第37話「最上位民意保全」
コンソールの保全処理メニューが、ヴィオレッタの紫水晶の瞳を白く照らしていた。
長いコマンドラインの一覧。口座凍結。権限剥奪。監査指定。資産保全。
順番がある、と彼女は数秒前に自分に言い聞かせた。
そして今——その順番が来た。
指先が、最初のコマンドに触れる。
**〈口座凍結:対象指定——一括選択〉**
ヴィオレッタは迷わなかった。改竄不能アーカイブが復元した横領ログ。そこに名前が刻まれた全ての口座を、一括で選択する。
実行。
コンソールの画面が切り替わる。凍結処理の進捗バーが、淡々と伸びていく。
処刑台の天板越しに伝わる振動が、わずかに質を変えた。地下の魔導基幹管を流れるトラフィックの密度が跳ね上がったのだろう。国家魔導銀行のメインシステムが、フルブートの権限で口座群に直接介入を始めている。
ヴィオレッタの指は止まらない。
次のコマンド。
**〈権限剥奪:対象——凍結口座紐付き役職権限・全件〉**
実行。
**〈監査指定:対象——凍結口座保有者・全件。等級——重監査〉**
実行。
**〈資産保全:対象——凍結口座関連資産・全件。保全種別——完全凍結〉**
実行。
四つのコマンドが、わずか十数秒で投入された。
コンソール画面の右端に、処理状況のログが滝のように流れ始める。口座番号、保有者名、残高、凍結ステータス。一行ごとに「FROZEN」の文字が刻まれていく。
ヴィオレッタはそのログを一瞥し、次に全国中継スクリーンの制御パネルへ指を滑らせた。
口座残高の変動をリアルタイムで中継画面に出す必要がある。見せなければ意味がない。
表示フォーマットを選択。**〈凍結進捗——対象口座残高推移・全国同時表示〉**。
実行。
*
広場に、新しい画面が降りてきた。
巨大な中継スクリーンの片隅——ランキングと地域別ゲージの横に、もうひとつ。棒グラフのように並んだ数字の列。
群衆の誰かが最初に気づいた。
「おい……あれ、口座残高じゃないか?」
名前がある。役職がある。そして——金額がある。
皇太子派の会計官。軍需官。徴税管理官。ランキングで晒されていた顔ぶれと同じ名前が、今度は口座残高と共に並んでいた。
その数字が、動いた。
一人目。残高の末尾の桁が消える。千の位が消える。万の位が——
「減ってる」
誰かの呟きが、広場のざわめきに呑まれた。
だが呑まれたのは一瞬だった。
二人目の残高が動く。三人目。四人目。画面に並んだ十二の口座が、同時に、しかし微妙にずれたタイミングで——削られていく。
桁が落ちるたびに、数字が赤く点滅する。
「凍結……されてる……」
「嘘だろ、あの額が——」
「国家魔導銀行だ。銀行が動いてる」
歓声ではなかった。怒号でもなかった。広場を満たしたのは、もっと原始的な音——数万人が同時に息を吸い込む、真空のような沈黙と、その直後に弾ける喧騒。
ランキング三位の会計官の残高が、ゼロになった。
画面に「FROZEN」の赤い刻印が落ちる。
五位。七位。九位。次々と。
「消えた——全部消えた!」
「ざまあみろ!」
「あいつら、あれだけ盗んでおいて——」
群衆の声が、処刑台の天板を揺らす。増幅術式が拾ったその波を、ヴィオレッタは背中で聞いていた。
コンソールの凍結ログは、まだ流れ続けている。
一位の口座——レオンハルト・ヴァルムブルクの名が刻まれた皇太子専用決済口座。その残高が、今まさに桁を失いつつあった。
帝国年間予算の数パーセントに相当する額が、一行のコマンドで凍りついていく。
ヴィオレッタの視線は、その数字の減少を追わなかった。
代わりに、凍結ログの隣に流れるもうひとつの処理状況を見ていた。権限剥奪のログ。
宮廷魔導局・第一執務権限——剥奪完了。
皇室直轄予算・承認権限——剥奪完了。
帝都中央通信管制・上位アクセス——剥奪完了。
近衛騎士団・給与決済承認権限——剥奪完了。
一行ずつ、レオンハルト派が握っていた帝国の手綱が、システムの手で引き剥がされていく。
ヴィオレッタの唇が、音にならない言葉を刻んだ。
——予定通り。
*
コンソール画面の端に、新しいアラートが点灯した。
**〈民意保全条項・本執行連動処理:物理制圧ユニット転送準備完了——転送開始〉**
これはヴィオレッタが命じたものではない。
