第4話 三十路にもプライバシーってもんがある
「――仁! こっちだ!」
暗い通路の前方で、背中越しに隊長が叫んだ。
「はい……っと……!」
俺は必死に返事をし、その背中を追った。
踏みしめた靴が血で滑り、何度も転びそうになりながら。
「頑張れ! あともう少し――」
ぐちゃっ。
隊長の頭上から、巨大な漆黒の腕が振り下ろされた。
指の隙間からヘルメットが転がる。
少し、赤い中身が残っていた。
「た、隊長……!? そん……な……」
「見るなバカ! 走れ!!」
誰かが追い抜きざまに、足を止めかけた俺の腕を引いた。
どちゅっ。
次の瞬間には、その誰かの腕から先が無くなっていた。
俺の腕にぶら下がった手首から、鮮血が噴き出す。
また黒い腕が振り回され、真っ赤な血とともに別の誰かの断末魔。
赤、黒、赤、黒。
明滅する視界の中で、俺は力無くへたり込んだ。
「仁……助けてくれ……!」
「仁! こ、こっちに来てくれぇ……!」
「ああああああ! 仁んんんん!」
仲間の声が脳内に響く。
頭が痛い。ガンガンする。うるさい。
「うう……! もう、やめてくれ……!」
俺は両手で耳を塞ぐ。
「俺じゃ……落ちこぼれの俺なんかじゃ、無理なんだよォ!!」
叫びながら、頭を力いっぱい地面に叩きつけた――
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――ぽにょんっ
「……ん?」
感触がおかしかった。
硬くない。痛くもない。
硬い石床が待っているはずなのに。
むしろ柔らかくて、気持ちいい。
妙に弾力があって、落ち着く温かさで、ふにふにしている。
「なん、だ……」
ゆっくり瞼を持ち上げる。
視界いっぱいに、肌色が広がった。
「えっ」
何だコレ。夢か?
いや、夢にしちゃ妙にリアルだ。
色合いも質感もだし、それに不思議な甘い匂いまで。
俺は恐る恐る指を伸ばした。
――ふよん。
「あん……」
「うおっ!?」
甘ったるい声が頭上から落ちてきた。
俺は反射的に身を引いて、目を瞬かせる。
枕に広がるベージュの長髪。
すうすうと幸せそうな吐息。
ベッドの中で、見覚えのある女が添い寝をしていた。
素っ裸で。
「ちょっ、おまっ、何やって――」
「みかげせんせぇ……」
「んぐっ!?」
ばふんと抱き着かれ、胸に顔が押し込まれる。
叫ぼうとしても口が潰れて、ろくに言葉を発せない。
まずい。これはまずい。
男しては天国みたいな状況なのかもしれないが、んなことより窒息する。
過酷なダンジョン業界を20年生き抜いた男の終わりがベッドの上とは、何とも情けない。
「んんんんんっ、んー!!」
「せんせぇ……もうすこしだけぇ……」
「もががっ!?」
もう少しも何もない。
俺の人生がもう少しで終わっちまう。
俺は両手で相手の肩を掴み、力を振り絞って引っぺがした。
「ぶはっ……」
お帰り、新鮮な空気。
肺が生き返ったよ。
そして俺は、寝ぼけ女の顔を見据えた。
淡い栗色の長髪に、透き通るような白い肌。
眠たげに伏せられた長いまつ毛。
記憶より大人びてはいるが、柔らかく垂れた目元に昔の面影がはっきりと残っている。
「――起きろ朝比奈!」
「はぅぅ……?」
世界ランキング19位。
そして、5年前から俺との距離感を何一つ学んでいない女。
『朝比奈 柚葉』が、そこにいた。
「あ……先生、おはようございますぅ」
「おはようございます、じゃねーだろ……」
朝比奈はのそのそと身体を起こし、ベッドの上で膝を折る。
流石に裸なのはまずいと思ったのか、毛布を上から羽織った。
寝起きのせいか、その瞳にはまったく警戒心が無い。
……いや、んなもん昔から無かったか。
「ちょっと待てよ、今思い出すから」
「ほえ? 何をですかぁ?」
「昨夜の記憶だよ」
俺は今、パンツ一丁だ。
同じベッドで寝ていた朝比奈も、ほぼ全裸だ。
しかし、何もなかったと思う。
いや本当に。何もなかったはずなんだ。
だが万が一があっては困る。
というか朝比奈の場合、何らかの手段で俺に変な薬とか飲ませてきててもおかしくない。
「昨日は確か……そうだ。俺はダイバーの指南役になったんだよな」
「指南役ぅ!? 先生がですかぁ……!?」
垂れた目を見開く朝比奈をよそに、俺はうーんと唸る。
「……で、訓練施設に近いからってことで、ホテルじゃなく協会の宿舎に泊まらせてもらうことになって」
そうだ。ここは宿舎だ。
さすが天下のダンジョン協会、宿舎とはいえ立派な部屋ですなあ……なんて思った記憶がおぼろげにある。
「翌朝の集合時間を決めて、文月と別れて……で、呑みを中断させられたもんだから、コンビニで酒とつまみを買って、部屋で呑みなおして……」
で、そのまま寝落ちたんだ。きっと。
ということはつまり。
俺は目の前の朝比奈を見る。
彼女は毛布に包まったまま、にこにこと俺を見ていた。
「何も無かった……よな?」
「はい、何もぉ」
朝比奈はこくりと頷き、優しく笑う。
俺はほっと胸を撫でおろした。
「……で、何でお前がここにいるんだよ」
「昨晩少し用事があって協会に来たらぁ、幹部の方たちが集まってひそひそ話してる所に出くわしたんですぅ」
「ほう」
「そしたら何とぉ、先生が協会に来たって言うじゃないですかぁ……!」
「なるほどな」
「先生が来たらしい会議室に行ってぇ、そこからくんくんって匂いを嗅いでここまで辿りつきましたぁ」
「えっ」
俺は慌てて、ソファにかけてあった自分の服を嗅いだ。
臭いを追ってきた?
