第30話「それでも殺す男」
止まらない。
ヴィオレッタのコンソール画面では、注入済みの証拠データが仕様通りに自動再生を続けていた。送金ログの数百行がスクリーンを埋め、赤い数字が列をなして流れ落ちる。その一行一行が、レオンハルト・ヴァルムブルクの名前と、その裏口座の送金先を示していた。
巨大中継スクリーンの下半分には、コメント欄の奔流が止まることなく押し寄せている。
もはや文字を読み取る必要すらなかった。同じ単語が、繰り返し、繰り返し、画面の端から端まで埋め尽くしているだけだから。
『横領』『詐欺』『返せ』『嘘つき』『横領』『返せ』『横領』
帝都中央広場は、数分前とは別の場所になっていた。
ヴィオレッタの名を呪っていた数千の喉が、今は別の標的に向かって咆哮している。石畳を踏み鳴らす足音が、群衆のうねりとなって処刑台の足元を揺らした。
スクリーンに映し出された送金ログの最新行が、次の画面へ切り替わる。
救済映像の原版——あの、レオンハルトが「自らの善政」として配信していた映像の、編集前の元データ。その右半分には加工後の「美談」が、左半分には加工前の現実が並んでいる。
加工後:笑顔で物資を受け取る被災民の映像。
加工前:会計官紋章をつけた役人が、物資の七割を別の荷馬車に積み替えている映像。
その比較が、何の解説もなく、ただ並んでいるだけだった。
文字は要らない。音声も要らない。二つの映像を横に並べれば、三歳の子供でも何が起きたか分かる。
「——違う」
レオンハルトの声が、増幅術式に捕捉されて広場に響いた。
処刑台上方の演説位置で、かつて「帝国の太陽」と呼ばれた皇太子が手すりにしがみついていた。白い礼装の襟元は汗で貼りつき、計算し尽くされていたはずの黄金の髪は額に垂れて顔の半分を隠している。
「それは——文脈が——前後を切り取って——」
言い終わる前に、スクリーンが切り替わった。
レオンハルトの過去の肉声——「東部三州の復旧費は全額、使い切った」。その音声が、広場に流れた。同時に、画面の右側には同時刻の裏口座への送金記録が表示される。
システムは何も言わない。声と数字を、ただ横に並べているだけだ。
だが群衆には、もうそれで十分だった。
広場の怒号が、一段階上がった。
ヴィオレッタはコンソールの画面から視線を上げなかった。
別に見る必要がなかった。群衆の声は振動として処刑台の天板を通じて膝に伝わってくるし、レオンハルトの声はシステムが勝手に拾って増幅してくれる。
コンソール画面の右端に、赤色祝福貨のトラフィック・モニターが小さく表示されている。投げ銭カウンターの数字が、もはや桁送りの速度で回転していた。群衆は怒りながら金を投げている。矛盾しているようだが、この帝国の民衆にとって「感情を通貨に変換する」行為は、呼吸と同じくらい自然な習慣なのだ。
——ヴィオレッタ自身がそう設計したのだから。
彼女の視線が、モニターの隣に表示されている別のステータス・ラインに移った。
灰色の文字。休眠中のプロセス表示。
まだ条件が揃っていない。
まだ、あと一つ。
「——黙れ! 黙れ!」
レオンハルトの声が裏返った。増幅術式は発話者の音量も声質も忠実に拾うから、その悲鳴じみた叫びは帝国全土に、歪んだまま届いている。
「捏造だと言っている……! この女が——この犯罪者が——システムを乗っ取って——」
声が震えていた。いや、声だけではなかった。処刑台の演説位置から見下ろすレオンハルトの両手が、手すりの上で白くなるほど握り締められている。勲章が胸元で打ち合わさって、かちかちと不規則な音を立てた。
スクリーンが、また切り替わった。
今度は音声ログだった。
レオンハルトの声が——録音された、レオンハルトの声が、広場に流れた。
