第29話「設計者の権限(ルート)」
ヴィオレッタの指が、コンソールの魔導板を滑った。
手枷の金具が天板に当たって鳴る。その耳障りな金属音すら、増幅術式が律儀に拾って全国へ流していた。
構わない。
コンソールに浮かぶ文字列を、彼女は読む。
紫色の光に照らされた薄い板面に、六角形のグリッドが展開していた。ヴィオレッタが設計し、ヴィオレッタだけが読める管理者用インターフェイス。
その隅で、赤い拒絶ログが点滅した。
『外部アクセス要求——Loss of Authority(権限喪失)につきリジェクト』
また一つ。
『外部アクセス要求——リジェクト』
帝国のどこかで、誰かがこの回線を取り返そうとしている。当然だろう。全国中継の制御権を一介の罪人に奪われたのだ。宮廷放送局の技師か、国家魔導銀行の管制官か——それとも、もっと上の誰かか。
どちらでもいい。
拒絶ログが三つ、四つと積み上がっていく。
ヴィオレッタはそれを一瞥すらしなかった。13秒の絶対ロック。設計者が「割り込み不可」としてハードコードした最小固定時間。上位権限だろうが物理介入だろうが、この13秒間だけは誰にも上書きできない。
——そして、この13秒間に投入したものは、以後も自動で走り続ける。
それが仕様。
ヴィオレッタは、コンソール上に三つのファイルパスを入力した。
改竄不能アーカイブ。帝国の通信インフラが自動的に刻み続ける「事実の原版」。送金記録、音声ログ、映像原版——システムに刻まれた時点で、誰にも書き換えられない。皇太子にも。皇帝にも。
一つ目のパスを確定。中継ストリームへの注入を指示。
二つ目。
三つ目。
指先の擦過傷が魔導板に薄い赤を残した。構わない。
コンソールの画面上で、注入キューが三つとも『承認(Accepted)』に変わった。
巨大中継スクリーンの六角形アイコンが揺らぎ、その背後で——最初のデータの断片が流れ始めた。
見覚えのある光景の、見覚えのない部分。
群衆の何人かが首を傾げたのが、防壁越しに見えた。まだ映像の意味を掴めていない。
それでいい。
コンソールの隅で、六角形のカウンターが最後の数字を刻んだ。
ゼロ。
紫色の光が一段落ち、絶対ロックの枠が解除される。
13秒が——終わった。
*
ロックは解けた。
宮廷放送局の技師が、国家魔導銀行の管制官が、あるいはもっと上の誰かが——今この瞬間から、回線を取り返す操作を始められる。
理屈の上では。
だが、13秒間に中継ストリームへ注入されたデータは、もう走っている。仕様通りの自動継続再生。止めるには全国中継そのものを物理的に遮断するしかない。
そしてその全国中継は——レオンハルト自身が暫定直列同期で処刑台に束ねさせた回線の上に乗っている。
切れない。
自分で繋いだ回線を、自分で切ることすらできない。なぜなら、その切り方を知っているのは——この仕様書を書いた人間だけだから。
ヴィオレッタは、跪いたまま、スクリーンを見上げた。
データが流れている。
最初の証拠——救済映像の編集前原版が、全国中継のメインストリームを塗り替えていく。
*
スクリーンに映し出されたのは、帝国中の誰もが一度は見た光景だった。
レオンハルト殿下による、辺境災害への「感動の救済配信」。
白い軍服の皇太子が被災地を訪れ、子供を抱き上げ、復興資金を手渡す。涙する民。歓声。光り輝く祝福貨の雨。帝都の酒場でも辺境の村でも、あの配信は繰り返し再生され、レオンハルトの支持率を盤石にした映像だった。
だが——今スクリーンに流れているのは、その映像ではなかった。
同じ日付。同じ場所。同じアングル。
けれど「編集される前」の映像。
子供を抱き上げるシーンの——30秒前。画面の端に映り込んだ荷馬車から、積荷が降ろされている。復興物資の木箱。しかしその木箱を受け取っているのは被災民ではない。レオンハルト派の会計官の紋章をつけた役人が、木箱を別の馬車へ——帝都方面へ向かう馬車へ積み替えている。
群衆の誰かが声を上げた。
「……え?」
編集で切り取られた、残りの映像が続く。
子供を抱き上げた皇太子が去った後の被災地。物資はない。復興資金として公表された金額の入った袋もない。瓦礫の中で、誰にも抱き上げられなかった子供が、配信用の魔導灯が消えた暗がりの中に座っている。
「嘘、だろ……」
群衆の声は、まだ疑問形だった。
映像が途切れ——画面が切り替わった。
*
次に流れたのは、映像ではなく数字だった。
スクリーンの右半分に、送金ログが洪水のように流れ始める。日付。金額。送金元。送金先。
赤色祝福貨——本来は娯楽用投げ銭として決済されるべきカテゴリのデータが、途中で帳簿分類を書き換えられ、皇太子派の名義口座を経由して、最終的に裏カジノの運営資金と近衛騎士団の「特別手当」に流れている。一件、二件ではない。数百件の送金ラインが、すべて同じパターンで処理されている。
そして左半分には——音声が流れた。
ノイズ混じりだが、明瞭な声だった。
帝都中央広場の群衆だけでなく、全国の端末の前にいる数千万人が、同時にその声を聞いた。
『——その分は東部三州の復興名目で抜け。バイパスは第4経路を使え。細かいことはいい、帳簿の数字が合えばいいんだ』
レオンハルトの声だった。
