月夜の求婚
皇后宮は、久しぶりに華やいでいる。決戦の日から三十九日目、ようやく、皇帝陛下御来訪の先ぶれが届いたのだ。主であるうら若き姫さまが、時々ぼんやりと窓の外を眺めている理由を、侍女たちは察している。
執務終了後すぐに来られる予定だったのだが、夜になっても皇帝陛下が来られる様子はない。侍女たちは、戸惑った。セーラは、いつにもまして美しく着飾っている。だが夜は更けていくばかり。このままでは就寝準備の時間になってしまうのだ。
侍女長は、持っていた扇を固く握りしめた。皇帝陛下は、先ぶれを出したあとも、仕事に熱中しているのだろうか。先ぶれがあってから、そわそわと落ち着かないセーラの為に、侍女長は、もう一度皇帝陛下に謁見することも、いとわない勢いで扉を開けた。
そしてあっけに取られて棒立ちになり、ゆっくりと深々と礼をした。殊更に大きな声で挨拶をする。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
その一声で、背後の侍女たちが、すぐにセーラに報せに走り、あるいは場を整え始める衣擦れの音がする。
そしてやはり扉の前で、棒立ちになっている皇帝陛下を促した。後ろに控えた護衛達の表情で、皇帝陛下がしばらく、扉の前で佇んでいたことが分かったのだ。
「陛下、姫さまがお待ちかねです。何をご遠慮なさっていらっしゃるのでしょう」そう言って目顔で入室を促した。
実のところジークフリートは扉の前で、佇んでいた。高らかに皇帝の到着を伝えようとする共の者たちを手で制し、最高の求婚方法について、思いめぐらせていたのだ。
『ここはやはり花束の方が良かっただろうか?ネックレスはやはり真珠の方が良かったのでは。何と言おう。結婚して下さいか?いや、それは陳腐すぎるかも知れない』そうして考え込んでいるときに、侍女長が、ジークフリートの到着を、知らせてしまったのだ。
侍女長に見つかってしまって、ジークフリートは、覚悟を決めたように入室する。それと同時にセーラが、ジークフリートの前まで急ぎ足でやってきた。上品さを繕う余裕もなさそうで、頬はバラ色に上気し、瞳は喜びに輝いている。
待っていた。待ちかねていたと、セーラは全身で訴えていたから、ジークフリートは己の逡巡が可笑しかった。どんな求婚でもセーラはそれが自分からなら、喜んで受け入れてくれる。
久しく見なかった無条件の喜びは、あの星の欠片を探していた少女のものと、全く変わっていなかった。賢夫人と評価され、聖女と崇められても、セーラの本質は、一途にジークフリートを見つめていたあの健気な少女のままなのだ。
ジークフリートは、セーラの指先に口づけを落とした。あの日、まだ自分が何者かも分からない、あの幼気なセーラに、黒ダイヤのピアスを贈った時のように。
セーラはあの頃と、同じようにはにかみと、誇りをその目に宿して、じっとジークフリートを見つめている。さやさやと衣擦れの音と共に侍女たちが消え、心地よい静寂が二人を包んでいた。
「セーラ。今宵は月が美しい。二人でテラスに出てみないか?」
セーラは、そっとジークフリートの肘に手を滑り込ませることで、それに応えた。エスコートしろと言うのだ。ジークフリートは、口元を少し緩めた。幼かったセーラは、少しだけ大人になった。昔ならセーラは、ただ頷くことしか出来なかったから。
テラスも美しく飾り付けられていた。きっと二人が此処に来るだろうと知っていたかように。ジークフリートは、初めて侍女長に感謝した。テラスに溢れる花々は、月の光を受けて咲く夜行花ばかりだ。その香りは人を甘く誘うから、恋人たちの花とも呼ばれている。
テラスにはむせ返るような花の甘い香りと、月に照らされた柔らかい闇が広がっている。ジークフリートは跪いた。セーラが、少し息を呑み込む小さな音が聞こえた。ジークフリートは甘く激しい熱を込めてセーラを見つめる。
