第38話「皇太子失脚」
コンソールの画面を流れる数字の列は、帝国の神経を一本ずつ引き抜いていく手術の経過報告だった。凍結口座。剥奪された権限。確保された身柄の数。どれも淡々と、感情を持たない数字だけが正確に刻まれていく。
ヴィオレッタは、その数字の流れを読みながら、耳の奥に残る金属音を反芻していた。
白銀の剣が、石畳に落ちた音。
何本も。何本も。一つ残らず。
あの音は、レオンハルト・ヴァルムブルクが帝国から借りていた最後の暴力が返却された音だ。
「——ち、が……」
増幅術式が、天板に縫い止められた男の声を拾った。
途切れ途切れの、喉の奥から絞り出すような音。命令でも、演説でも、弁明でもない。もはや言語としての形すら保っていなかった。
だが、その中に一つだけ聞き取れる単語があった。
「——陛下」
ヴィオレッタの指が、コンソールの縁で止まった。
止まったのは、一瞬だけだった。
「……陛、下……父上……!」
レオンハルトの声が、僅かに形を取り戻していく。重力拘束陣に全身を押しつけられたまま、その喉だけが最後の力で震えていた。
「父上がッ……許すはずがない……! 私は、次期皇帝だぞ……!」
増幅術式が、その声を広場に撒いた。
全国中継のスクリーンに、天板に張りつけにされた男の顔が映っている。黄金のウェーブヘアは汗と涙と埃にまみれ、サファイアブルーの瞳は焦点が定まらず、ただ虚空の一点を——おそらく、皇宮がある方角を——見つめていた。
群衆の声が、一瞬だけ静まった。
嘲笑でも歓声でもなく、「まだ言うのか」という空気だけが、帝都中央広場を覆った。
中継スクリーンの隅に、ファクトチェック機構の判定が表示される。
【「次期皇帝」——FALSE:該当する継承権の有効な登録なし(皇室継承台帳・最終更新未確認)】
ヴィオレッタは、その判定文の末尾を見て、片眉だけを動かした。
「最終更新未確認」。
皇室継承台帳の更新が、まだ反映されていない。つまり、この判定は現行の登録情報に基づく自動照合——ではなく、更新そのものが未着であることを示している。
皇宮は、まだ動いていない。
あるいは——動く直前だった。
コンソールの画面に、新しい受信ログが点滅した。
通常のデータトラフィックではなかった。回線の優先度が、これまでヴィオレッタが扱ってきた全ての処理より一段階高い。暫定直列同期で処刑台に束ねられた全回線を貫通して、最上位プロトコルの信号が割り込んでくる。
ヴィオレッタの指先が止まった。今度は、意図して止めた。
回線が、震えていた。
比喩ではない。処刑台の天板に直結した物理回線そのものが、魔力負荷の急変で微かに振動している。
コンソールの受信欄に、皇室最上位のヘッダが展開された。
*
全国中継のスクリーンが、一瞬だけ白く飛んだ。
群衆が息を呑む間もなかった。白い画面の上に、帝国の民なら誰でも知っているはずの紋章が浮かび上がった。
双頭の鷲。皇帝直印。
特級通達。
音声が、全回線に流れた。
ヴィオレッタが聞いたのは、老いた声だった。抑揚を殺した、事務的な、しかし刃のように正確な発音。皇宮の奥から出てきた声。名前は知らない。だが、その声が纏う空気の質だけで分かる。
帝国の中枢——レオンハルトが「父上」と呼んだ存在の、さらに近くにいる誰か。
声は、感情を一切含まなかった。
「——皇帝陛下の御名において、特級通達を発令する」
コンソールの画面に、通達本文が同時展開された。ヴィオレッタの視線が、高速で文面を走る。
一行目。対象者名。
レオンハルト・ヴァルムブルク。
二行目。処分内容。
皇籍剥奪。
三行目。
帝国皇室に関わる一切の権限、称号、継承権の即時抹消。
四行目。
付帯事項——皇室口座群への波及防止措置として、対象者に紐づく全ての決済経路を皇室本体系から即時分離すること。
ヴィオレッタは、四行目を二度読んだ。
「波及防止措置」。
ヴィオレッタが実行した口座凍結は、皇太子派の資金網を根こそぎ止めた。だがその凍結の波は、放置すれば皇室本体の口座群にまで連鎖する。
この通達は、その連鎖を断ち切るためのものだった。
——トカゲの尻尾切り。
息子を帝国から切り離して捨てることで、凍結の波が皇室本体に届く前に防壁を立てる。
それが、皇帝の回答だった。
*
全国中継のスクリーンに、通達の全文が表示された。
帝都中央広場を埋め尽くす群衆が、その文字を読んだ。
読んで、理解するまでに、数秒の沈黙があった。
「……皇籍、剥奪?」
誰かが、呟いた。
「皇太子が——皇族じゃなくなった?」
「陛下が、ご自分の息子を……」
沈黙が、波のように広がった。
次の瞬間、その波が反転した。
歓声ではなかった。笑いでもなかった。帝都中央広場を覆ったのは、数万人の喉から一斉に漏れた、低くて重い——唸りだった。
溜飲が下がるとか、痛快だとか、そういう感情よりも前に、群衆の本能が理解したのだ。
