4節
――遠い遠い昔。大いなる星が生まれるより遥か昔。
宇宙は、ガスから誕生した。
微小な単一電子でできた雲。存在する理由を持たないエネルギー。
宇宙とは、それらが途方もなく広い虚無の中をバラバラに漂う場所だった。
それとは別に、宇宙には法則があった。この世界で唯一、絶対と呼べる常理だ。
重力。強い力。弱い力。電磁力。光子力――そして星因力。
六つの基礎的な原初の法則が、エネルギーに指向性を与えた。単一電子の雲は互いに引き合い、収束し、熱を得て――ビックバンが起こった。
エネルギーはぶつかり、繋がりを得た。原子が産まれ、分子が産まれ、物質が誕生した。
世界に水が満ちた。ケイ素が産まれ、岩石となった。物質は収束し、身を寄せ合い――そうして、初めて条理を得る大いなる星が生まれた。
宇宙はそうして誕生した。全てはガスから始まった。
幻獣や<古き者>が現れる遥か前の世界は、余りにも静かで力強い混沌に満ちていた。
――俺は、どこだ。
その原初の混沌の中で、彼は藻掻いていた。
ブラックホールに飛び込んだ瞬間に、オルトの身体は法則を失った。身体を構成する細胞が分解し、意識という現象は雲散霧消した。
細胞、光、時間……ビックバンの後に派生的に産まれた概念は全て意味を失った。
膨大なエネルギーが溶媒だった。あらゆる物がそこに溶け合い、混ざり合い、意味と指向性を失った力そのものに変わる。
――俺は、何だ。
その絶大な空間で、あろう事か彼は、そう問う。意識という存在はバラバラにかき混ぜられ、物理法則は概念から壊れているにも関わらずだ。
――何のために、ここに居る。
考える脳なんてないのに、オルトはそう思考する。思考だけが超重力の暗黒を漂う。
苦しいという感覚はない。ただ、このままでは飲まれるという漠然とした焦燥感と、『そうなってはいけない』という、それより遙かに漠然とした危機感だけが残っていた。
名前を付けるとすれば、それは『執念』と呼ぶ以外にない。オルト・ディケンズという型を失った思考が、泡のようにエネルギーの中を漂う。
――俺は、何だ。
――何のためにここに居る。
――何のため。それは、大事な事だ。
――思い出せ。
――思い出すとは何だ? それも思い出せ。
――俺は
思考の粒が問いを発する。混沌の中を、問いが漂う。
――何だ
――何のために
――思いだせ
俺は―― ――ここは
理由を――
――理由とは何だ
目的とは――
――思い出せ
――思い出せ
「抜け出す」
明瞭な意識が割り込んだ。
自分の物でないと、直感的に気がついた。
自分の物でないという認識が、自分という主観を取り戻させた。
――抜け出す。
漂う意識が、己の向かう先だと思い出した。
エネルギーが概念を取り戻す。意識が収束し、オルト・ディケンズが戻ってくる。
存在が収束する。エネルギーでしかなかった彼が集う。
散漫に溶け合っていた意識が、一つの言葉に収束する。
――連れ出す。
――誰をだ?
――どうしてだ?
――否、否。
――理由が必要だったろうか。
――必要ないのだ。
――連れ出すのだ。
――それが、俺なのだ。
超重力は物質の存在を許さない。だが意識は確固とした物になる。絶大な闇の中で指向性を持つ。「抜け出す」と「連れ出す」が呼応する。時間を失った無限のエネルギーの中を、意識が泳ぐ。
――抜け出す
――抜け出す
――連れ出す
――連れ出す
抜け出す――
――連れ出す
「一緒に、出る」
とうとうオルトは、無限のエネルギーの中で、意識と触れ合った。
求めていた物を突き止め、オルト・ディケンスという要素が歓喜の感情を弾けさせる。
今や彼の意識は、己が何者であるかも、何の為にここにいるかも思い出していた。
『彼』の意識を掴もうとする。しかし、その為の手がない。
形を持ったオルトの意識が、超重力の苦しさを感じる。エネルギーの渦が猛威となって襲いかかる。
――連れ出すんだ!
引き延ばされる意識と保てない形の中、オルトは心で叫んだ。
――コイツを連れ出す! 共に帰る!
――世界の常理だの、可能か不可能かなど、知ったことか!
――何としても救い出す! 例え、世界を崩したとしても!
