第28話「十三秒の反転」
音が、消えた。
群衆の怒号も。コメント欄を流れる嘲笑の文字列も。スクリーンが放つ魔力の低い唸りも。
すべてが遠のいて——世界が、硝子の内側に閉じ込められたように静まり返る。
ヴィオレッタの視界に映っていたのは、メインカメラの黒い瞳だけだった。
その硝子面に、光の弧が走った。
上方から落ちてくる鋼の軌跡。魔力を帯びた刃が空気を割り、凝縮された殺意そのもののような白い閃光を引きながら、弧を描いて——降りてくる。
速い。
だが、不思議と怖くはなかった。
恐怖を感じるには、思考が多すぎた。
右手の人差し指。銀の指輪。シグネットは——沈黙したままだった。最終認証コードは届いていない。三鍵は揃わない。
ミレイユ。
名前が脳裏を過ぎった。それだけだった。感傷ではなく、未着信の確認として。
カメラの硝子面に映る鋼の弧が、ゆっくりと膨らんでいく。
まだ、届かない。だが、あと数瞬。
*
*
——同刻より、少し前。
宮廷放送局、地下三層。
サーバー室の床は冷たかった。
ミレイユ・フォスキーアの頬は、その冷たい石畳に押しつけられていた。視界の右半分は暗い。左目だけが、かろうじて薄暗い空間を捉えている。
床一面に散らばった破片。叩き壊された中継盤の残骸。銅線の束が、切断された断面を晒して床を這っている。
その手前に、黒い長靴が二つ。
異端審問官の靴だった。
「——死んだか」
短い確認。もう一人の靴が、ミレイユの背中を軽く蹴った。反応はなかった。二度目。三度目は、なかった。
「時間だ。上に戻る」
靴が踵を返す音。石畳を叩く足音が、二人分、階段の方へ遠ざかっていく。
サーバー室に、沈黙が落ちた。
魔力灯が一つだけ、天井の隅でちらちらと点滅を繰り返している。不安定な明滅が、散乱した機材の影を伸ばしたり縮めたりしている。
ミレイユの指が——動いた。
右手。石畳に投げ出されたまま丸まっていた指先が、一本ずつ、痙攣するように開いていく。
爪の間に血が詰まっていた。手のひらは赤黒く濡れている。どこからの出血かはわからない。腹か、背中か、頭か。あるいは全部か。
指先が、石畳の上を這った。
一センチ。二センチ。三センチ。
目の前に転がっていた。
切断されたケーブルの、銅線が剥き出しになった断面。
あと、十センチ。
指が震えていた。力が入らない。石畳の上を引っ掻く爪が、かすかに耳障りな音を立てる。
あと、五センチ。
ミレイユの口が開いた。
声は出なかった。唇が形を作っただけだった。何の言葉かは、暗がりの中では読み取れない。
指先が——ケーブルの断面に触れた。
銅線が、血に濡れた指の腹に押し当てられる。
その手が、もう一方の断面へ伸びた。左手。こちらはもっとひどかった。中指と薬指の間の皮膚が裂けていて、骨が覗いているかもしれなかった。暗くてよく見えない。
見える必要もなかった。
左手が、二本目のケーブル断面を掴んだ。
二本の銅線の断面が、ミレイユの両手の中で——向かい合った。
血が導体になる。
赤黒く濡れた指の隙間から、銅と銅が接触する距離まで、あと数ミリ。
ミレイユの口が、もう一度開いた。
今度は——声が出た。
喉の奥から搾り出された、潰れたような、かすれた、それでも確かに空気を震わせる声。
「——いけぇぇぇぇっ!!」
銅線が、接触した。
火花が散った。
暗いサーバー室の片隅で、一瞬だけ、橙色の光が弾けた。
切断されていた回線が繋がる。復元された信号は、宮廷放送局の中継系統から帝都の基幹回線へ合流し、暫定直列同期で束ねられた全国の魔力通信網を駆け抜けていく。
帝都中央広場の処刑台——その天板に刻まれた六角形の魔導刻印へ向かって。
*
*
処刑台の上。
刃は、もう近かった。
弧を描いて落ちてくる鋼が、ヴィオレッタの首筋まで——あと一呼吸。
カメラの硝子面に映り込んだ刃の反射が、視界の上半分を白く埋め尽くしていく。
そのとき。
右手人差し指が——焼けた。
正確には、焼けたと錯覚するほどの熱を、指輪が発した。沈黙していたシグネットの銀色の表面に、内側から押し広げるような蒼白い光が灯る。
微かな振動。
違う。微かなどではなかった。
腕の骨を伝って全身に響くような、低い、重い、歯の根が鳴るほどの共振。
認証トークン——99%のまま凍りついていたデータの、最後の空白が、たった今。
埋まった。
ヴィオレッタの瞳が、一瞬だけカメラから逸れた。右手の指輪を見下ろす。
銀の指輪の表面を、蒼白い文字列が走っていた。目で追えないほどの速度で、認証シーケンスが流れ落ちていく。
設計者鍵——認証済み。
皇族鍵セッション——常時接続、有効。
第三鍵——
蒼白い文字列が、一瞬だけ止まった。
そして。
`[ 第三鍵:認証完了 ]`
`[ 三鍵照合——成立 ]`
ヴィオレッタの唇が、音もなく弧を描いた。
刃は、もう目の前だった。
**キィィィィィン————!!**
それは音というより、空間そのものが軋んだような衝撃だった。
処刑台の天板。ヴィオレッタの足元にある六角形の魔導刻印が、一切の前兆なく蒼白い光を噴き上げた。石畳の継ぎ目から、天板の木目から、鉄の枠組みの隙間から——設計時に刻まれ、数十年間一度も起動したことのなかった回路が、一斉に目を覚ます。
