第36話「国家予算級スパチャ」
数字が跳ね上がる。まだ足りない。
ヴィオレッタの指はコンソールの上を滑り、流入速度グラフの隣に並ぶ地域別の送金分布を呼び出した。色分けされた帝国地図。東部三州が赤く染まりかけている。北方商会の拠点都市群にも熱が灯り始めた。辺境領は——もう燃えている。
だが、帝都は鈍い。
当然だ。帝都の民は「見世物」に慣れすぎている。怒りはあっても、財布の紐は別。観客席から石を投げることと、自分の金を差し出すことの間には、深い溝がある。
ならば——溝を埋めるのではなく、別の火をつける。
「東部三州」
増幅術式が声を拾い、全国に届ける。ヴィオレッタは地図の一角を指で叩いた。コンソールの操作ではない。ただのジェスチャーだ。だが中継カメラがそれを捉え、スクリーンに映す。
「二年前の疫病。あなたたちの防疫復旧費、帝国議会で承認された額を覚えている?」
間。
「四億二千万祝福貨」
数字を、はっきりと。
「今スクリーンに出ているランキング——二位の男の隠し口座に入っていた金額が、いくらだったか見てみなさい」
言わなくていい。スクリーンに出ている。二位の財務筆頭官の着服総額は、四億七千八百万祝福貨。
三州の防疫費より、多い。
コンソールのサムネイルに映る東部三州の中継映像が変わった。音声は拾えない。だが画面の中で、人々の口が開き、拳が上がるのが見える。
「あの疫病で何人死んだ?」
ヴィオレッタの声に感情はない。データを読み上げるように、淡々と。
「千四百人。公式記録ではね。防疫の手が届かなかった集落を含めれば——まあ、あなたたちの方がよく知っているでしょう」
コンソール上の東部三州の送金速度が、跳ねた。グラフの線が折れ曲がるほどの急角度で。
怒りは、具体的な数字を与えた瞬間に燃料になる。抽象的な「不正」では人は動かない。「自分の村が見捨てられた」「隣人が死んだ」——その実感が金額に変わる瞬間を、ヴィオレッタは知っていた。
ヴィオレッタはもう次の標的に目を移していた。
「北方商会」
声のトーンを変えない。同じ温度で、同じ精度で。
「去年の冬、交易路の維持管理費が三割カットされた件。あれは予算不足じゃない」
指がコンソールを二度叩く。ランキング八位の港湾管理局長の詳細欄が、スクリーン上でタップ展開された。交易路維持管理費の迂回記録。カットされた予算の行先。
「ご覧の通り。足りなかったんじゃない。抜かれていたの」
北方からの送金ラインが太くなる。グラフが——いや、もうグラフでは追えない。数値の更新速度が表示のリフレッシュレートを超え始めている。
だが、ヴィオレッタの関心はそこにはなかった。
帝都だ。帝都がまだ鈍い。
コンソール上の地域別分布を睨む。帝都の送金量は増えてはいる。だが地方の爆発に比べれば、伸びが緩い。帝都の民にとって、東部の疫病も北方の交易路も「他人事」だからだ。
——なら、他人事じゃなくすればいい。
「帝都の皆さん」
声の温度が、わずかに下がった。
「あなたたちは今、観客席にいるつもりかしら」
広場に、かすかなざわめき。
「ランキングの十一位。帝都第三区の徴税管理官。名前と顔は、もうスクリーンに出ているわね」
出ている。さっきから出ている。だが「帝都」と名指しされた瞬間、群衆の目がスクリーンのその一行に吸い寄せられるのが、サムネイルの映像越しにわかった。
「あの人が管轄していたのは、帝都第三区から第七区までの市民税。つまり——」
一拍。
「今ここに立っているあなたたちの、税金よ」
沈黙が裂けた。
広場の空気が変わる瞬間を、ヴィオレッタはコンソール越しに見た。中継カメラのサムネイルの中で、帝都の群衆の表情が「見物客」から「被害者」に切り替わる。その切り替わりは、音より速い。
帝都の送金ラインが、垂直に立った。
——これで全域に火が回った。
感慨はない。ヴィオレッタの指はもう次のコマンドを叩いている。感情増幅型UIの表示パラメータ。地域別の送金ゲージを、全国のスクリーンに並列表示する設定。
東部三州。北方商会。辺境領。帝都。西部。南嶺。
六つのゲージが横に並ぶ。それぞれの地域名と、リアルタイムの送金累計額。
