった。
「ざまぁみろ!」
「一生晒されてろ!」
「自分がやったことだろうが!」
嘲罵が、処刑台へ向かって叩きつけられた。つい数刻前まで、この同じ声がヴィオレッタに向かって投石していた。同じ口が、同じ熱量で、今度は倒れた男を踏みつけている。
ヴィオレッタは、その歓声を——聞いていた。
聞いていて、何の表情も浮かべなかった。
彼女の視線が、群衆の上を滑った。拳を振り上げる者。唾を吐く者。涙を流しながら罵る者。数刻前、赤い祝福貨を投げて処刑を祝おうとしていた、同じ顔ぶれ。
ヴィオレッタは、彼らを一瞥した。
それだけだった。
軽蔑でもなく、感謝でもなく、警告でもなく——ただ、データを確認するときの目。この群衆がどう動くか、どの閾値で反転するか、どれだけの送金量を生むか。それだけを計測する目。
彼女は、スクリーンから視線を外した。
コンソールに戻り、シグネットを認証スロットから抜いた。銀色の指輪を右手の人差し指に嵌め直す。指先の擦過傷に金属が触れて、小さな痛みが走った。
処刑台の階段に、足を向けた。
背後で、レオンハルトの叫びが続いていた。もう言葉になっていなかった。喉が潰れかけた獣の声だった。
ヴィオレッタは振り返らなかった。
一段。
二段。
処刑台の階段は、登るときよりも短く感じた。
三段目で、足が止まった。
階段の下に、人影が二つあった。
一人は、壁のように大きな老人。もう一人は、その肩にしがみつくようにして辛うじて立っている、小柄な——
ヴィオレッタの足が、半歩だけ止まった。
亜麻色の髪は血と埃で束になり、本来の色が分からないほどだった。右腕は力なく垂れ下がり、左手は老人の襟を掴んでいたが、その指には爪が何枚か欠けていた。頬と顎に走る裂傷。全身の打撲痕。
それでも——立っていた。
ミレイユ・フォスキーアは、腫れ上がった目で、階段の上のヴィオレッタを見上げていた。
その唇が、震えながら動いた。
「——ヴィオレッタ、様」
声は掠れていた。喉を酷使した人間の声だった。
「送信、完了……しました……。報告が、遅れ——」
言葉が途切れた。残った左手が、老技師の肩を強く掴んだ。崩れかけた身体を、最後の意地で支えていた。
ヴィオレッタは、階段の途中で立ち止まったまま、その姿を見下ろしていた。
沈黙が、二秒。
広場の喧騒が遠かった。レオンハルトの絶叫も、群衆の嘲笑も、増幅術式の残響も——この数歩の距離の中では、何も聞こえないかのようだった。
ヴィオレッタの目が、ミレイユの負傷を一つずつ辿った。右腕。左手。頬。顎。全身。
数えるように。査定するように。
それから——ヴィオレッタは、残りの階段を降りた。
ミレイユの前に立った。
近くで見ると、もっと酷かった。右腕はただ垂れているのではなく、肩から先の角度が微妙におかしい。左手の爪が欠けた指先には、乾いた血が黒く固まっていた。あの地下で、回線を繋ぐために——何をしたのか。
ヴィオレッタは、それ以上は見なかった。
「立てるわね、ミレイユ」
冷たい声だった。
いつもの声だった。
「壊れた玩具の復旧作業が待っているわよ」
ミレイユの腫れた目が、一瞬だけ大きく見開かれた。
それから——その目尻から、涙が一筋、裂傷の上を伝って落ちた。泣いているのか、傷が沁みたのか、あるいは両方か。ヴィオレッタの視点からは判別できなかった。
だがミレイユは、老技師の肩を借りたまま、背筋を伸ばそうとした。
伸ばしきれなかった。だが、顎だけは上がった。
「——はい」
掠れた声が、それでも明瞭に答えた。
「……復旧、内容の確認を……お願い、します」
ヴィオレッタは、一拍だけ間を置いた。
それから視線を、ミレイユの隣に立つ老技師へ移した。
ミレイユの通信に何度か名前が出ていた男。バルトロメウス。先代の時代から現場を歩いてきた保守技師。顔を見るのは初めてだったが、ミレイユを支えている腕の太さと、充血した目の据わり方で十分だった。
バルトロメウスは何も言わなかった。ただ充血した目でヴィオレッタを見返しているだけだった。その顔にも傷があった。頬骨の上の裂傷と、額の腫れ。あの地下で、囮になった時のものだろう。
ヴィオレッタは、二秒だけ、その傷を見た。
「——先代の設計が壊れなかったのは、あなたが保守していたからよ」
それだけだった。礼でも労いでもない。ただの事実の確認。だがバルトロメウスの目が、一瞬だけ細くなった。四十年、現場を歩いた技師が、設計者から仕事を認められた時の——それだけの反応だった。
ヴィオレッタは踵を返した。
「歩きながら説明するわ。ついてきなさい」
背後で、バルトロメウスが小さく息を吐く気配がした。肩を貸したまま、ミレイユの歩幅に合わせて歩き出す足音が続いた。
処刑台の上では、まだレオンハルトの声が響いていた。
もう誰の名前も呼んでいなかった。
中継スクリーンには、彼の醜態が最初から再生され始めていた。ループの一巡目。全国の端末が、その映像を受信し続けている。
明日も。
明後日も。
ヴィオレッタは、振り返らなかった。
広場の端へ向かって歩いていた。額の血は乾きかけていた。右手のシグネットだけが、午後の陽光に一度だけ鈍く光った。
背後の歓声が、少しずつ遠ざかっていく。
その距離だけが、今の彼女にとって唯一の、静けさだった。