協会からここまでちょっと距離あるぞ?
俺そんな公害みたいな臭いしてんの? やばくない?
明日からファブリーズで全身湿らせてから外出た方がいいのか?
「って、そうじゃなくて」
俺はぶんぶん頭を振った。
「どうやって部屋の中に入ったんだよ。鍵してたろ?」
「ふふん……!」
朝比奈は得意げに、背後から鍵をちゃっと取り出した。
「宿舎はマスターキーがあるのでぇ……!」
「あるのでぇ、じゃねえよ。普通に犯罪だからなソレ」
「あぁん、つい出来心でぇ」
「犯罪者の言い訳じゃねえか」
俺は深くため息をつき、ソファの背もたれに体重を預けた。
酷く頭が痛い。寝酒のせいか朝比奈のせいか……夢のせいか。
「……ま、物申したいことはたくさんあるが、息災で何よりだ」
俺が言うと、朝比奈はぱあっと顔を明るくした。
「はい。お久しぶりです、先生ぇ」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
その拍子に肩から毛布がずれ落ちそうになる。
俺は慌てて視線を逸らした。
「ちょ、とっとと服着ろ服!」
「でも私、寝る時はいつもこれでぇ」
「だからここで寝るな! 出てけ!!」
俺は部屋の扉を指さした。
朝比奈は薄茶色の瞳を潤ませる。
「やっと会えたのに酷いですぅ、くすん」
「口でくすんって言うな。……泣きたいのはこっちだよ」
「あーっ、私に会えて嬉しくないんですかぁ?」
「嬉しい嬉しくない以前に状況が悪すぎる」
俺はこめかみを押さえた。
「あのな。お前ももう有名人なんだから、こんなおっさんの部屋に出入りしてるとこ見られたらマズいだろ?」
「別にいいですよぉ? 先生なら本望ですぅ」
「何じゃそりゃ……」
相変わらず距離感のおかしい奴。
昔からそうだ。
「ったく……」
俺は卓上の目覚まし時計を見る。
針は、まだ朝の5時を回ったところだった。
「まだ5時じゃねえか、どうりで眠いわけだよ」
「はぅ、もうそんな時間……」
朝比奈はがっくり肩を落とす。
「何かあるのか?」
「はい。お仕事がたくさん詰まっていてぇ……」
「仕事か。世界ランカー様は大変だな」
「少しの時間でも先生と繋がることができて、癒されましたぁ」
「言い方」
まったく。コイツは本当に何考えてんだか。
……まあ、疲れが取れたって言うならいいか。
いや、良くはないけど。ぜんっぜん良くはないけど。
そんなことを考えていると、部屋の扉の向こう。
通路を歩く足音がした。
「――ふふ、先生は今ごろ……」
それと、笑いを噛み殺したような声。
俺は朝比奈の方を見た。
朝比奈は無言でふるふる首を振った。
違うらしい。そうだよな。
声は扉の向こう側からしたはずだ。
俺は視線を扉に向ける。
すると、ガチャン、と鍵が回った。
「は?」
扉がゆっくり開く。
「先生の寝顔と、ごたいめ――」
にやついた顔の文月が入ってきて、俺を見た。
次に、奥のベッドの朝比奈を見た。
朝比奈の頭から身体へ、文月の視線が往復する。
「な、何やってるんですかぁあああああ!?」
いや、テメーもだ。