人間は——比較されると、動く。
「あら」
ヴィオレッタの唇が、小さく動いた。増幅術式がそれを拾う。
「辺境領、頑張っているわね。人口比で見たら帝都の三倍以上じゃない」
一言で十分だった。
帝都のゲージが、追いかけるように跳ねた。
*
処刑台の天板に頬を押しつけたまま、レオンハルトが口を開いた。
「——嘘だ」
声は掠れている。だが増幅術式は公平だ。彼の声も、全国に届く。
「あの女が——数字を捏造して——」
コンソールの隅で、ファクトチェック機構が反応した。【照合中】の表示が一瞬だけ点滅し——
【FALSE】
赤い刻印が、スクリーンに浮かぶ。同時に、二位の財務筆頭官の口座ログと、国家魔導銀行の入出金原本との照合結果が自動展開される。一銅貨の誤差もない完全一致。
「捏造、ですって」
ヴィオレッタは振り返りもしなかった。コンソールから目を離さないまま、声だけを投げる。
「あなたが仕様書を読んでいれば、改竄不能アーカイブの照合精度がどういう仕組みか知っているはずよ。でも読んでいないから、『捏造』なんて言葉が出てくる。——いつも通りね」
レオンハルトの拳が天板を叩く音。重力拘束陣に押さえつけられた腕では、それすら弱々しい。
ファクトチェック機構は、もう反応しなかった。「捏造」に対しては照合対象があったから【FALSE】を返せた。だが拳の音と、歯を食いしばる呼吸には、照合すべきデータがない。
システムは、中身のない感情を相手にしない。
*
処刑台の階段付近で、内ゲバはさらに醜悪さを増していた。
増幅術式が拾う断片的な怒号。コンソールのファクトチェックログが、矢継ぎ早に更新される。
ランキング四位の軍需官が、七位の名前を叫んだ。「あいつが仲介した! 俺は命令に従っただけだ!」
ファクトチェック——【TRUE/FALSE】。仲介の事実はTRUE。「命令に従っただけ」の部分は、本人署名入りの利益分配契約書が検出されFALSE。
九位の地方徴税官が、膝をついたまま中継カメラに向かって両手を合わせた。「民の皆さん、私は騙されていたんです——」
ファクトチェック——【FALSE】。任命時の推薦書に本人の直筆添え状、着任後三ヶ月目の裏口座開設記録、いずれも自発的な参画を示すログが自動展開。
コンソールのサムネイルの中で、カメラが九位の顔をアップにしていた。合わせた手が震えている。その背後のスクリーンに、本人の直筆添え状の画像が映し出されている。
ヴィオレッタはそれを見ない。見る必要がない。
システムが勝手にやっている。自分が設計した通りに。
*
送金総額のカウンターが、コンソールの右上で回り続けている。
十二桁。
ヴィオレッタの目が、その数字の隣に表示されている小さなインジケータに止まった。民意保全条項の閾値ゲージ。本執行移行の条件——帝国年間予算に対する比率。
現在、8.4%。
速い。想定より速い。地域間競争が効いている。だが——まだ足りない。12%が閾値だ。
指が止まる。
コンソールの片隅に、さっきから点滅し続けている小さなログがある。端末署名。自分が発行した識別子。そして、0.3秒の音声断片の話者照合——一致率99.7%。
ミレイユ。
あの子が第七中継架に端末を繋いだから、アーカイブの整合率が100%になった。それがなければ、個別口座の詳細展開はできなかった。ランキングも組めなかった。
コンソールのログには、接続完了時刻だけが記録されている。その後の状態を示すデータはない。端末を繋いだ瞬間は、手が動いていた。それだけが、わかっていることの全てだ。
指がコンソールに戻る。次の一手。
ヴィオレッタは地域別ゲージの隣に、もう一つの数値を並列表示するコマンドを入力した。
閾値までの残額。
リアルタイムで減り続ける数字。ゴールが見える状態。人は、ゴールが見えると走る。
表示が全国のスクリーンに反映された瞬間——コンソールの流入速度が、また跳ねた。
*
「——おい、見ろよ。あとこんだけだぞ」
広場のどこかで、誰かの声。増幅術式が拾ったのか、それともただの怒号が空気を震わせたのか。
「ギルド連合から来た! 西部鍛冶師組合、全員分だ!」
スクリーン上の西部ゲージが、一段跳ねる。