フルブートが確定した瞬間から、国家魔導銀行のメインシステムが自動で走らせている連動処理。口座凍結と権限剥奪が一定の進捗に達すると、次の段階として物理的な制圧手段が投入される。
仕様通りだ。
ヴィオレッタがコンソールから視線を上げる必要はなかった。
だが、それは「見えた」のではなく「来た」。
空気が裂けた。
処刑台の天板が、これまでとは異なる振動を伝えてくる。地下からの共振ではない。空間そのものが軋む、圧縮と膨張が交互に押し寄せるような——転送魔法特有の大気の歪み。
光が、広場の四隅に同時に落ちた。
白ではない。金でもない。青銅色の、重く鈍い光。
その光が収束した場所に、それは立っていた。
監査ゴーレム。
全高は成人男性の三倍はある。国家魔導銀行の監査紋章が胸部装甲に深く刻まれた、人型の魔導自律兵器。四体。広場の東西南北に一体ずつ、群衆を押し分けるように——いや、群衆が本能的に道を空けた結果として、完璧な包囲陣形で出現していた。
転送の余波で舞い上がった石畳の粉塵が、まだ宙を漂っている。
「な——」
「ゴーレム……!?」
「国家魔導銀行の、あれは——」
群衆の悲鳴と驚愕が、広場を叩いた。
だが、ゴーレムだけではなかった。
四体の足元から、黒い法衣の一団が広がるように展開する。大法院の紋章を胸に縫い付けた執行官たち。手には拘束用の魔導錠と、身柄確保令状を収めた封蝋付きの羊皮紙。
先頭の執行官が、広場に響く声で宣告した。
「——国家魔導銀行・民意保全条項、本執行に基づく強制監査介入。対象者の身柄を確保する」
声は冷たく、事務的で、そこには一片の感情もなかった。命令でも怒りでもない。ただの処理。システムが吐き出した手続きを、人間の口が読み上げているだけ。
監査ゴーレムの一体が、最初の一歩を踏み出した。
石畳が砕ける。その重量が、広場に新しい振動を加えた。
ゴーレムの進行方向にいたのは、ランキング四位の軍需官だった。先ほどまで七位を告発していた男。内ゲバの最中で、逃げる判断すら遅れていた。
ゴーレムの腕が伸びる。
魔導錠が、軍需官の両手首に嵌まった。
乾いた金属音。それだけだった。
「ひ——」
軍需官が何か叫ぼうとした。だが、魔導錠が嵌まった瞬間に足元から重力拘束の予備陣が展開し、その場に縫い止められる。
次。
執行官たちが、ランキングに名前のある者たちへ向かって散開していく。九位の地方徴税官。五位の宮廷財務官。先ほど「騙されていた」と中継カメラに向かって喚いていた顔が、今度は魔導錠の冷たさに歪んでいた。
一人、また一人。
身柄確保は、驚くほど静かに進んだ。監査ゴーレムの存在が、あらゆる抵抗の意志を物理的に圧殺していた。逃げようとした者には、ゴーレムの足が石畳を砕く一歩で十分だった。
ヴィオレッタは、コンソール画面に流れる身柄確保の進捗ログでそれを知った。
対象01——確保完了。
対象02——確保完了。
対象03——確保完了。
淡々と増えていく番号。
広場では群衆の声がうねっていた。最初の衝撃が過ぎ、今度は歓声が——いや、それは歓声というにはあまりに獰猛な、数万の喉から絞り出される嗜虐の咆哮だった。
「捕まえろ!」
「全員だ、全員引きずり出せ!」
「逃がすな——」
ヴィオレッタは、その声を聞きながらコンソールに視線を戻した。
凍結ログの最上段。
レオンハルト・ヴァルムブルク——口座残高:0。ステータス:**FROZEN**。
皇太子専用決済口座が、ゼロになっていた。
*
天板に顔を押しつけられたまま、レオンハルトが吠えた。
重力拘束陣は彼の全身を天板に縫い止めている。首を捻じることはできる。声を出すことはできる。だが、それだけだ。
「嘘だ——こんなもの、認めるか!」
増幅術式がその声を拾い、全国に配信する。
中継スクリーンの隅で、ファクトチェック機構が一瞬だけ明滅した。だが反応はない。「認めない」は事実の主張ではなく、ただの拒絶だ。システムは、感情には反応しない。
「近衛騎士団!」
レオンハルトの声が、処刑台から広場に叩きつけられた。
「私を守れ! ゴーレムを破壊しろ! これは——これは反逆だ、国家への反逆だ!」
