皇后
ベルベット皇后は、既に皇后宮に戻っていた。
あの大精霊降臨の後棺の中に我が王、ライアン皇帝の姿を見た時のことは、ほとんど覚えていない。
安堵を感じたのか?それとも悲しみだったのか?
その瞬間、ベルベット皇后は自分の時間が凍り付いたことを知ったのだった。
心が死んでしまったのかもしれない。
周囲が自分を気遣っているのは理解できる。
けれども、それが皇后の心には何の影響も与えない。
当たり前だった。
死んだ心が何かを感じるはずはないのだから。
ライアン皇帝の棺は既に皇后宮に安置されている。
本来なら今夜は通夜。
遺族が一夜、亡くなった者の傍に侍り、最後の別れをする時間。
有能な侍女長は、既に全ての手配を終えていた。
しかし皇后は「ご苦労様」と言ったきり動こうとはしなかった。
ただ人形のように椅子に座ったままなのだ。
侍女長は、困惑した。
これはかなりまずい事態なのではないか?
皇后陛下は普通ではない。
悲しんでもいない。怒りもない。
感情を全て失ったような顔。
虚ろ。
そう。皇后陛下の心は虚ろになってしまった。
ぽっかりと空いた穴を埋めることが出来なければ、皇后陛下はこのまま。
侍女長は、急いで皇帝陛下の元に向かおうとした。
その時、皇帝陛下がやって来られたのだ。
侍女長はほっとしたが、報告を躊躇した。
まさか皇帝陛下まで心を病んでしまうことは無いと思うが、このような話をお伝えしても良いものだろうか。
侍女長の逡巡を、ジークフリートは目ざとく見つけた。
常に冷静な侍女長が、言葉を探している。
母上に何かあったのだ。
「報告しろ」
有無を言わさぬ命令が、侍女長の逡巡を吹き飛ばした。
「申し上げます。皇后陛下の御心は、既に虚ろでございます」
「虚ろ。母上が心を壊したと言うのか!
皇国の母ともあろうものが皇帝を失っただけで心を壊すなど、世迷言を申すとそなたといえども許さぬぞ!」
ジークフリートとて、わかっている。
母は皇后たらんとして、常に自分を律してきた。
フィクトス公爵家の娘として。
いや、真実フィクトス公爵家の実子ならまだ良かった。
しかし母は傍系の娘。
父が見染めてフィクトス公爵家の養女に入ったのは、結婚の一年前だ。
その一年。
母はフィクトス公爵家の娘になり切ろうとして、必死だっただろう。
フィクトス公爵家は将来の皇后陛下として、丁寧に遇した。
しかし情愛を持つ暇さえ、与えられなかっただろう。
フィクトス公爵夫妻は常に仕事に忙殺されていたし、母も皇太子妃としての教育を受けなければならなかった。
兄妹たちはどうだろう?
シーフの様子を見る限り養女となった美しい娘を、妹と言うよりは将来の主として見ていたはずだ。
私の、皇太子殿下の婚約者。
それを妹として扱うなど、忠実なフィクトス公爵の息子がするはずもなかった。
孤独な母を癒すことが出来たのは、父だけだった。
生家は娘が本家に入った瞬間から、臣下となったのだから。
フィクトス公爵家の娘として、皇后として、母は常に努力を続けた。
父が亡くなれば、母の生きる意味は消えてしまった。
父も、母さえも信じていた筈だ。
母が皇后として、この先も私を支えるだろうと。
強くあろうとした母。 そして実際に強くなった母。
だが強く立派であるからこそ、母は折れてしまった。
ジークフリートは、母がぽきりと折れた音が聞こえてしまった。
これ以上追い詰めてはならない。
ジークフリートは、己の愛しい婚約者の顔を思い浮かべた。
自分でも無茶だと思う。
セーラは幼龍の養育と、黒龍の治癒に忙殺されている筈だ。
けれどもジークフリートは迷わなかった。
「皇后陛下はご病気だ。既に療養の地に送った。
さよう心得よ」
「お待ち下さい。私もお連れ下さい。
私の居場所は皇后陛下のお傍。そう決めております」
覚悟した者の目。
ジークフリートは、深々と重いため息をついた。
「我が国の忠臣どもは、どうしてこんなにも頑固なのだ」
セーラは困るだろうか?
ステラ様はお許しくださるだろうか?
クラウスはあきれ果ててしまうだろうなぁ。
それでもジークフリートは、この健気な老侍女の頼みを、無下には出来なかったのだ。
母と侍女を伴って黒龍の居住地に転移したジークフリートに、セーラは驚いたようだ。
「ジークフリートさま。皇后陛下。どうなさったのですか?」
しかしすぐにセーラは、皇后の様子が普通でないと気づいたようだ。
「皇后陛下をこちらへ」
侍女長は皇后陛下と共に、セーラの案内する場所に向かった。
ジークフリートはそのまま、まっすぐにクラウスの元に行く。
「おや、ジークか。そなたが来たという事は、皆逝ってしまったのだな」
ジークは跪いた。
ジークが口を開く前にクラウスが言った。
「ベルベットの面倒くらいステラとセーラが見てくれるさ。
そんなに悩むな。
そもそも番は相手が亡くなると、長くは生きることが出来ないものなのだ。
皇城にいてもここにいても結果は同じだ。それで良いのか?」
「ありがとうございます。
あそこにいれば、母は興味の目に晒されます。
残り少ない命ならば、せめて最後くらい安らかに過ごさせたい。
申し訳ありませんが、どうぞお願いします」
「お前も大変だな。皇后も、聖女もいない。
孤立無援だろう。なるべく早くセーラを返すよ」
「いいえ、覚悟はできています。
セーラを返していただいても、服喪期間は何もできません。
一年後に迎えにきます。
母はそれまで持たないのでしょう?」
「ああ、心が虚ろになった者は、もってもひと月。
多くは一週間ほどの命だ。
正確にいえば、既に死んでいるのだ。
大抵はその場でショック死するのに、気丈なゆえに持ちこたえただけのこと。
既に寿命は過ぎている」
「そうなのですね。母は父と共に逝ったのですね。
今宵はひとりで両親を偲びます。お世話をお掛けしました」
去ろうとするジークをクラウスが引き留めた。
「馬鹿を言うな。一人で野辺送りなど、辛気臭い。
今宵は、俺ととことん飲め。付き合ってやろう」
「しかし、クラウス。貴方は……」
「おいおい、龍が怪我くらいで酒量が衰えるとでも?
こんなざまでも、お前よりは強いさ。
試してみろ。龍の酒は強いぞ」
「後悔しても知りませんよ」
「ふん、そっちこそ。
さぁ、そなたの知らない父や母の話をたっぷり聞かせてやろうじゃないか」
そうして賑やかなのに、しみじみとした酒宴が始まった。