「うちの商会も出すぞ! 帳簿係、ありったけ回せ!」
北方のゲージが追いかける。
コンソールの数字は、もう人間の目で追える速度ではなかった。スクロールするログの中に、一件一件の送金額が流れていく。百祝福貨。五十祝福貨。三祝福貨。
三祝福貨。
子供の小遣いほどの額。だが、それが万単位で束になると——
ヴィオレッタの目が、閾値ゲージに戻る。
9.1%。
9.6%。
10.0%——二桁に乗った。
コンソールの全国スクリーンに、閾値ゲージの数字が映し出されている。群衆はそれを見ている。全国の民が見ている。
ヴィオレッタは、もう煽動の言葉を重ねなかった。必要がない。
UIが仕事をしている。ゲージが、数字が、地域別の競争表示が——全て、設計通りに人間の行動を加速させている。
感情増幅型UI。正式名称は長い。だがその本質を一言で言えば、「人間の衝動を可視化し、可視化されたことでさらに衝動を増幅するフィードバック装置」だ。
自分が作ったものだ。善にも悪にも使える。レオンハルトはこれを「断罪ショーの盛り上げ装置」としてしか使わなかった。設計者の意図も、仕様書に書かれた本来の用途も、読みもしないで。
——10.7%。
コンソールの文字が白く滲む。目の焦点が合わない。額の左側を伝う血が、乾きかけてまた裂けたのか、微かに温かい。
構わない。あと少し。
——11.3%。
広場の音が、遠くなった。歓声なのか怒号なのか、もう区別がつかない。一万人の声が一つの振動になって、処刑台の天板を揺らしている。
——11.8%。
指先の擦過傷が、コンソールの操作面に薄い血痕を残している。だがコンソールは正常に反応する。血程度で誤作動するような設計はしていない。
——11.9%。
空気が変わった。
物理的に。
ヴィオレッタの髪が、風もないのに揺れた。処刑台の天板に敷かれた石材の隙間から、微かな振動が伝わってくる。足元から。地下から。もっと深い——帝都の地盤そのものに埋め込まれた魔導基幹管の、共振。
これは、閾値が近づいている証拠だ。
国家魔導銀行のメインシステムが、臨界を検知して暖機を始めている。まだ起動ではない。だが——準備は、始まった。
——12.0%。
数字が、動かなくなった。
一瞬、コンソールの表示が凍りついたのかと思った。だが違う。数字の色が変わっている。白から、金に。
文字列が、コンソールの中央に浮かび上がる。
『——総額、帝国年間予算の12%を突破。最上位・民意保全条項、強制起動』
ヴィオレッタの指が、止まった。
コンソールに触れる必要が、もうない。ここから先は——
音が来た。
空が、割れた。
それは雷ではなかった。帝都の上空を覆っていた皇室の魔導網——金色に輝く巨大な格子状の防護結界が、根元から色を変えていく。金から、銀へ。皇室の紋章が刻まれた節点の一つ一つが明滅し、その輝きが別のもの——国家魔導銀行の監査紋章に、塗り替えられていく。
物理的な上書き。
帝国の空を支配していた皇室の網が、国家魔導銀行のメインシステムによって、一本ずつ、奪われていく。
轟音は止まない。それは空からではなく、地面からも来ていた。帝都の地下に埋設された魔導基幹管が全て共振し、その振動が石畳を、建物を、広場を揺らしている。
群衆の歓声が、悲鳴が、怒号が——全てが振動の中に溶けた。
処刑台の天板の上で。
重力拘束陣に押さえつけられたレオンハルトが、首だけを持ち上げて空を見上げた。
自分の——自分たちの紋章が、一つずつ消えていく空を。
ヴィオレッタは空を見なかった。
コンソールの画面に、新しいコマンドラインが表示されている。フルブート後にのみ選択可能になる、保全処理メニューの一覧。
長いリストだった。口座凍結。権限剥奪。監査指定。資産保全。そして——
指先が、リストの最下段に触れかけて、止まる。
まだ早い。順番がある。
ヴィオレッタの唇が、かすかに動いた。声は増幅術式に乗せない。誰にも届けない、自分だけの言葉。
「……仕様通りよ」
空では、まだ皇室の紋章が消え続けている。
帳簿は踊る。そしてこの踊りの終わりを決めるのは、もう皇帝でも、皇太子でもない。