『——第七地方塔の回線を止めろ。不要だ。ああ、技師が邪魔をするなら審問官を送れ。塔ごと潰せ。人がいても構わん』
地方通信塔八基の破壊指示書が、その音声の下にスクリーン全面で展開される。皇太子の印璽。異端審問官部隊の名前。日付。承認印。
何の註釈もない。ただの記録だった。
ただの記録が、あらゆる弁明より雄弁だった。
コメント欄が、さらに加速する。
『人殺し』
一つの単語が、新たに混じり始めた。
レオンハルトの顔から、最後の色が消えた。
ヴィオレッタのコンソールに、またリジェクト・ログが走る。誰かが——おそらくレオンハルト側の技師が——中継を止めようとして、失敗している。暫定直列同期で全回線が処刑台に物理直結している以上、この端末から切り離すには処刑台そのものを破壊するしかない。
だが、破壊すれば帝国全土の通信インフラが同時に落ちる。
それを理解しているから、技師たちは止められない。
止められないまま、証拠は流れ続ける。
レオンハルトが何かを言おうと口を開き——
閉じた。
スクリーンに映る自分の顔を見たのかもしれない。あるいは、何を言っても次の証拠が被さってくることを、ようやく学習したのかもしれない。
十秒ほどの沈黙があった。
広場の喧騒だけが、処刑台を波のように叩く。
そして、沈黙は——別のものに変わった。
「……騎士団」
低い声だった。
裏返った悲鳴でも、取り繕った演説でもない。喉の奥から絞り出された、粘つくような低音。ヴィオレッタはコンソールから顔を上げた。
演説位置のレオンハルトが、手すりから片手を離していた。
その手が、虚空を指差した。
処刑台の下に控えていた白銀の鎧——近衛騎士団の方を。
「カメラを壊せ」
言葉が、増幅術式に乗った。全国に届いた。
「全部だ。端末も。スクリーンも。回線も。——全部壊せ」
帝都中央広場の喧騒が、一瞬だけ澱んだ。
怒号の密度が変わったのではない。群衆の声に、別の色が混じったのだ。困惑。驚愕。信じられないものを見ている者の、呼吸の止まり方。
レオンハルトの指先が、降りた。
ヴィオレッタへ向かって。
「その女を——」
声が割れた。唾が、増幅術式の拾う空気を湿らせた。
「——今すぐ、ここで、切り刻め」
広場が、凍った。
比喩ではなかった。数千の人間が同時に息を止めると、広場の空気そのものが重くなる。声も足踏みも消え、残ったのは風と、スクリーンから漏れ続ける送金ログのデータ音だけだった。
全国中継は、止まっていない。
レオンハルト・ヴァルムブルク第一皇太子が——不正の証拠を全国に流されながら——無抵抗の被告に対して、公開の場で殺害命令を出した。
その光景が、帝国全土の端末に配信されている。
ヴィオレッタの目の前のコンソール画面で、コメント欄の更新が二秒間だけ完全に停止した。
誰もが、何を書けばいいか分からなくなったのだ。
処刑台の下で、動きがあった。
金属が擦れる音。連鎖的に、いくつもの鞘鳴りが重なる。
近衛騎士団だった。
白銀の鎧が広場の松明の光を弾き、処刑台の足元で整列していた十数騎の騎士たちが、一斉に立ち上がった。
先頭の一人——団長だろう——が、腰の剣の柄に手をかけた。
その手が、止まった。
一拍。
刃紋の走る長剣の柄を握ったまま、白銀の兜の奥にある目が、何かを確かめるように処刑台を見上げた。スクリーンを。証拠の奔流を。そして、演説位置で唾を飛ばしている皇太子を。
次の瞬間、剣が鞘を離れた。
「——全騎、抜刀」
団長の声は低く、短かった。
背後で、十数本の刃が同時に陽光を受けた。
金属の壁。それが処刑台の階段に向かって動き出す。
足音が揃った。甲冑の重量が石段を踏むたびに、振動が処刑台の天板まで伝わってくる。一段。二段。三段。規律正しく、だが確実に、武装した人間の群れが登ってくる。