音声ログに刻まれた日付は、辺境災害の復興予算が国庫から拠出された翌日。
「おい」
群衆の中から、低い声が上がった。
「おい、待て。この声——」
「殿下の、声だぞ」
次の音声が続く。
『地方塔の記録が残ってるなら壊せ。物理的にだ。担当の技師ごと処分しろ、足がつく前に。あの女の建てた塔など、どうせ無駄遣いの産物だろう』
地方通信塔。ヴィオレッタが「災害用バイパス」として全国に建設した通信インフラ。その破壊命令が——レオンハルト自身の声で、全国に流れている。
処刑台の上方で、レオンハルトが動いた。
ヴィオレッタの視界の端で、白と金の皇室礼装が揺れる。
「やめろ——!」
叫び。
金色の髪を振り乱し、レオンハルトは広場を見下ろした。その顔から、計算し尽くされた「善政の微笑み」が、完全に剥がれ落ちていた。
「でたらめだ! これは捏造だ! あの女が——処刑台を使って、帝国のシステムを乗っ取って——」
だがその声の横で、スクリーンには証拠の再生が続いていた。
音声ログが流れている。レオンハルトの声。送金記録の数字が横に並んでいる。改竄不能アーカイブのタイムスタンプが、一行ずつ積み上がっていく。
群衆が息を呑む音が、広場を渡った。
「あれ……声、同じじゃねえか?」
「スクリーンの音声と、さっきの殿下の配信の声……」
「送金の日付。あの善政配信の翌日に——裏口座に——」
声が散発的に上がった。隣の人間に確かめるような、小さな声。だが増幅術式がそれを拾い、広場全体に響かせた。
「違う! これは——この女が仕組んだ——システムを操作して——私の声を——」
次の音声ログが再生された。録音端末の固有識別番号がメタデータとして表示される。設置場所——皇太子私室の執務端末。録音日時——三年前。
群衆の中で、商人らしき男が隣の肩を掴んだ。
「あの端末識別子、皇宮の内部回線だぞ。外から偽造できる番号じゃない——」
「じゃあ……本物、なのか?」
「聞くな! 民よ、あの女に騙されるな! 私が——私こそが、お前たちの——」
スクリーンには、もう一つの音声が流れていた。過去のレオンハルトの肉声——「民のために」。そのフレーズが使われた配信の裏で、同時刻に処理されていた不正送金の記録が、横に並んでいる。
広場の空気が、変わった。
ヴィオレッタにはそれが見えた。コンソールではなく——防壁越しに見える群衆の顔が、変わっていた。
さっきまで彼女に石を投げ、赤色祝福貨で「死ね」と書き込み、処刑を娯楽として消費していた顔。その同じ顔が——石を握ったまま、スクリーンを見上げて凍りついている。
怒りは、まだ来ていなかった。
それより先に来たのは、裏切られたという認識だった。自分たちの送った金が、自分たちの支持が、自分たちの「正義」が——皇太子の懐に消えていたという事実を、目の前のシステムログが数字で証明している。
否定できない。
なぜなら——あのシステムを作ったのは、今この処刑台の上で跪いている女だから。
そして、その女を殺そうとしていたのは——あのログの主だから。
そのとき、最後の証拠が画面を埋めた。
地方通信塔——八基すべての「破壊指示書」。
指示書には皇太子の印璽が押されていた。日付は、塔が沈黙した当日。帝都の公式記録では「老朽化による設備事故」と処理されたあの八件が——命令からわずか数時間で実行された、計画的な破壊工作だった。そして実行者として記載されているのは——黒装束の異端審問官部隊。
あの塔は。
辺境の災害時に、唯一残った通信手段だった塔は。
それを「無駄遣い」と嗤った男が——自分の横領を隠すために、壊していたのだ。
「……ふざけんな」
群衆の中から、誰かが呟いた。
「ふざけんなよ」
声は、ヴィオレッタに向けられたものではなかった。
*
コメント欄を、ヴィオレッタはスクリーンの隅で見た。
文字が、滝だった。
ロック中に溜まっていた書き込みと、証拠の再生中に殺到した新規の書き込みが、同時に流れ込んで判読不能な濁流になっている。
だが、その濁流の中で、いくつかの単語だけが繰り返し浮いては消えた。
『詐欺』
『横領』
『返せ』
帝都中央広場の群衆の声が、それに重なる。
一人ではなかった。十人でもなかった。広場を埋め尽くす数千の声が——さっきまでヴィオレッタの処刑を望んでいたのと同じ喉が——今は別の名を叫んでいた。
「レオンハルト——!」
断罪ショーは、続いていた。
全国中継も、続いていた。
ただし、断罪される側が——入れ替わっただけで。
処刑台の上で、ヴィオレッタは手枷から垂れた鎖の残骸を鳴らしながら、コンソールの上に血の滲む指を置いたまま、動かなかった。
頬を伝う血が、顎の先端で雫になり、魔導板の上に一つ落ちた。紫色の光がその赤を一瞬だけ照らし、吸い込むように消した。
彼女の表情は変わらない。
感慨も、復讐の高揚も、そこにはなかった。端末を操作する技師が、予定通りのバッチ処理が正常に走っていることを確認しているだけの——あの顔。
スクリーンの隅で、赤色祝福貨の投げ銭カウンターが明滅している。だが、その色の意味を——群衆はまだ知らない。
13秒の絶対ロックは、とうに終わっている。
だが、あの13秒間に仕込まれたものは——止まらない。




