2節
――<ヴェルダンディ>中階層 シャワールーム――
温かな水が、疲弊した身体を優しく包み込む。
立ち上る湯気が肌を潤し、シャワールームを温みある空気で包み込む。
心地よいお湯を頭から掛け流しにしても、シエラの仏頂面は全く解れようとしなかった。
彼女の細くしなやかな裸体に、濡れそぼった白い髪が張り付く。温水が肩口から断ち切られた断面を流れ、そこに埋め込まれた金属の機工を、無機質な光沢で光らせる。
命のやりとりを終えて、身体がやっと安寧を知覚する。本来であれば、そういう素晴らしい時間のはずなのに。今のシエラは、身体に張り付く白い髪――あの男と同じ色をしたそれに、怒りすら湧いてくる始末だ。
美しく凜とした顔には深い皺が刻まれ、桃色の唇の隙間からは強く締められた歯が覗く。
幻獣を取り込んだアロイを下した功績も、艦長直々の賞賛も、まるで心に響かない。
彼女の不満を表すように、肩口の機械が軋み、小さな音を立てる。
シエラの心にこびり付いているのは、たった一つだけ。
気に食わない、気に食わない。気に食わない!
「っ――」
彼女の為に膝の高さに作られたレバーを、思い切り引っ張る。途端にお湯が冷水に代わり、彼女に降り注いだ。
身を切るような冷たさに総毛立つ。条件反射的に身体が跳ね上がり、声が上がりそうになる。
血管がぎゅうっと収縮し、朧気に漂っていた思考が一気に引き戻される。
それでも、不快な感覚は変わらない。
瞬きの度に、あの男の顔を思い出す。
お前の父親だと、何も知らないでほざかれた言葉がリフレインする。
シエラの腸を焦がす物は、冷水で収まるような生半可な怒りではなかった。
「ああもぉ……ムッカつくぅぅ……!」
腹の内でぐるぐると暴れる感情に、シエラはたまらずそう漏らす。
今すぐにも暴れ出してしまいたい。もし今腕に<ハーピィ>が付いていたなら、目一杯に引き延ばして、あらゆるものを切断してしまうだろう。
地団駄を踏むシエラ。そのびしょ濡れの身体に、バスタオルが被せられる。
「荒れてるなぁ……」
バスタオルを投げたゼルは、溜息を一つ。身体の水気を拭き取ってあげながら、シエラをやんわりと窘める。
「一人も被害を出さないなんて、大健闘だったじゃないか。少し落ち着けよ」
「これが、落ち着いていられる訳ないでしょ……!」
「ちょ、暴れるなよ。ちゃんと拭かないと風邪引くぞ」
タオルにくるまれたてるてる坊主状態のシエラを、ゼルがやんわりと押さえ込む。
「本っ当に最悪。何もかもがムッカつく! あの男、もう八発ぐらい蹴っておくんだった、いや寧ろ<ハーピィ>を付けておくんだった……!」
「んな物騒な……っていうか、なんでオレがシエラのシャワーに付き合ってるんだよ……誰か女性の仕事だろ、これ」
バスタオルを被せる前は、当然ながら一糸纏わない裸だった。先ほどからゼルは、ちらっと見えただけで頭にこびりついている彼女の裸を吹き飛ばす格闘をずっと続けている。
両腕を欠損しているシエラは、身体の水気を取ることはおろか、秘所を隠すことすらできないのだ。そのため<ヴェルダンディ>の航行中は、必ず一人以上が彼女の身の回りの世話に付くことになっている。特にトイレや風呂といった、極めてプライベートな事は、大抵同性のスタッフが行うようになっているのだが。
「あなたじゃなきゃ、気兼ねなく当たり散らせないでしょ。私の気持ちをくみ取れるのは、今はゼルくらいなんだから」
「誰でも当たり散らすなよ、もう……」
シエラのショーツを腰まで引き上げながら、ゼルは心の中だけで悶絶した。もちろん、父親への怒りに取り憑かれたシエラは、彼の胸中の葛藤など知る由もない。顔を真っ赤にしたゼルに「ありがと」と素っ気ない御礼を返して、立ち上がろうとする。
「あ、ちょっと待てよ。まだドライヤーかけてないだろ」
「いいわよ、面倒くさい」
「じゃあ、せめて纏めるだけしとけよ。髪留め持ってるから」
むっつりとふて腐れた顔のシエラを強引に座らせて、肩まで垂れた髪を持ち上げる。
