3節
――惑星<イル=グゥ> 秘密基地――
長老樹の下まで戻ってから、カインはやっとシエラを下ろしてくれた。
数十秒抱きかかえられたままだったシエラの顔は、紅潮してすっかり朱色に染まっていた。
地面に足が着いた瞬間に、彼女は飛びずさるようにカインから距離を取る。
「大丈夫よ。もう、逃げたりしないから……いったた」
そう言いながら、長老樹の張り出した根の一つに、ゆっくりと腰掛ける。
斜面を転がり落ちて、あちこちに葉や泥がこびりつき、鈍い痛みがした。
さする事も、拭くことも、痛みやかゆみを取り払うことも、シエラにはできない。
彼女の両肩は金属で塞がれ、本来の役割の全てを放棄している。
「……」
カインが膝を着き、そっとシエラに手を近づけた。彼女は反射的に顔を逸らす。
「っ……」
「顔、汚れてるから……拭いてあげるよ」
言い聞かせるような、優しい声。
今度はシエラも逃げなかった。彼女の柔らかな肌に、掌がそっと重なる。
「ん……」
彼の高い体温に、思わず声が漏れた。頬を優しく包み込む感触に、背中がぞわぞわする。
カインが親指で、頬にこびり付いた泥をこそぎ取る。
薄いガラス玉に触れるような、おっかなびっくりの手つき。
彼の優しい顔が、息がかかるほどの近くにある。シエラの顔が、またかぁっと熱くなる。
「ちょ、ちょっと待って」
「ごめん。力加減がよく分からなくて……」
「それじゃ塗り込んでるようなものじゃない。私のポーチの中、ウェットティッシュが入ってるから……それ使って」
「わ、分かった」
お互いに、言葉が上手く出てこない。
気まずくて、心臓がドキドキと高鳴っている。ポーチを取りに離れる事さえ名残惜しく感じてしまう。
顔を拭かれている間、シエラは無言だった。瞳を真っ直ぐ見つめてくるカインを直視できずに俯いて、されるがままになっている。
心臓の鼓動がうるさい沈黙。先に口を開いたのは、カインだった。
「……それ、痛くない?」
シエラは僅かに肩を揺らす。肩口の金属が、木洩れ日を受けて冷たい光沢を見せている。
「もう、痛くないわ。それに痛いのにも、もう慣れた」
「……大変そうだね」
「苦労することばっかりよ。沢山の人に助けてもらって、何とかやってる」
「あの大きな船が、今の君の家?」
「ほとんどそう。一年の半分くらいは飛びっぱなしだから……いい人達ばかりよ。たまに変なのもいるけど」
「そうか……うん。それは、良かった」
身体は緊張で震えているのに、言葉は意外にもすんなりと形になる。聞こえる程の距離の呼吸が重なるのが、何となく心地よかった。
カインの手が顔から離れる。眉の下がった心配そうな顔が、シエラを覗き込んでくる。
「他に、気になる所はない?」
「そうね……ちょっと、喉が渇いたかも」
要望の通りに、カインはポーチから水筒を取り出し、ストローを口に咥えさせる。
シエラが口を窄めて、ストローを吸い、ゆっくり小刻みに嚥下する。
照れて熱くなった頬が、薄く汗を浮かべている。水を飲むのに合わせてしっとりと濡れた首筋が動くのが、妙に艶めかしく映った。
「……みへものや、はいんらへろ」
「っご、ごめん」
恥かしげな抗議の目を向けられて、カインは慌てて目を逸らした。
「そう、だよね……シエラも、もう大人なんだもんね」
「うん……そっちも、おっきくなったわね」
「前は、身長も同じくらいだったのに……何というか、僕が勝手に思い描いていた姿通りだ」
「そこは普通、おべっかを使う所じゃないの?」
「あ、違うよ、違う。思った通り凄く綺麗だって事で、別に悪口のつもりじゃ……」
カインがあたふたと手を振って否定する。
しなやかな筋肉の付いた腕。マメが潰れて固くなった掌。背丈もすっかり伸びて、シエラの頭は彼の胸くらいの高さにしかならない。
奇妙な感覚だった。面影なんてほとんど無くなっているのに、ずっと前から見慣れているような気がする。見た目よりももっと深い、内側の方で繋がっているのを感じる。
昔に戻ったみたい。しかしその感覚は幻だ。
共に木々を伝って、森を駆け回って遊んだのは、もう十年も昔。
カインは男になった。対するシエラは、もう木に登る事は叶わない。
カインは健やかに成長して一人前になり、シエラは両腕を失った。
しばしの沈黙。
山のようにある聞きたいこと、言いたいこと。その衝動が押し出すように、カインの口を動かす。
「……本当に驚いた。今日まで僕は、君はもう――」
「死んだと思っていた?」
「……」
「でしょうね……あの男なら、そういうことにするでしょうよ」
沈黙は何よりの肯定だった。シエラはそう吐き捨てる。
「何となくは、分かってるんでしょ? あの男は、私をこの星から放逐した。誰にも知らせずに私を捨て、死んだ者として扱った」
再びこみ上げて来た憎しみが、言葉を棘立たせる。
「船でアイツに会ったわ。間抜けな顔に涙を浮かべて、呑気に父親だとか名乗って見せて……吐き気がしたわ。本当、二度と会いたくなかったのに……!」
歯ぎしりして、言葉を震わせる。
何度怒っても足りなかった。腹の奥から、どす黒い感情がふつふつと湧いてくる。
一発蹴ったぐらいで収まる訳がない。殺しておくべきだったと本気で思う。
けれど、目の前にカインがいる。彼の前で宣言することは、やっぱり避けたかった。
カインは何度か躊躇って、それからゆっくりと口を開いた。
「教えてくれないかな。十年の間、君に何があったのか、父さんが君に何をしたのか……」
父親を殺したいとまで思う憎しみを、何も知らないカインに推し量る事はできない。
分からない事ばかりだ。金属の襲来に、後を追うようにしてやってきた巨大な船。最愛の妹はその乗組員になっていて、どうしてか両腕を失い、原因として父親を激しく憎んでいる。
妹が酷い目にあったという事だけは分かる。だからこそ、いてもたってもいられない。
「君の事を何も知らないのが、僕には辛い。できるなら、僕も背負って、一緒に考えたいんだ……家族だから」
十年の月日で、すっかり変わってしまった双子の妹。それが唯一の父を殺したい程憎んでいる。兄にとって、それは身を引き裂かれるような辛さだった。
シエラはしばらく押し黙っていた。
このまま彼の願いを突き放せば、その距離は二度と戻らないだろう。
兄妹という繋がりすら届かないほど、遠くに離れてしまうかもしれない。
木洩れ日がシエラの銀髪を光らせる。
穏やかな風が数度吹いた後、シエラはゆっくりと口を開いた。
「飴、ちょうだい。舐めてると落ち着くの」
カインはポーチの中から棒付きキャンディーを取り出し、シエラに咥えさせる。
カロ、と軽やかな音を立てて飴を転がし、柑橘系の酸味で口の中を潤す。
「……あんまり、面白くないからね」
そう前置きして、彼女は蕩々と、自らの事を語り始めた――