光が、壁を作った。
ヴィオレッタの頭上に、透明な蒼い膜が展開される。薄く、硬く、魔力の密度だけが異常に高い、一枚の障壁。
大剣の刃先が、その膜に触れた。
——次の瞬間、世界が鳴った。
金属が悲鳴を上げた。鍛え上げられた鋼が、刃渡りの中央から折れた。上半分は回転しながら虚空へ弾かれ、処刑台の手すりに激突して火花を散らす。残った柄と下半分を握ったまま、処刑執行人の巨体が——持ち上がった。
両足が天板から離れる。重量と筋力で鳴らした男の身体が、障壁から放たれた反発力に吹き飛ばされ、処刑台の端まで滑っていく。背中が柵に叩きつけられる鈍い音。折れた大剣の残骸が、カラカラと石畳の上を転がった。
同時に——ヴィオレッタの左手首に、鋭い衝撃が走った。
短鎖。
手枷から伸びた鎖が、彼女の傍らに立っていた護衛の腰帯に繋がっている。障壁の展開域は、ヴィオレッタを中心に——彼女だけを内側に収め、護衛の身体を外へ弾き出していた。蒼い膜が護衛との間を通過した瞬間、鎖の環が障壁に触れ、高密度の魔力が金属を灼いた。
短い、硬い音。
鎖が焼き千切れた。
護衛の体が障壁の外へ押し出され、天板の上でよろめいて膝をつく。その腰帯には、焼断された鎖の半分がぶら下がっていた。ヴィオレッタの手枷からは、もう片方の残骸——焼け焦げた環が二つだけ垂れ下がっている。
繋がれていた鎖は、もうなかった。
静寂。
完全な、静寂。
群衆の口が開いたまま止まっていた。コメント欄のスクロールが凍っている。全国の端末の向こうで、数千万の瞳が同じ光景を映していた。
処刑台の上に、蒼い光の檻が聳えていた。
六角形の魔導刻印を起点に、天板全体を覆う半透明の障壁。その内側に——ヴィオレッタだけが跪いていた。手枷を嵌められたまま。額のこめかみから乾きかけた血を垂らしたまま。手枷から垂れた焼け焦げの鎖の残骸が、かすかに揺れている。
だが——生きていた。
刃は届かなかった。
レオンハルトの声が、処刑台の上方から落ちてきた。
「な——」
一音。それ以上が続かなかった。口が開いたまま、黄金のウェーブヘアの下で、サファイアブルーの瞳が障壁の光に染まっている。見開かれた目に映っているのは、自分が命じた処刑が、自分の支配する舞台の上で、自分の知らない機構に阻まれたという事実だけだった。
ヴィオレッタは、レオンハルトを見なかった。
見る価値がなかった。
焼け焦げた鎖の残骸が、手枷の環に当たって小さく鳴った。右手を持ち上げる。蒼白い光を放ち続けるシグネットを嵌めた指で、膝の前方——六角形刻印の中央にある天板の一点を、叩いた。
こん、と。
跪いた姿勢のまま、手枷の重さごと指を押し込む。その一打に反応して、六角形の一辺がスライドした。天板の木目に隠されていた薄い魔導板が、数センチだけ浮き上がる。
隠しコンソール。
表面に浮かんだのは、文字列でも図形でもなく、指一本分の窪みだった。シグネットと同じ六角形の凹み。
ヴィオレッタは、迷わなかった。
右手の人差し指を、その窪みに押し当てた。
`[ 管理者認証——照合中 ]`
`[ 設計者鍵:有効 ]`
`[ 皇族鍵セッション:有効 ]`
`[ 第三鍵:有効 ]`
`[ 三鍵照合:成立 ]`
`[ ——承認]`
光が、変わった。
蒼白だった障壁の色が、深い紫——アメジストの色に染まる。
処刑台を覆っていた光の膜が、一回り大きくなった。天板の端まで広がり、巨大中継スクリーンの表面が一瞬ちらつく。全国の端末画面の隅に、小さな六角形のアイコンが点灯した。
誰も、その意味を理解していなかった。
帝国中の誰一人として。
ヴィオレッタだけが知っていた。
設計者だから。
彼女は顔を上げた。跪いたまま、メインカメラの黒い瞳を、真正面から見据えた。額の傷から薄く滲んだ血が、左の頬骨を伝って顎に届いている。
その唇が開いた。
増幅術式が、自動で彼女の声を拾う。暫定直列同期で束ねられた全国の回線が、その声を帝国の隅々まで届ける。
静かな声だった。
演説でも、懇願でも、弁明でもない。
端末を操作する技師が、ログイン完了を告げるときの——あの、事務的な声。
「管理者認証、承認」
一拍の間。
コメント欄が動かない。群衆が凍ったまま動かない。全国の端末の前で、数千万人が同じ静止画の中にいた。
ヴィオレッタの瞳が、わずかに細まった。
「——これより13秒間」
紫色の光が、処刑台の上で脈動する。
「この舞台の全権限を、私が掌握するわ」
コメント欄が——爆発した。
だが、もう遅い。
処刑台の六角形刻印から放たれた紫の光が、巨大中継スクリーンの枠を呑み込んでいく。画面が一瞬ブラックアウトし——再起動したとき、その表示制御権は、もうレオンハルトの手にはなかった。
全国の端末に、同時に。
同じ六角形のアイコンが、画面の中央に浮かんでいた。
ロック。
全国中継の、13秒間の絶対固定。
誰にも切れない。誰にも上書きできない。帝国の頂点に座る者であっても。
ヴィオレッタは、手枷から垂れた鎖の残骸を鳴らしながら、コンソールの上に血の滲む指を滑らせた。
13秒。
それは永遠ではない。だが、仕様書を書いた人間にとっては——十分すぎる。