僅かな沈黙。先に口を開いたのはゼルだった。
「本当に、ここがお前の故郷で、お前の親父が居たんだな」
「……そうよ」
「いいのかよ? お前、昔からずっと……」
「うるさい。口を出さないで」
髪をアップに纏めたシエラは、ぴしゃりとゼルの言葉を断ち切ると、いてもたっても居られないとばかりに立ち上がった。
「ちょ、どこ行くんだよ?」
「散歩」
「散歩って! 待てよ、惑星環境分析はまだ……!」
「私はここに住んでいたのよ? 危険な訳ないでしょ」
泡を喰ったゼルをほとんど無視するようにして、シエラは居住区を抜けて、エレベーターで下に降りる。
「ダメだよシエラ。もう一つのベルカ反応体が、森に消えたまま見つかってないんだ。まだ安全が保証されてないんだぞ」
「二回同じ事を言わせないで……アイツと同じ空間に居るとか、耐えられないの。分かった? 分からなくても分かって」
有無を言わせない口調。エレベーターが最下層の格納庫に到着する。
ゼルはそれ以上食い下がる事ができなかった。髪をくしゃくしゃと掻き乱して唸る。
「監督責任で怒られるのはオレなのに……なら、せめてコレも持ってけ。万一のために」
そう言ってゼルは、懐から重厚な黒いケースを取り出した。拳二つ分くらいのそれを、簡易通信機と一緒にシエラのポーチに詰め込み、肩にかけさせる。
「気が晴れたら、ちゃんと戻ってこいよ。いいな!?」
「分かってる。気が晴れたら、ね……」
まるで二度と戻らないような含みを籠めて、シエラは後部ハッチから降り立った。
船外で作業していた<ヴェルダンディ>スタッフは、シエラの言外の威圧を受けて、誰も止めに入らなかった。ゼルの心配げな視線を遮るように、森の中へと踏み入る。
両腕の重さがない分、シエラの身のこなしは軽い。茂みを飛び越え、ずんずんと森の奥へと踏み込んでいく。
木の根に足を取られるような心配はなかった。自分でも驚く程に、シエラは故郷の事を覚えていた。足に感じる土の感触。穏やかな鳥のさえずり。吸い込む空気の味さえも。
「……」
本当に、自分の故郷だ。
目で見るだけでは、実感できなかった。
あの男に出会った時は、怒りで我を忘れてまともに感じられなかった。
こうして一人になって、肌で感じて、ようやくその事実を、胸の内に落とし込む。
大自然の包容力に、怒りが徐々に解けていく。言葉にできない虚しさだけが残った。
感慨深く息を吸い込み、シエラは一人歩き、草を踏むさくさくという足音を奏でる。顔の高さに生えた枝葉を頭で押し上げ、不揃いな地面を慎重に踏む。
転んでも、大地に落ちる自らの身体を受け止める事ができない。一つ一つの挙動に、神経を使わざるを得ない。両腕の無い不自由を改めて思わされて、うんざりとした気分にさせられた。
目的地を定めていた訳ではなかった。だが、記憶の光景と重なる度に、昔の自分の笑い声を聞いた気がした。デジャビュに誘われるように、森の奥へと踏み行っていく。
やがて大きな切り株が目の前に現れ、シエラは足を止めた。
遠い昔に、雷でも落ちたのだろうか。噛み砕かれたようなギザギザの断面にはツタが絡まり、それが淡い白色の花を控えめに咲かせている。
「……のこぎり株を、左」
口をついて出た言葉に、シエラは殆ど機械的に従った。先を急ぐように、足が前に出る。
――ねじ巻き百合に右ならえ。
――日和見草はそっぽ向き。
――そこのけそこのけ、道開けろ。猫葛の御膳である。
昔作った秘密の歌が、鮮明にリフレインする。目印にしていたものは全て、記憶のままの場所にちゃんと存在していた。草が間引きされ、明らかに手を加えられているものもあった。
記憶の中の自分を追いかけていくと、やがて眼前の景色が急に開けた。
老齢の木がそこにあった。乾いた幹はぐにゃぐにゃとねじれ、小動物の住処になりそうな小さな虚があちこちに開いている。
勝手に長老樹と呼んでいた樹木は、森にできた小さな広場を見守るように、変わらず静かに佇んでいた。