絶無の空間に、オルトの覚悟が木霊する。
音にならない叫びは虚無の空間を漂い、彷徨い、ある一点で反響する。
唐突にオルトは左腕を感じた。
熱に似た感覚。それは何重にも張られたヴェールの向こうから響くように遠いにも関わらず、ジリジリと焦げ付くような強烈な力を感じた。
その力は彼自身の物ではなかった。左腕が伝えてくる飢えは、乾きは、貪欲は、生物に許される類のものではない。
虚構の中にありながら、尚も猛々しく、禍々しい輝きを放つ左腕。オルトの肉の代わりに取り憑いた金属。
旧世界の支配者たる幻獣は、宇宙の始まりの空間に帰れたことを喜んでいるようだった。
ここ、この混沌こそが自分の居場所だと言わんばかりにうなり声を上げる。その左腕を、オルトは翳した。
上下左右も、過去も未来もない。それでもオルトは腕を『前』へと向ける。
(そうだ、ウィルム。お前は星を喰らう化け物だ。獰猛な食欲で星を崩す怪物だ)
左腕に宿る意識に語りかける。エネルギーの坩堝に散漫した自分の意識を、獰猛な欲望に集中させる。
(このエネルギーを産み出す、途方もない圧力は、元々はお前の力でもある。全てを喰らい、飲み込み、己の糧とする、大いなる星の力だ)
欲望はすなわち、己の左腕だ。幻獣ウィルムは、最早オルト・ディケンズだ。
飢えや乾きを怒りに変えろ。抗う決意を籠めろ。指向性を宿せ。
(そんなお前が、この空間に飲まれる事を由とするな)
闇の中に、拍動が産まれた。存在を許さない超重力を、心臓の鼓動の如き獰猛な唸りが激しく揺さぶる。
(全て食らい付くせ。絶大なエネルギーなど、貴様の無限の欲望の前に屈服させろ)
死んでたまるかという決意を、左腕に籠める。戦士としての魂が幻獣の力に呼応する。
父親として、家族を思う気持ちは底なしだ。怪物の食欲は無限大だ。
ならば"俺達"は、どちらも同じ不退転の存在だ。
(いくぞ、ウィルム。心ゆくまで、暴れてやるぞ!)
瞬間、虚構に金属音が鳴った。
闇に出現した銀色の輝きは、すぐに膨れあがり、形を手に入れ、オルト・ディケンズの存在を浮かび上がらせる。
ブラックホールに『実存』がこじ開けられる。
全てを喰らう左腕の機構が、引力となって、ブラックホールに抗する反発力を産む。
突如として現れた反作用に、世界は拮抗を失い崩れ始めた。
闇が震える。それはさながら、世界がオルト達に戦慄しているようだった。
(闇がなんだ。虚構がどうした。全てたかがエネルギー! 見ろウィルム、ここは俺達の餌で満ちているじゃないか!)
歓喜すら上げて、オルトはエネルギーを喰らっていく。猛威振るう左腕でブラックホールを内側から啜っていく。
静謐な暗闇は打ち砕かれた。世界が震え、暗闇が軋み、音が産まれる。
止むことなき意識が声を手に入れた。概念だった身体が形を持つ。剥き出しの闘士を宿す、獣のような笑みが現れる。
「全て返して貰うぞ! この星も、息子も、何もかもを吐き出せ!」
そしてオルトは、彼が授かった奇跡を発動する。
<楔>として生まれた彼が手に入れ、幻獣に対抗するべく磨き抜いた力。
かつて幻獣を打ち倒し、人の世をこの宇宙にもたらした、<古き者>の異能。
星の力を己の武器として使う『創槍』の力が、金属の左腕と呼応する。
オルトの異能は、左腕が喰らったモノを掴み取った。奪い取り、圧縮されたエネルギーを、槍として彼の手に現出させる。
オルトの手に、白く輝く槍が握られた。途方もない力を放つ純粋なエネルギーからなる光の槍。目が潰れる程の輝きが、ブラックホールの闇に誕生する。
世界が叫んだ気配がする。暗黒の先に、巨大に膨れあがった金属の大渦を感じる。
星そのものが立ちふさがるような、絶大な質量。そこにオルトは白光の槍の切っ先を向ける。
「これが俺の力だ! 例え惑星だろうと打ち倒す! 前へ進む! 希望を手にするために決して諦めない! それが俺の――父親としての在り方だ!」
そして、オルトは全てを解き放った。
槍を叩き込む。その一撃に、己の存在意義の全てを賭す。
それは暗闇を抜け出す一筋の光芒となった。虚無に存在を灯す熱となった。
白光が闇を切り払う。ブラックホールが砕け散り、空間が空間を取り戻し、時間が常理を取り戻す。
闇の中から誕生した白は、立ちどころに空間を染め上げた。圧縮されたエネルギーが一気に解き放たれる。
原子爆発の最中で、オルトの左腕が踊る。旧世界の支配者たる欲望が、宇宙全てを飲み込むように、あらゆるエネルギーを取り込んでいく。
喰らう。喰らう。全てを喰らう。
自分の中に『星』がなだれ込んでくる。怒濤のエネルギーが体内に流れ込み、存在が破裂しそうな恐怖を感じる。
――連れ出す。
父親は、ただ一言の決意を叫んだ。
――抜け出す。
電子の只中に漂う意識が、それに呼応した。
エネルギーの洪水の中で、父は意識の残滓を掻き集める。
「一緒に帰ろう、カイン」
原子爆発の輝きの中で、父は微笑みを浮かべた。
素粒子の海の中に、彼自身の右手を翳す。混沌の底から、彼の存在を掬い上げる。
「この星を旅立つぞ。沢山の世界を見よう。まだ見ぬ物を見に行こう。幸せになるんだ……シエラと一緒に、家族皆で」
光が渦巻く。エネルギーが左腕に収束する。
意識が、オルトの右手を掴んだ。朧気な感触を、オルトは強く握りしめ、自らの元へと引き込んだ。
閃光が止んでいく。電子が原子となり、分子となり、物質となる。世界が元の形を取り戻す。
最後にオルトは、左腕を天に翳した。
左腕に収束したエネルギーは、一筋の光線として解き放たれた。
純白の光が、雲を切り払い、大気を抜け、宇宙の果ての先へと伸びていく。
まるで新たな旅路へ捧げる聖火のように。
閃光は真っ直ぐひたむきに、見果てぬ闇の先へと飛んでいった。