コンソールの画面に視線を戻す暇はなかった——いや、ヴィオレッタはあえて戻した。
彼女の視線の先にあったのは、騎士の剣でも、レオンハルトの狂相でもない。
コンソール画面の左下に表示された、灰色のステータス・ラインだった。
さっきまで休眠表示だった文字列が——変わっていた。
灰色が、白に。
フォントが一段太くなり、行頭にアスタリスクが点灯している。
```
*条件照合:完了
──────────────
├ 三鍵セッション ……… 成立
├ 対象者への直接危害 … 明示的命令:検出
└ 実行着手 ………………… 検出(武装接近中)
──────────────
>保全プロセス[仮保護]:起動可能
```
騎士たちの足音が、天板のすぐ下まで迫っていた。
先頭の騎士が天板に足をかけた。白銀の兜の下から、訓練された殺意が放射されている。剣の切っ先が絶対防壁に向けられ——
振り下ろされた。
衝撃。
半透明の障壁が白い火花を散らし、甲高い金属音が広場に反響した。一撃では砕けない。二撃目。三撃目。次々と騎士が天板に上がり、四方から剣が防壁を叩く。
処刑台全体が揺れた。
障壁は——保っている。だが、設計仕様上、この防壁は一定以上の連続物理衝撃に耐えるために作られたものではない。端末保護用の安全設計であって、軍事要塞ではないのだ。
ヴィオレッタは、それを誰よりも知っていた。
自分が設計したのだから。
剣撃が防壁を打つたびに、コンソール画面に振動エラーのログが一行ずつ増えていく。障壁維持の魔力残量インジケーターが、わずかに——しかし確実に——削れている。
五人目の騎士が天板に上がった。
六人目。
団長が、両手で柄を握り直した。次の一撃は、これまでと別の角度から来る——
広場の群衆が、悲鳴を上げ始めた。全国中継のスクリーンには、武装した近衛騎士が手枷の女に剣を叩きつけている光景が映し出されている。コメント欄が再び動き始めた。だが今度は罵倒ではない。疑問符と、叫びと、制止の言葉が乱れ飛んでいた。
ヴィオレッタは、そのどれも見ていなかった。
コンソール画面だけを見ていた。
右手人差し指の銀の指輪——管理者権限印が、紫色の光を帯びている。その光が、コンソールの表面に落ちて、彼女の血の跡を淡く照らした。
防壁に七人目の剣撃が叩きつけられた瞬間、ヴィオレッタは右手を動かした。
手枷の重さが指にかかる。焼断された短鎖の残骸が、かちりと音を立てた。
だが、彼女の指は止まらなかった。
シグネットの先端を、コンソールの認証スロットに突き立てた。
硬い、乾いた音が鳴った。
指輪の紫光がコンソール全体に走り、画面の表示が一斉に書き換わる。
ヴィオレッタの指が、コマンドラインに文字列を叩き込んだ。
```
> BOOT: 祝福貨・緊急保護執行規定
> MODE: 対象者保護[仮保護]
> EXECUTE? _
```
騎士たちの剣が、再び防壁を打った。
障壁が軋んだ。
広場の悲鳴が、遠い場所の音のように聞こえた。
ヴィオレッタの指先が、最後のキーに触れた。
「——愚かね」
声は低かった。増幅術式が拾ったかどうかも分からないほど、小さかった。
だが、コンソールの認証スロットに突き刺さったシグネットが、一段強い紫光を放った。
「自分の罪が全国に流れている最中に、暴力でシステムを止められると思うなんて」
画面上の『EXECUTE?』の横で、カーソルが点滅している。
八人目の騎士が天板に上がった。団長が剣を振りかぶった。障壁維持の残量インジケーターが、赤域に触れた。
ヴィオレッタの指が、キーを押した。
「『祝福貨・緊急保護執行規定』——起動」
コンソール画面が、白く染まった。
「さあ、見せてあげる。このシステムの『本当の使い方』を」
処刑台の天板が、その足元から——脈を打つように、光り始めた。