「終わった」と。
ヴィオレッタは、コンソールの画面に視線を戻した。
特級通達の発令と同時に、システム側の処理が連動していた。皇室継承台帳からレオンハルトの登録が抹消され、皇室口座群との決済経路が切断されていく。コンソールの画面に、分離処理のログが一行ずつ刻まれていった。
「あ——」
天板に縫い止められたレオンハルトの喉から、母音だけが漏れた。
彼の位置からでも、中継スクリーンの文字は読めたはずだ。首を捻れば、光の中に浮かぶ双頭の鷲と、その下に並ぶ通達の文面が見える。
「あ、あ……嘘だ」
その声を、増幅術式が全国に届けた。
「嘘だ……! 父上が……そんな……!」
中継スクリーンの隅で、ファクトチェック機構が淡々と応答した。
【「嘘だ」——FALSE:特級通達は皇帝直印および最上位プロトコルによる正規発令。改竄不能。】
群衆から、笑い声が弾けた。
誰かが最初に笑い、それが伝染した。嘲笑とも哄笑ともつかない、残酷な笑いの波が広場を覆った。
レオンハルトは、笑われていた。
全国に。
「嘘だと言っているッ!! 私は——私はレオンハルト・ヴァルムブルク! 帝国第一皇太子だ!!」
ファクトチェック機構が、即座に反応した。
【「帝国第一皇太子」——FALSE:皇籍剥奪済み。該当する称号の登録なし。】
笑いが、さらに大きくなった。
叫ぶたびに否定され、否定されるたびに笑われる。かつて帝国で最も華やかだった男は、天板に張りつけにされたまま、自分の嘘を全国に実演し続ける装置になっていた。
ヴィオレッタは、その光景を——見ていなかった。
正確には、視界の端には入っていた。だが彼女の目は、コンソールの画面に張りついていた。
分離処理のログが、最終行に達した。
皇室口座群との全決済経路——切断完了。
レオンハルト・ヴァルムブルクは、もう帝国の皇族ではない。
皇太子でもない。
継承者でもない。
名前と身体だけが残った、空の器だ。
「——あ」
レオンハルトの声から、怒りが消えた。
増幅術式が拾ったのは、怒りでも、否認でもなかった。
もっと小さな、もっと薄い音だった。
「……なん、で……」
天板に押しつけられた頬から、何かが伝い落ちた。ヴィオレッタの位置からでは、それが涙なのか汗なのかは判別できなかった。
だが、声は濡れていた。
「……殺してくれ」
最初、その言葉が何を意味しているのか、群衆には伝わらなかった。
「殺して……くれ……。こんな屈辱、を……死刑に……死刑にしてくれ……!」
増幅術式が、その懇願を帝国全土に届けた。
かつて、この男が他者を断罪ショーの見世物にしたのと同じ術式で。
広場が、また静まった。今度の沈黙には、嘲笑の残響が混じっていた。
ヴィオレッタは、コンソールから手を離した。
画面に、全ての処理が完了したことを示すログが並んでいた。口座凍結。権限剥奪。監査指定。資産保全。皇籍分離。
終わった——のではない。
まだ、一つ残っている。
彼女は、跪いていた膝を伸ばした。
手枷の焼断鎖が乾いた音を立てた。指先に張りついた血が、コンソールの縁にこびりついている。額の左からは、また細い血の筋が頬を伝っていた。
だが、ヴィオレッタの足取りに揺らぎはなかった。
コンソールの下部——天板に埋め込まれた小さな格納庫のハッチを、片手で開けた。
中に収まっていたのは、処刑台が最初から内蔵していた保全機材の一つだった。銀色の、掌に収まるほどの環状の魔導具。冷たく、重く、装飾は一切ない。処刑用の刃とは明らかに異なる、事務的な形状。
ヴィオレッタは、それを右手で持ち上げた。
そして、重力拘束陣に縫い止められたレオンハルトの傍まで、ゆっくりと歩いた。
三歩。
それだけの距離だった。
天板に押しつけられたレオンハルトの顔が、ヴィオレッタの影に覆われた。涙と汗に濡れたサファイアブルーの瞳が、彼女を見上げた。
「……殺してくれ……頼む……!」
その声は、もう何の権威も纏っていなかった。
ヴィオレッタは、見下ろした。
アメジストの瞳には、憐れみも怒りも映っていなかった。コンソールの画面を読むのと同じ目で、足元の男を見ていた。
「死刑?」
彼女の声は静かだった。増幅術式が拾える音量ではなかったはずだが——いや、彼女は拾わせていた。意図的に。
全国へ。
「勘違いしないで」
ヴィオレッタは、しゃがんだ。
レオンハルトの首筋に、銀色の環状魔導具を——押し当てた。
金属の冷たさに、男の身体が痙攣した。
「政治家にとって、死は一瞬の逃げ道に過ぎないわ」
ヴィオレッタの声は、凍土の下を流れる水のようだった。静かで、暗くて、止まらない。
「あなたが他人にしたことを——」
彼女は、言葉を途中で切った。
続きは言わなかった。
環状の魔導具だけが、レオンハルトの首筋で、冷たく光っていた。
全国中継は、まだ続いている。