その叫びに対して、ファクトチェック機構が反応した。
**【FALSE】**——民意保全条項に基づく強制監査介入は合法的執行であり、反逆には該当しない。
赤い文字が、全国の中継スクリーンに浮かぶ。
レオンハルトの頬が石板に押しつけられたまま痙攣した。だが、彼はまだ叫ぶことをやめなかった。
「近衛騎士団長! 命令だ——命令だぞ!」
広場の一角。
監査シールドに弾き飛ばされた後、態勢を立て直していた白銀の鎧の一団が、その声を聞いていた。
近衛騎士団長。白髪を短く刈り込んだ壮年の男が、レオンハルトの絶叫を受けて——動かなかった。
彼の視線は、レオンハルトに向いていなかった。
自分の左腕に嵌めた、小型の携帯端末。騎士団の給与管理と契約状況を確認するための、実務用の魔導デバイス。
その画面に表示されているのは、赤い警告文。
**〈口座凍結通知:近衛騎士団運営決済口座——凍結。給与支払い処理——停止。契約ステータス——保留〉**
騎士団長の顔から、表情が消えた。
正確には、怒りでも恐怖でもない、もっと即物的な計算が走ったのだろう。彼は端末の画面を、二度、確認した。
そして——剣の柄から手を離した。
白銀の鞘に収められた長剣が、石畳の上に落ちる。
金属が石を打つ音が、群衆のざわめきの中でやけに鮮明に響いた。
「……騎士団長?」
部下の一人が、信じられないという声を上げた。
騎士団長は答えなかった。代わりに、二歩、三歩と処刑台に歩み寄り——レオンハルトの視界に入れる位置で、膝をつかずに立ち止まった。
天板に押しつけられた顔を必死に捻じったレオンハルトの瞳が、足元に転がる剣と、それを捨てた男を捉えた。
「なに、を——」
「殿下」
騎士団長の声は低く、平坦だった。
「近衛騎士団の給与決済口座が凍結されました。現時点をもって、団員への報酬支払いが停止しております」
レオンハルトの唇が、言葉を探して開閉した。
騎士団長は待たなかった。
「未払いでの労働は——規約違反ですので」
それだけ言って、踵を返した。
増幅術式がその声を拾っていた。全国が、聞いていた。
背後で、レオンハルトが何か叫んでいる。「待て」かもしれないし「裏切り者」かもしれない。騎士団長はどちらにも反応しなかった。
白銀の鎧の一団に、静かな波紋が広がった。
一人が、剣を地面に置いた。
次の一人が、兜を外した。
三人目は無言で背を向けた。
金属の落ちる音が、一つ、二つ、三つと続いた。広場の石畳に、白銀の武具が散らばっていく。規律正しく並んでいた隊列が、端から順に——崩壊していく。
それは裏切りですらなかった。
契約の終了だ。
支払いが止まれば、騎士は動かない。それは帝国法が定める労働契約の基本原則であり、近衛騎士団の規約にも明記されている条項であり——そして何より、この国のあらゆる力関係を最終的に担保しているのが「金」であるという、ヴィオレッタが設計した決済システムの根幹そのものだった。
暴力は、金で買われていた。
だから金が消えれば、暴力も消える。
処刑台の天板の上で、ヴィオレッタはコンソールの画面に表示された近衛騎士団の給与決済ステータスを見ていた。
**〈全件停止〉**。
彼女の指先が、コンソールの縁をゆっくりと叩いた。乾いた血が薄く張りついた指先。
戦場にはまだ、監査ゴーレムの重い足音と、大法院執行官の事務的な宣告と、群衆の獰猛な歓声が渦巻いている。
だがヴィオレッタの耳に最も深く残ったのは、白銀の剣が石畳に落ちた音だった。
何本も、何本も。
一つ残らず。
「——仕様通り」
二度目のその言葉を、今度も増幅術式には乗せなかった。
コンソールの画面が、次のステータスを表示していた。身柄確保の進捗。凍結口座の総数。剥奪された権限の一覧。
そのどれもが、処理完了に向かって淡々と数字を刻んでいる。
天板に縫い止められたレオンハルトの喉から、もう命令の形をした声は出ていなかった。
ただ——何かを呼ぶ声が、途切れ途切れに漏れていた。
近衛も。側近も。帝国が彼に与えたあらゆる道具が、一つずつ、システムの手で回収されていく。
ヴィオレッタは、コンソールに視線を落としたまま、その声を聞いていた。
聞いてはいた。
だが、指は止めなかった。
処理は、まだ続いている。