「……」
予想を越えた光景に、シエラは僅かに目を見開き、静かな吐息を漏らした。
記憶通りの光景が、ここにある。変わってしまわないように、細やかな手が加えられていた。記憶を風化させないようという、強く優しい意思を感じられた。
張り出した根を越して長老樹の幹に近づく。固い幹の根元には、削って付けられた横線が、何本も走っていた。
『カイン』『シエラ』――横線の上には、成長を示す名前がくっきりと掘られている。
シエラの背丈を記した線は、彼女のおへそ程の高さで止まっている。
もう片方の横線は、彼女の身長を超しても尚、続いていた。
「――ここなら会えると思ってた」
頭上から声が降ってくる。
顔を上げれば、樹木の枝の一つに腰掛けて、白髪の少年が、シエラを見下ろしていた。
「内緒の場所。父さんも知らない秘密の庭……暗号を知っているのは、二人だけだ」
そう言って、彼は穏やかな微笑を、更に深めて見せた。
少年は軽やかに大地に降り立つと、長老樹を挟んでシエラに向かい合う。
「壊れないように修理していたのは、思い出を忘れない為だった。僕は二人で一つだったんだって、忘れない為に……けれど君を見た瞬間に、有り得ない想像が頭に浮かんだ」
慈しむような優しい目は、今にも涙をこぼしてしまいそうに潤んでいる。
「他人の空似かもしれない。僕の甘い現実逃避が幻を見せたのかもしれない。けれど、もし夢じゃなかったら……きっと君は、ここに来てくれると信じていた」
「っ……」
彼が一歩踏み出す。
反射的に、シエラは彼と同じだけ後退した。
喜び一色だった彼の顔が、僅かに曇る。
「……君は」
「人違いよ。私は……」
「そんなはずはない。現に君は、ここに来たじゃないか」
少年が近づく。同じだけシエラは後退する。
シエラを呼ぶ少年の声が、次第に悲痛なものに変わる。
耐えきれず、シエラは逃げ出した。踵を返し、少年に背を向ける。
「っごめんなさい」
「待ってくれっ。どうして逃げるんだ!」
悲痛な声が追い縋る。シエラにとってそれは、振り払えない悪夢のようでさえあった。
「ずっと、夢に君の事を見てきた。どれだけ時間が経っても忘れられなかった」
自分もそうだ。何度も夢に見た。絶対に忘れられなかった。
「あの時からずっと、君に会いたかった」
「やめて」
自分もそうだ。二度と来ない再開を、想い続けてきた。
枝を頭で払いのけると、葉が髪の毛に絡まって痛みを訴える。
バランスを崩すと、途端につんのめりそうになる。
両肩に取り付けられた金属の機工が、彼の声を聞く度に軋んで、痛い。
「やっと……やっと会えたのに! どうして!」
「付いてこないで……!」
自分も彼と同じ気持ちだ。
けれど……それでも自分は、会いたくなかったのだ。
失った両腕が痛い。金属の軋みが辛い。
「シエラ!」
「私にはもう、あなたに会わせる顔なんてないのよ!」
叫んで、悪夢から逃げるように速度を上げる。その足が、不意に宙を切った。
「え……」
視界がぐるりと回り、大地が迫る。切り立った急斜面に、シエラは飛び出していた。
腕のないシエラに、受け身など取れる筈がなかった。飛び出した勢いのままに、頭をしたたかに打ち付ける。柔らかな土とはいえ、不意の衝撃に意識がぐらりと揺らいだ。
身体が弾み、斜面を転がり落ちる。身体が土に塗れ、はみ出した根に叩き付けられる。
石ころのように転がり落ちる、一本の木が、彼女の背骨をへし折ろうと待ち構えている。
あわや激突という一歩手前で、シエラの身体は横から現れた少年に攫われた。
少年はその勢いのまま、苦も無く斜面を駆け上がり、平坦な場所へ降り立つ。
だき抱えられたシエラ。少年の顔が、すぐ目の前にあった。
「……会わせる顔がないとか、そんな事言わないでよ」
喜びに震える声。宝物を守るような温かな手。
「資格なんて必要ないだろう……たった二人の兄妹じゃないか、シエラ」
一度も名乗らなかった名前を呼んで、カインは両目から、静かに涙を溢れさせた。