「セーラ。どうか私、ジークフリート・フォン・アストラルの妻になって下さい。私の隣に立つのは貴方だけです。私の求婚を受け入れて下さい」
セーラは、ほんの少しだけ黙っていた。静寂の中に遠くで鳴く梟の声が、セーラの返事を促すように聞こえてくる。一拍、二拍、三拍目にセーラは口を開いた。
「お受けいたします。私の皇帝陛下。私の愛は貴方のものです。」
セーラの返事は、緊張の為か少し震えていた。ジークフリートは立ち上がると、セーラのほっそりとした首に、ネックレスを付けてやる。常に共にあれるように、そのネックレスは、細い金のチェーンでカメオが下げられている。
皇帝ならば、どんな高価な宝石でも用意できる。けれどジークフリートは、真っ白なカメオに自分の顔を彫らせたのだ。それはとても軽かったから、セーラの細い首に負担を掛けなくて済むだろう。
セーラが嬉し気にカメオを指でつまみ、見入っている。ジークフリートは自分の胸元から、同じように下げていた、カメオを取り出して見せた。そこには、はにかむように笑っているセーラの顔が彫られていた。
皇帝の肖像画は、どれも凛々しく厳めしく描かれる。だがジークフリートがセーラに渡したカメオは、セーラを見つめて優しく笑う顔だった。いずれ皇后になったセーラの肖像画も描かれるだろう。皇后らしい気品に満ちた肖像画として。
二人は、お互いの肖像画を愛おし気に眺めていた。ジークフリートは幾つも用意した贈り物の中から、これを選んでよかったと思っていた。この美しい月夜に相応しいのは、きっとこの素朴な貝殻に彫られたカメオだったから。
ふたりが無事に求婚を終えたと思ったのだろう。気がつかない内に、侍女たちがやって来て、お茶の準備を始めた。二人が寄り添って月を眺めているうちに、湯気が立ち上り、お茶の匂いが立ち込める。
ジークフリートは、セーラをそっと椅子に誘った。夜になると、秋風が季節の移り変わりを主張するように、すこし冷たさを増している。温かいお茶は、丁度良い温度で二人を包んでくれた。
セーラがぽつりと言った。
「ジーク。本当に私でいいの?」
ジークフリートは、きっぱりと言った。
「君がいい。君だけでいい」
そうして二人は、また黙って紅茶を飲んだ。
最初の出会いの時、セーラは、雪降る夜に星の欠片を探していた。もしも運命が意地悪だったら、セーラは、星の娘になっていたかも知れなかった。だがセーラの無垢の善意が、星の娘事件の真相を暴いた。
そうしてセーラは、黒龍の残した守護のブラックダイヤのピアスによって、まさしく皇国の守護者であることを証明した。二人の耳元で守護者の証が、鈍い光を放っている。もう一組のピアスは、セーラの両親であるフィクトス公爵夫妻の耳元を飾る。
ジークフリートは、少しばかり不思議だった。求婚したら、何かが劇的に変わるかも知れない、と思った。そしてそれが何となく怖かった。恋人同士の甘やかな時間が、公的なそれに変るようで。
けれどもセーラは、何も変わらなかった。ただ黙って、ジークフリートの傍にいる。ただ少し変わったのは、それが当たり前になったことだ。セーラの少しだけ遠慮するような、どこか不安げな様子は、無くなった。当たり前に、ジークフリートの傍にいる。
それを確認してジークフリートは、正式に求婚して良かったと思った。番だから結婚するのは当たり前だ。ジークフリートには、当たり前だったその想いは、セーラには、きちんと伝わっていなかった。ようやくセーラは、自分の居場所にすっぽりと収まったのだ。
ジークフリートは、ふっと空を見上げた。月明かりが、二人を照らしてくれている。セーラも、月を見た。そして呟く。
「綺麗だわ」
「美しいね」
ジークフリートもそう言って、二人は黙って月を眺めた。二人の笑顔が、温かい紅茶に溶けてゆく。きっと生涯、この月の美しさを忘れないだろうと思いながら。




